2

 二ヶ月が過ぎた。


 僕の生活は、またもとの有り様に戻ってしまった。毎日人形を作って生活している。しかし、その頻度も前よりは減った。代わりに勉強する時間が増えた。勉強したところでどうなるものでもない。一昔前は、勉強するのは出世のためだという認識が蔓延していたようだが、最近はそうでもなくなった。出生する必要もなくなったのだろう。勉強することで得られるのは、知識でしかない。僕も、たぶんそのために勉強していると思う。純粋に知りたいだけだ。


 お姉ちゃんのことは、よく分からないままだった。彼女が考えていたことも、しようとしたことも、分からない。想像することはできるが、それは想像でしかない。本当のところは彼女に直接きいてみなければ分からない。しかし、きける本人はいない。もっとも、聞いても分からないかもしれない。必ずしも本当のことを話すとも限らない。それは誰だってそうだろう。聞くことで、却って真実から遠ざかることもあるかもしれない。


 僕の家には相変わらずカロがいた。彼女には、お姉ちゃんの、意志、が少々含まれているらしい。意志が含まれているというのはよく分からないが、要するに、お姉ちゃんの行為の結果が反映されているということだろう。


 お姉ちゃんがあの仮想空間に僕を連れてこようとしたのは、純粋に見せたかったからではないかと僕は思った。僕の批判を受けたかったのではないか。少なくとも、彼女は家を出てまであの仮想空間を作り出したのだ。結果的に、太陽の光がデータ化されて、僕はそれを浴びなくて済むようになったが、それが彼女の目的だったかと考えてみると、怪しいといわざるをえない。


 部屋のドアが開く。しかし、何も起こらない。僕は手もとの作業を中断させて、顔をそちらに向ける。


 カロが立っていた。


「何?」僕は尋ねる。


「うん」カロは頷いた。「あのさ」


「うん」


「外に出たい」


 彼女の言葉を聞いて、僕は手もとに視線を戻した。


「出れば?」


「君と一緒に」


「どうして?」


「なんとなく」


「僕は太陽の光が嫌いなんだよ」


「知ってる」


「一人で行くのじゃ駄目なの?」


「一緒に行こう」


 僕は溜め息を吐く素振りをする。


 机の上には木屑が散乱している。木材を擦っている最中だった。手には彫刻刀を持ったままだ。これを片づける必要があるかと考えて、そのままにしておこうと瞬時に決断した。僕にしては最速の判断だったと思う。


 上着を羽織って、僕とカロは外に出た。季節は、たぶんまだ冬で、しかしある程度暖かかった。これからどんどん暖かくなるだろう。暖かくなるのは、太陽の光があるからだ。それ以外に直接的な理由はない。


 敷地の外に出て、僕とカロは歩き出す。


 彼女は時折日の光を浴びないと駄目みたいだった。駄目というのは、生命を存続させるために欠かせないという意味だ。僕も動物には違いないから、やはり陽光を浴びることは必要だ。しかし、部屋の中にいても、カーテンを開けていれば自然に浴びることになるし、直接浴びる必要はない、と考えていた。考えているだけで、本当にそれで良いのかは分からない。こういうのは、考える、ではなくて、思う、といった方が正しいような気もする。


 カロが僕の手を掴んで引っ張り出す。


 自然と駆け足になった。


 カロは、相変わらずカロのままで、だから、お姉ちゃんではない。見た目は似ているが、動きも、考えることも、あまり似ていない。性別も本質的にはないから、相対しているとときどき奇妙な感覚に陥る。僕は何と話しているのだろう、という気になる。それでも、彼女とはなんとなく安定した間柄が継続している。とても良いことだと思う。


 僕はカロが好きだ。


 この、好き、ということを自覚したのは、最近になってからのことだった。


 嫌いではないのではない。好きなのだ。でも、それは、友情とか、愛情とか、その種のものではないと思う。もっと奥が深い。この国の人間は、散る桜を好ましく感じるらしい。僕は桜には興味はないが、それと似たような感じなのではないか、と想像する。


 存在として好きなのだろう。


 しかし、存在しているだけでは駄目だ。動かなければ意味がない。僕の部屋を取り囲む木造の人形とは違う。


 坂道を少し下ると、左手に公園が見えてきた。桜の木が辺りを囲んでいるが、まだ花は咲いていない。緑の葉が所々に見えるだけだ。公園の中央には、恐竜の形をした大きな遊具が設置されている。敷地内には誰もいなかった。向こうの方に立っている時計が、午後三時二十分を示している。


 公園の中に入ると、カロは勢い良く駆け出した。直前で手を離してもらっていたから、僕は走らずに済んだ。両手を広げて、カロは飛行機のように走り回る。ときどき左右に蛇行しながら、灰色の地面の上を移動する。


