檸檬

Yearning

 親父のことは殆ど覚えていない。国立大を梶井の研究で卒業し、恋人の腹の中にいたらしいあたしの父親になるために婚姻届にサインをして、その五年後に自分で死んだ親父だ。残った記録に対して、記憶はどうしようもなく儚い。親父と交わした会話も、それどころか肉声すらも、もう思い出せない。

 親父に聞きたいことがある。あたしに与えたものが、どうしてなんだ?


「順当に考えて、爆弾じゃない? 檸檬爆弾」

「実の娘に爆弾の名前つける? テロリストでもそんな事しないでしょ」


 ここは京都じゃないし、丸善もない。地方都市の高校の教室で、今は昼休みだ。

 私の目の前で、ゆみこは前後逆にした椅子に跨って頬杖を付く。


「檸檬のお父さんは『檸檬』が好きなんだねぇ」

「いくら好きでも、せめてひらがなとかカタカナにしてほしかったわ。無駄に画数多いから、バイトの履歴書とか自筆で書く時に大変なのよ。小学生の頃、習字でガチ泣きしたもん」

「ウケる」


 何度目かのやりとりだ。もはや定型文と化したその会話を、ゆみこはスマホに目を遣りながら聴いている。

 あたしの机には学生の定番であるミルクティーのパックがふたつ。あたしとゆみこの分だ。本当ならあたしはレモンティー派なんだけど、頭の3文字にくっついた変な意味付けみたいなものが自意識にこびりついて、いつも甘ったるい液体でお茶を濁す。もう呪いみたいなものだ。

 この話をすると、ゆみこはきまって「檸檬ってファザコンだよね」と言う。もう訂正するのにも飽きたから何も言わずに澄ました顔でミルクティーを飲んでいるが、正直複雑だ。何が、と言われると困るのだけど。

 ミルクティーは甘くて薄くて、そのくせ舌に残る。脳に行き渡る糖分を感じながら、手元に置かれた親父の遺品の表紙を眺める。不意に、ゆみこが空っぽになった紙パックを軽く振りながら、同じように表紙を見下ろして呟く。


「なにが?」

。このミルクティーは私の胃の中に収まった。胃の中に幸せが詰まっている」


 短編の一文をそらんじて、自己流に解釈する。言った後にへらへらと笑った。変なやつ。


「檸檬、これ見て」

「何これ、パフェ?」

「そうそう。めっちゃ映えててよくない? 土曜、食べに行こうよ」


 あたしにSNSの画面を見せて、ゆみこは目を輝かせている。ダージリンだかアールグレイだかのフレーバーアイスが乗った、五層構造のパフェだ。透明のゼリーや最下段のチョコソースまでのすべてが煌びやかで、確かに画になる。


「このパフェさ、崩すの勿体なくない?」

「檸檬、何言ってんの? 崩さないと食べられないよ」

「いやいや、これを上から一段ずつ食べていくの!? 縦に食べないと崩れちゃうじゃん。せっかくのバランスとか、調和とか……」

「檸檬は何も変わんないねぇ」


 この世は変なやつの集合体で出来ている。変なやつら同士が寄り合って生まれた中の最大公約数が「ふつう」と呼ばれているなら、ゆみこは外れ値だ。娘にこんな名前を付けて勝手に死んだ親父はもっと外れ値。

 それなら、何かを求めて何度も梶井の本を読むあたしは、もっともっと変なやつなのかもしれない。インクの匂いの中に、あるいはこの本にある言葉のどこかに、親父の面影を探している。


(つまりはこの重さなんだな)


 頭の中で文節がリフレインする。梶井の胸を押さえつけていた「得体のしれない不吉な塊」を幸福に置き換えてしまったのは、ゆみこの言うとおり『幸せの重さ』なのだろう。丸善に置かれた檸檬は、幸せの重さを象徴しているのかもしれない。


(つまりは、この——)


 心が萎んでいく。ママが言うには、あたしを初めて抱き上げた“あの人”は黙りこくったまま固まっていたらしい。触れれば壊れてしまう宝物を扱うように2500グラムの命を抱え、それが放つ熱に驚いたかのように。

 そして、まだ首も据わっていない娘を抱き下ろした直後に、一言だけ呟いたと聞く。


『この子の名前を、檸檬にしてもいいだろうか』


 放課後、あたしはスーパーでレモンを一個だけ買った。ラグビーボールみたいにイビツな形の、鮮やかなカリフォルニア産だ。

 家とは逆方向のバスに揺られ、親父が眠る霊園に辿り着く。命日でもお盆でもない、六月のなんでもない日だ。あたし以外に人はいない、静かな空間。それが妙に心地良かった。

 築十一年の墓は他と比べても新しい。手入れの行き届いた黒い御影石が陽光を反射して、鏡のようにあたしの顔を映した。写真の中の親父とそっくりな顔。柄杓ひしゃくの水をかければ、記憶のようにゆらめいていく。

 彫られた戒名も、生前の本名も、すべては情報でしかない。生まれた時に抱き上げられた話も聞いただけで、それきり抱えられた記憶なんて忘れてしまった。それ以来触れられたかさえ怪しい。思い出せる限りでは、あたしの親父はずっと土の下だ。


 バッグからレモンを取り出す。手のひらに収まる重みが、幸せの重みが、硬い表皮の中に収まっている。

 あの日親父が感じた“重さ”について、あたしの仮説が正しいとすれば。檸檬が「得体の知れない不吉な塊」を置換したのだとしたら。

 ここまで考えて、あたしは呆れた声を作る。土の下か空の上で安穏と眠っている親父に向かって。


「梶井馬鹿、なんで死んだんだよ」


 人生は色々な要素が積み重なって出来ている。きっと、あたしには軸がない。縦に割った時の断層を見てみても、どこかの箇所がスカスカに空いているのだろう。

 レモンを胸に押し当てる。つまりはこの重さなんだな。バランスを欠いたあたしに足りないものは。

 起きろとは言わないけど、どこかで見ていてほしかった。抱きしめろなんて言わないけど、ワガママを突き通さないでほしかった。だから忘れてやらないからな、絶対。


 並ぶ墓石は色彩のトーンに統一感があって、美しい。調和の取れた美しさだと思う。でも、。あんなに求めていた調和が、ひどく退屈なものに思えてしまう。

 あぁ、これか。左手のレモンを親父の墓石の上に積み重ねる。球体の黄色がかすかに揺れ、デコボコした表面は滑らかな御影石と合わさると奇妙なほどアンバランスに見える。

 モノトーンさえ吸い取る鮮やかな黄色を眺めて、ふとこんな事を思う。

 親父も同じ事をしたのかもしれない。わざわざ梶井の命日に死ぬようなやつだ。梶井の墓にまで行って、今のあたしのようにレモンを置いたのかもしれない。その時、どんな事を思ったのだろう。今のあたしと同じような、くだらない事を考えたとしたら。


 あの黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けたのがあたしで、十分後には親父の墓を諸共に大爆発をしたらどんなに面白いだろう。幸せを理解したみたいな顔で寝ている親父が跳ね起きて、苦情を言いに夢枕に立つかもしれない。

 その時は笑ってやろう。あたしはまだ生き続けるよ、って。

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檸檬 @fox_0829

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