3
魔法の原理が分かったとしても、なぜ彼が魔法を使うことができるのかは分からない。たとえば、僕は魔法を使うことができない。原理を知っていることと、実際にそれが使えることは別だ。
もう一度隣を見たとき、もうそこに魔法使いはいなかった。影も形もない。現実世界に影はある。仮想空間にはなかった。影は、物体と運動のどちらだろう。光が運動だから、影も運動だろうか。そうすると、仮想空間に影がなかったのはなぜだろう。それだけではない。仮想空間には太陽もなかった。それは、おそらく光だけが存在していたからではないか。
カロがこちらに向かって駆けてくる。
その場に立ち止まって、肩を上下させながら僕を見下ろす。
「満足した?」僕は尋ねた。
カロは動作だけは静かに頷く。
「じゃあ、帰ろう」
「さっきまでいた人は?」
「どこかに行ってしまった」
「君のお姉さんと同じ?」
「さあ、どうだろう」
僕はベンチから立ち上がり、軽く腰を叩く。
彼女と一緒に再び歩き始める。
空は、曇ったり、晴れたりの繰り返しだった。雲が太陽の前を行き来している。その度に温度が上がったり下がったりして、微妙な体感だった。こういう天気も悪くないとは思う。変化は大いに歓迎すべきことだが、変化しすぎると少し困る。
僕も、たぶん急には変われない。お姉ちゃんが死んでしまったり、カロが現れたりしても、僕自身が大きく変わったという感覚はなかった。けれど、なんだろう、身体の内側に、今はなんとなく温かいものがあるような気がする。以前の僕にはそれがなかった。これが成長した証だろうか。
家に到着して、ドアに鍵を差し込む。
しかし、把手を捻っても開かなかった。
おかしいと思って、手もとを見る。
差し込んだ鍵が違っていた。
金色に光る大きな鍵が差し込まれている。
こちら側に開くはずのドアが、唐突に向こう側に開いて、僕の身体はそちらに倒れ込んだ。まずいと思ったときには、もうバランスを崩している。少し慌てたカロの気配を背後に感じたが、振り返る前にドアは閉まった。
僕は、いつの間にか閉じていた目を開ける。
玄関の中。
背後にあるドアの隙間から、橙色の陽光が差し込んで、僕の足もとを照らしている。
ひぐらしの鳴き声が聞こえた。
キッチンの方から、包丁を叩く音、鍋が煮える音、そして、微かに鼻歌が聞こえる。
リビングのドアが開いて、お姉ちゃんが半身を覗かせた。
「あ、おかえり」エプロンを着けた格好で、彼女は言った。「今日、お父さんとお母さん、遅いんだって」
「うん」僕は頷く。
沈黙。
「何してるの? 早く入りなよ」
「うん」僕はもう一度頷く。
靴を脱ぎ、洗面所に入って手を洗う。鏡の向こう側に、茫洋とした自分の姿が見えた。髪が伸び、目もとにかかりかけている。だらしがないと自分でも思う。鏡のすぐ下にある台の上に、コップが四つ並んでいた。そのすべてに歯ブラシが一本ずつ立てかけられている。
上着を脱いで、セーター一枚になる。正面のドアを開けて、リビングの中に入った。
右手にキッチン。お姉ちゃんはガスコンロの前に立ち、片手にお玉を持って鍋を掻き回している。
「おかえり」彼女はもう一度言った。「コンロの電池、変えておいてくれてありがとう」
僕は彼女を直視したまま、分かりやすいように大きく頷く。
匂いから、彼女が作っているのがシチューだと分かった。ホワイトシチューだ。流し台の傍に、魚が入っていたらしい白いトレイが重ねられている。微妙に剥がされたフィルムの表示から、もともと鮭が入っていたと分かった。そうだ。前に一度、鮭の入ったシチューが好きだと彼女に言ったことがある気がする。特別好きではないが、一つ挙げるとしたらそれだと言ったような気がした。
「もう少しだから、待ってて」お姉ちゃんが言った。
「お姉ちゃん、料理できたっけ?」僕は質問する。
「できないけど」彼女は鼻から息を漏らす。「やってみたかったのです。任せなさい」
僕はリビングの方へ歩いていく。軽く畳んでから上着をソファの上に置き、自分もその隣に座った。照明はキッチンの方だけ灯っているから、この辺りは暗い。それを察したのか、お姉ちゃんがスイッチを入れて、こちらの照明も灯した。
左手に硝子扉がある。夏だから、隙間が空いたままになっていた。夏なのにシチューを作っているのか、と僕は思った。そう思うだけで、良いとも悪いとも思わない。お姉ちゃんが作ってくれるのだから、嬉しい、と追加で思慕。
硝子の向こう側に人影が見える。
カロがこちらを覗いていた。
開かれた翼が、休息するように小さく動いている。
僕は彼女を見つめた。
口を開きかけた。
