12 その土竜、推しをもてなす(前編)

 関口寛乃がその店に来たのは偶然だった。


 「チーム・スピカ」の単独ライブのために断酒していた解禁日。もっとも、この後、「スターライトセレナーデ」の周年記念ライブと配信案件が控えているため、再び断酒期間に入らないといけないのだが、今夜だけは忘れることにする。


 前々からネットで探して、「美味しい日本酒の銘柄が揃って、酒の肴も美味い」と評判の居酒屋をピックアップしていた、その1つ。居酒屋巡りが趣味の自分に向けて、時々、ファンがおススメの店を紹介してくれることもあるが、そうした店には近づかないようにしている。


 ――「アイドル・関口寛乃」のファンには会いたくない。


 1人居酒屋をするのは、「おっとりして、頼りにならないお姉さん」、そんな自分にはめられたペルソナをはぎ取りたいときだから。


 晴菜と彩寧が嫌いなのではない。むしろ、大好きだ。死ぬまでずっと一緒に過ごしたいほど。彼女たちと過ごす時間はかけがえのない時間。


 だけど、時々、無性に1人になりたい時が来る。


 若い女性が1人で入るにはリスクが高そうな店でも、フラリと入る。行ってみると何の問題も無く他にも若い女性の1人客がいて拍子抜けすることが多いが、ヒヤリとしたこともある。


 ――何かあった時は自業自得。


 そこまでいかなくても、酒にまつわる失敗は数えられないほどある。


 「スターライトセレナーデ」に迷惑をかけることは不本意だが、それでも止められない。


 だから、今日も店の扉を開く。


 

 *



 ガラリ。


「いらっしゃいませ。空いている席にどうぞ」


「いらっしゃいっ! それと水餃子、2つ!」


「「はーい」」


 店の扉が開いた音と夕香里の迎える声、注文を受けた直章の声とこれに応える声。それらとともに視野の外れで、伸忠は新しい女性客が1人入ってきたのをとらえたが、一瞬だけ。目の前にある日本酒と料理に注意を惹きつけられる。だから、彼女が店の中を見回して、伸忠の姿を捉えると驚きの表情を浮かべたのに気付くことはなかった。


 ぬる燗に温められた酒を銚子からお猪口に注ぐ。銘は「大洞窟」。発売当初はダンジョン内で採取された酵母で初めて醸造された日本酒として話題になったが、最近はその味からも人気急上昇中。


 お猪口を傾けて、口の中に含むと、ズッシリとした甘みのあるコクの奥に、ピリリとしたスパイシーさがアクセントになる旨さ。炊いたお米のふくよかな香りに、もう1つ別の香りが加わった、奥行きある香り。別の香りは、様々な人がナッツや花やフルーツと様々な物に例えた表現をするが、伸忠を含むある特定の人たち、探索者たちはこう表現する。「ダンジョンの匂い」と。


 箸を取って、取り皿に一口分だけ残った水餃子を口の中に運ぶ。目の前に置かれた大きな丼椀の透明なスープの中には、取り箸代わりの大ぶりなレンゲとともに、まだ餃子がいくつも沈んでいる。先日伸忠が仕留めたアルファロークを使った「狼肉の水餃子」。