 寒いから、僕は両手を上着のポケットに入れて、公園の内周を歩き始めた。手袋をしてくれば良かったと思う。桜の木以外にも、ここには沢山の植物があった。どれも上を向いている。これまでとは微妙に違って見えた。その違いは、言葉では上手く説明できない。けれど、なんとなくプラスに見えた。そんなふうに見えるのは、たぶん、僕が人間だからだろう。世界そのものに、プラスもマイナスもないのではないか。もっとも、これが想像の域を出ることはない。


 途中で遭遇したベンチに腰を下ろして、僕はカロの動向を見守ることにする。前方にあるテーブルに肘をついて、掌に顎を載せて辺りを見渡す。普段使っている机と高さが違うから、どのように座ったら安定するのか、すぐには分からなかった。


 隣に、人影。


 肘をついたまま、僕は顔をそちらに向ける。


 魔法使いが座っていた。


「やあ、ご無沙汰」彼は言った。「元気かな?」


 僕は答えずに彼を見続ける。どういうわけか、声を出そうという気にならなかった。喉が狭まっている感じがする。


 魔法使いは僕から顔を逸らして、グラウンドの方を見る。


「カロも、元気そうだ」


「そうですね」僕は適当に応答した。


「こんな生活には、もう慣れたかな?」


「こんな生活とは?」


「カロと二人っきりの生活」そう言って、魔法使いは不敵に笑う。「どきどきわくわくの連続だろう?」


「そうでもないと思いますけど」


「ふうん、そうか」彼は頷く。「なんともないわけか」


「なんともないわけではありません」僕は弁解する。「でも、不思議と不慣れな感じはしません」


「お姉さんの死を受け留めることは、できたのかな?」


 僕はもう一度魔法使いの方に顔を向ける。彼はこちらを見ていなかった。いつの間にかパイプを取り出して、それを口に咥えている。


「彼女は本当に死んだのですか?」


「そうじゃないのかい?」彼はパイプを咥えたまま話す。「それ以外に、どういう可能性がある?」


「死ぬとは、どういうことでしょう?」


「さあね。生きている、の反対かな」


「説明になっていないのでは?」


「当たり前じゃないか。説明する気なんて初めからないよ。そんなことを説明して、どうするのさ」


「僕には、いつもそこが引っかかります」


「言葉で説明するものじゃない。理屈では理解しえないものだ」


「それは、しかし、言葉ですね」


「そうそう。でもね、言葉には形というものが必ずあってね……。普段は形に委ねられた意味に注目したくなるわけだけど、あえて形だけに注目すると、それまで見えていなかったものが見えてくるかもしれない」


「物体と運動は、表裏の関係にある、ということですか?」


 そこで魔法使いは僕を見て、少しだけ笑った。


「そうかもしれない」


 正面に顔を戻すと、カロが雲梯にチャレンジしているところだった。彼女は腕が長いから、ぶらさがっても地面との距離があまりない。易々と端から端まで渡りきり、もう一度逆方向に進み始めた。今度は背中を向けている方へ進んでいく。


「お姉ちゃんが死んでも、物体の量は変わりませんね」僕は発言した。「現に、貴方も、カロも、まだここにいます。けれど、お姉ちゃんの運動は、少なくとも、現実世界からは消えてしまったのではありませんか?」


「彼女の、と限定すればそうだろう」魔法使いは正面を向いたまま話す。「だから、あの仮想空間はルール違反なんだ。その限定されたものを、保存できるように見せかけている。いずれ崩壊することは、彼女も分かっていたはずだ」


 魔法使いは指を鳴らす。その先に火が灯った。彼はそれをパイプへと移す。煙が昇り、葉が燃える匂いがした。


「本来、物体と運動を分けることはできない」彼は言った。「君が言うように、それは表裏の関係にある。どちらが表で、どちらが裏か分からない。だからこそ表裏なんだ。物体が姿を変えれば、それに伴って運動も姿を変える。君のお姉さんが死んで、彼女という物体が姿を変えたら、彼女という運動も姿を変えるはずだ。しかし、あの仮想空間は、その表と裏を無理矢理乖離させて、一方を自らの中に取り込む。そこに無理が生じることくらい、分かるだろう」


「彼女が死んだと思っても、不思議とあまり寂しくありません」


「姿を変えて、どこにでもいるからね」


 魔法使いが吐き出す煙が昇っていく。


 背景がぼやけて、煙にだけピントが合う。


「魔法は、その力を借りているんですね?」


 僕がそう言うと、魔法使いは静かに笑った。


「ご名答」彼は頷く。「今も私達の周囲にある、もとは君のお姉さんだったかもしれないものを借りているんだ」

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