そのとき、お待たせと言って、お姉ちゃんがこちらにやって来る。声を出す前に僕は彼女の方を見た。ホワイトシチューが入った皿を運んできて、彼女はそれをテーブルの上に置いた。それから、別の器にご飯をよそって持ってくる。サラダやスープの類はなかった。シチューを作るだけで精一杯だったのかもしれない。
僕はソファから降りて、テーブルの席に着く。スプーンが用意されていなかったから、一度立ち上がり、キッチンに行って二人分を持ってきた。
スプーンで掬って、お姉ちゃんの作ったシチューを食べる。
「どう? 美味しい?」お姉ちゃんは尋ねた。
どう、ときいたあとに、美味しいか、ときくのであれば、最初の、どう、は何をきいているのかと僕は考える。それはともかく、シチューは一言では形容しがたい味だった。液体の粘度は平均よりも小さくて水っぽいし、ニンジンもジャガイモも火が完全には通りきっていない。鮭も少々生っぽい感じがした。けれど、別に不味いわけでもない。僕は味覚音痴だから、お姉ちゃんの料理が下手なのか、僕の味覚がおかしいのか、そのどちらの割合が大きいのか、すぐには判断できなかった。
「うん、まあ」僕は答える。「食べられる」
「いまいちってことか」そう言って、お姉ちゃんは自分でもシチューを口に運ぶ。「たしかに、美味しくはないな」
客観に寄せた意見だったから、僕は思わず笑ってしまった。お姉ちゃんらしい発言だと思う。それをお姉ちゃんらしいと判定できる自分に、少しだけ驚いた。何を根拠にそう考えるのだろう。少なくとも、これは客観的な判定ではない。
スプーンが食器に接触する音が響く。硝子扉の向こうから、涼しい風が室内に入り込んでくる。
暫く無言でシチューを食べた。
「最近、どう?」お姉ちゃんが口を開く。
「どうって?」
「楽しい?」
「何が?」
「色々」
色々と言われても分からない。自分の周囲では、色々なことが起きたように思えたし、かといって、周囲で起こるすべてのことに興味があるわけでもないから、全然色々ではないようにも思える。
「分からない」僕は素直に答えることにする。「お姉ちゃんは、どうなの?」
「うーん」彼女はスプーンを咥えたまま考える素振りをする。「楽しいって、何だろうね」
「何だろうねって……。自分の方からきいてきたんじゃないか」
「楽しいって、物体かな? 運動かな?」
僕は、スプーンを口に運びかけていた手を止めた。開きかけていた口を閉じ、顔を上げて彼女の方を見る。
お姉ちゃんは、じっと僕を見つめていた。
茶色い目。
赤い目でも、青い目でもないことに、僕はそのとき気がついた。
「魔法使いは、誰だと思う?」お姉ちゃんの口が動く。
「え?」
「本当に魔法を使えるのは、誰だろう?」
僕は答えられない。スプーンを完全に皿に戻してしまった。
「形は違えど、私は、いつだって、君の傍にいるよ」お姉ちゃんは言った。「私という物体も、私という運動も、もう、どこにもないけど、姿を変えて、君の傍にいるよ」
それはもう分かっていた。しかし、なぜ分かっているのだろう? たぶん、それは、魔法使いに聞いたからではない。もっと説得力のある感覚として、僕はそのことを分かっていた。
「魔法は、誰にだって見えるものじゃないよ。魔法を使うのにも、魔法を受けるのにも、それができるだけの条件が揃っていなければいけない。君は、魔法を受けることができる。魔法を見ることができる。魔法を見せられているんじゃない。君が魔法を見ているんだよ」
僕たちの前に、もう、シチューはなかった。テーブルも、部屋もない。どこにいるのか分からなかった。
いる?
空間は、物体だろうか? 運動だろうか?
「私には、物体か、運動か、どちらかに振り切ることしかできなかったけど……。君になら、もっと別の方法がとれると思う。魔法は、魔法なのだから……」
「魔法は魔法という言い方も、魔法だ」僕は言った。
僕の言葉を聞いて、お姉ちゃんは笑ってくれた。
「ほら、向こう」そう言って、彼女は僕の背後を指さす。「あの子が待ってる」
後ろを振り返ると、玄関のドアが中空に浮いていた。その向こう側に人影が見える。
確認するまでもなく、カロだと分かった。
「私は、もうどこにもいないけど、それは、どこにでもいるのと同じ」
お姉ちゃんは、僕の身体を軽く押す。僕はドアの方へ流されていった。
お姉ちゃんの姿がどんどん小さくなっていく。
「あの子は、あの子だよ。でも、もしかしたら、少しは私かもしれない」
背後でドアが開き、僕の身体はその先へと飛び出す。
後ろから腕が伸びてきて、僕の身体を包み込んだ。
カロの浮力に支えられて、僕はゆっくりと宙を進む。
前方で、ドアが閉まるのが見えた。
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