 厚めの手作り生地のモッチリ食感と小麦の甘さがまず始めに来ると、間髪入れずに野趣あふれる肉の旨さとふんだんに使われたスパイスが強烈なインパクトを浴びせてくる。


 そこに日本酒の残り香が合わさって、なんとも言えない香りが伸忠の鼻の穴を膨らませ、「もっと食わせろ!」と食欲を刺激して来……。


「すみません。隣の席、よろしいでしょうか」


 女性の声で冷や水を浴びせられた。


 ――他にも空いている席があるじゃないか。

 ――1人でゆっくり楽しみたいんだ。

 ――わざわざ男の横に来なくても、向こうに両隣に女性がいる空いているカウンター席があるじゃないか。

 ――あー。今日は早めに切り上げ……。


 ここまで考えて、


 ――あれ? この声、聞き覚えがある。


 低めで独特のハスキーがかった声。歌を歌えば、しっとりした感情豊かな歌声になるであろう、その声。


 声の方向に顔を向けてみれば、帽子と眼鏡で軽く変装はしているものの、帽子から垣間見える特徴的なグレイヘアとその顔には見覚えがあった。


「……関口……寛乃さん?」


「はい」


 ――マジか。


 笑顔とともに返ってきた返事に、伸忠はそう思うしかなかった。突然の出会いによって混乱する頭と格闘しながらも、視線を彼女の後ろにやると……。


 誰もいない。


 そのことに安堵と寂しさが心に浮かんでくる。晴菜がいないことと、会えないことに。


「隣、よろしいでしょうか?」


 再度投げかけられた問いかけに、だから、つい、余計な一言を付け加えてしまう。


「……あ、はい。私の隣で良ければ」


「ふふっ。伸お兄さんの隣が良いんです」


 返ってきた予想外のストレートな好意の言葉に、思わず伸忠は顔を赤らめ……ることはしなかった。そうした感情が彼の心の中には無かったし、何より、寛乃の言葉に隠されたトゲに気付いたから。


 席に座る寛乃を横目に、視線をずらすと、心配そうに見つめてくる夕香里と万理華の姿が目に止まった。だから、心配する必要はないと笑顔を送っておく。直章と顔馴染みの他の常連客の何人かは面白そうなニヤついた笑みを浮かべていたから、牽制を込めて軽く睨みつける。残念なことに、効果は欠片も無いのは分かった上で。


 視線を戻すと、席に座った寛乃が頭を下げてきた。


「まずは、先日のライブはありがとうございました」


 一瞬、言われたことへの心当たりが思い当たらず、困惑したが、


「……日下さん彩寧の具合は大丈夫ですか」


「ええ。ライブの後、病院に行って診てもらったのですが、どこにも異常はなく。それどころか、これまでのアイドル活動で溜まっていた身体のダメージも全部無くなってしまったようで、最近はレッスンがオーバーワーク気味で」


「……それは困りましたね」


「はい。困りました」


 互いに曖昧な笑みを浮かべる。


 同時に二人の間に沈黙が広がる。




 寛乃は伸忠を非難するつもりだった。なぜ、ライブの最後までいなかったのか、晴菜が戻るのを待たなかったのか、と。


 あの日、足首を痛めて救護室に向かった彩寧が再びステージに戻ってくることはない、とその腫らせた足首を見て思っていた。それが何事も無かったかのように、むしろパワーアップして戻ってきて驚いた。


 ライブ会場に何時もいる人が見当たらず、表には欠片も出していないものの落胆していた晴菜が、彩寧の後から戻ってくると、溌剌はつらつとして輝いていたからまた驚いた。


 曲の合間に入った舞台袖で、2人に事情を聞こうとする前に、


「ねえねえ、救護室に伸にいがいたんだよ。しかも、ポーションをくれて傷も治してくれたんだ。スゴイよね! スゴイ偶然だよね!!」


 そう言う彩寧に、晴菜に視線だけで問いかけると、彼女もニッコリと笑って頷いた。


 そして、ライブが終わった後、誰もいない救護室に絶望して、それでもライブ終了後の打ち上げには鉄壁の笑顔の仮面を張り付かせていた晴菜の姿を、寛乃は間近で見ていた。


 石引伸忠。晴菜の初恋の人で、今でも片思いしている相手。そして、彼女が嘘を吐いている人。


 晴菜が恋する乙女であることは、「スターライトセレナーデ」の関係者なら誰もが知っている。その想いを抱えながらアイドル活動に専念していることも知っている。「一途で健気な彼女を応援したい」とみんな思っている。だけど、晴菜が伸忠と距離を置いている本当の理由を知っているのは、同じ「チーム・スピカ」の彩寧と寛乃、それと社長の薫子の3人だけ。みんなは、晴菜が「伸忠を追って地方から東京にやって来た」と思っている。自殺した兄真嗣の死を受け入れられない両親から、距離を取るために出てきたことは知らない。死んだ兄のふりをして、伸忠とチャットでやりとりしていることも知らない。


 ――会って、全部話してしまえ。

 ――早く、肩の荷を下ろして、次に進め。


 晴菜に対して、はっきり言えば、そう思う。寛乃だけでなく、彩寧も同じ。でも、眼前に横たわる「自殺した兄」というセンシティブなことが、口を差し挟むのを躊躇させる。晴菜に寄り添うことしかできないことに、無力感さえ感じていた。


 だから、単独ライブの裏で晴菜が伸忠と会ったと知って、


 ――チャンスが来た!


 だったのが裏切られた。


 「居酒屋までも」に入って、彼の姿を見つけた時、出会った驚きとともに、


 ――この裏切られた気持ちをぶつけてやる!


 けれど、横に座って、一言だけだけど言葉を交わして、寛乃は感じた。間近に近づいて初めて感じられた伸忠の存在感の少なさ、気迫の無さに。晴菜がチャットしているのを横から見ていた時に感じた頼りがいさを感じられないことはないが、薄いガラスのような割れる怖さも。


 ぶつけようとした気持ちがしぼんでいく。


「……こちらにはいつも来られているんですか?」


「……まあ、ちょくちょく」


 伸忠の戸惑いを寛乃は察する。直前の言葉の裏にはトゲを隠していたのに、トゲを無くして言葉を急に柔らかくしたから、とその理由も察する。


「なら、是非、おススメを教えてください」


 伸忠にハラスメントの被害を受けた過去があることは、晴菜を通じて知っている。


 寛乃も、裏切られ、ひどく傷つけられた経験が有る。恋人と親友に。


 裏切りによってジュクジュクに負わされた心の傷は、寛乃の黒髪を白く変えさせ、


「他人を信用するな」


という教訓を与えた。


 今では、その教訓がであることは分かっている。でも、刻み込まれたそれは、治りかけの傷として、寛乃の心を縛りつけている。


 ――伸お兄さんも心にジュクジュクの傷を負っている。


 自分と同じような空気を嗅ぎ取って、勝手に同類感とシンパシーを感じてしまう。


 寛乃が傷つけられたのは、「スターライトセレナーデ」からデビューする直前。一歩間違えれば、「スターライトセレナーデ」2期生の辞退者は3人ではなく4人になっていた。そうならなかったのは、晴菜と彩寧が寄り添ってくれたから。今も、寄り添い続けてくれる。


 ――だから、自分の心のジュクジュクの傷はかなり治りつつある。


 そう寛乃は自分のことを分析している。


 けど、横にいる伸忠からは心の傷がジュクジュクのままのように見えた。自分の治りつつある2年でも大変なのに、学生時代から8年。その時間の長さを考えると、寛乃の心を寒気が襲う。


 1人でダンジョンに潜っていることも知っている。第10層前後の浅い階層を主戦場にしていることも、配信もしていることも、その配信に全くファンが付いていないことも。第10層前後でのダンジョン探索の収入だけでは生活が難しいこと、探索だけでやっていけるのはより高価値で危険なモンスターが現れる第15層より下でコンスタントに潜らなければならないことも、調べて知っている。


 が、この寛乃の認識は一般的な5人パーティーを組んでいる探索者がモンスターを倒すことだけに集中しているパターンで、ソロの伸忠には当てはまらないことには気付いていない。収入を分けなければならないパーティー探索者と独占できるソロ探索者の違い。加えて、伸忠には様々な副収入がある。とはいえ、晴菜と彩寧も共有している認識から、


 ――伸お兄さんの生活は厳しい。


 そう考えている。しかも、先日のライブで、彩寧に高価なポーションを使わせた。自作だから、流通しているポーションとは違うのは分かっているが、それでも探索者として貴重なものであることは、探索者ではない寛乃たちにも分かる。


 なのに、安くはないチケット代を払って、毎回ライブに来ている。結構目立つから、見つけやすい。座席がある会場なら出入り口近く、スタンディングならファンの集まりの外周部に大体いる。舞台袖に戻った時に晴菜たちと、


「いた?」


「あたし、見つけた!」


 見つけきれなくても、見つけた他の仲間が教えてくれる。そして、具合が悪そうだったら心配して、元気そうならホッと安堵する。


 このように寛乃に透かし見られていることに気付いた様子はなく、伸忠は「までま」のおすすめを教えてくれる。


「おすすめですか。おすすめは、やはり、あそこの『今日のおすすめ』はハズレがないですね」

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