6 その土竜、悪夢を見る
「そんなことも出来ない、このクズ!」
高校卒業後、東京のある私立大学に伸忠は入学した。学部は生命科学系。最初はキャンパスライフを満喫していた。所属した研究室の教授も院生も優しかった。
変わったのは、3年生の時。教授がアメリカの大学に移って、代わりに別の大学から新しい教授がやってきた。
「貴様なんか、大学の恥知らずよ」
新しい教授が
「はん! こんなデータ、認められるわけないでしょ」
徹夜で集めた実験データが目の前で削除された。それでいて、教授とそのお気に入りの院生の手伝いは延々とさせられる。
アカハラで大学当局に訴えた先輩もいたが黙殺された。学部の他の教授に訴えても見て見ぬふりをされた。その教授が大学の理事長の愛娘だったから。週刊誌に持ち込まれて記事になっても、何も変わらなかった。
でも、流石に研究室にいた学生全員が留年になるのは問題があるとされた。
「ほら、白紙を提出しなさい。何も書くんじゃないわよ。学生が書いた文章なんか全部ゴミだから。目を通すの面倒くさい。時間の無駄」
それでOKだった。卒業論文さえも。教授と上手く距離を取って、白紙提出をラッキーとした器用な学生もいたが、
当然、まともに就職活動は出来なかった。出来ないまま、半ば無理やり追い出されるように大学を卒業した。
卒業後、派遣会社に登録して、派遣社員になった。
その最初に派遣された会社でついた上司は、創業者社長の息子で、会社でも有名なパワハラモンスターだった。
「こんな簡単なことも出来ないのか、バカめ!」
派遣会社の担当者に相談しても、無視された。
「本当に大学で何を学んできたのか、マヌケ!」
上司が罵ってくる。
「貴様の責任だ! 分かったか!」
取引先との連絡ミスから取引を止められた上司から責任を
パワハラでメンタルをズタボロにされて、一時は自殺も考えた。
それでも何とか逃げ出すことが出来たあと、伸忠は「探索者」になった。
だから、いま彼が目にしている姿も、耳にしている言葉も、全て、
――夢だ。
過去に起きた出来事がフラッシュバックしているだけ。
「「クズ! マヌケ! バカ!」」
大学の教授と会社の上司が一緒になって罵ってくる。
――夢だ。
分かっているから聞き流そうとするのだが、聞き流せない。伸忠の心の傷からかさぶたが剥がれ落ち、血が流れてくる。
彼らから逃げ出そうと背を向けると、そこには別の男が立っていた。現実には目にしたことがない、目は落ちくぼみ、頬はこけ、痛々しいまでの姿をさらす親友、永妻真嗣。彼は就職した会社のビルの屋上から飛び降り自殺をした。
立ちすくむ。
いつの間にか、罵る声は止んでいた。でも、代わりに、
「なあ、お前はなぜ生きているんだ?」
現実には聞いたことがない真嗣のしゃがれた声が、伸忠の心の傷をさらに大きく
「なあ、俺は死んでいるのに、お前はなぜ死なない?」
「死ぬのが怖いか? 大丈夫だ。ダンジョンに潜った時にちょっと隙を作れ。そうしたら、モンスターがあっさり殺してくれる」
「そうだ。死ね。モンスターに殺されて死ね!」
「散々これまでモンスターを殺してきただろ。さあ、今度はお前の番だ」
聞かないように耳を閉ざそうとするも、身体の自由がきかない。
その間にも、ドクドクと血が流れていく。もう痛みはない。ただ、身体から力が抜けてい……。
ドン。
お腹に衝撃が来た。真嗣の姿が消えた。
下を見下ろすと、1人の女の子が伸忠に抱き着いて、笑顔とともに見上げて来ていた。10歳頃の晴菜だった。今では彼女も21歳である。
高校生の時、真嗣の家にちょくちょく遊びに行っていると、妹の晴菜も一緒に遊ぶことが多かった。こんな妹がいれば誰でもシスコンになる、そんな明るく素直な良い子だった。でも、
『大きくなったら、ノブお兄ちゃんのお嫁さんになってあげる』
なんてことを言われたこともあった。
『おい! 伸忠、どういうことだ』
年の離れた妹を猫かわいがりしていた真嗣が横で聞いていたから、すぐにドス声で、ただし晴菜には聞こえないように囁かれた。
『わかるかよ』
『じゃあ、なんで晴菜がこんなことを言うんだ』
そんなことを伸忠と真嗣が小声でやりあっていると、
『ノブお兄ちゃん、もしかして、イヤだった? 晴菜のこと、キライ?』
涙目になって晴菜が言ってくるから、今度は、
『おい、伸忠! 断ったら、どうなるかわかってんだろな。晴菜を泣かせたら殺すぞ!』
と
もちろん、「お嫁さんになってあげる」の言葉が今でも有効とは、伸忠は欠片も考えていない。
――今では懐かしい記憶。
ただ、それだけだ。
「朝だよ、ノブお兄ちゃん」
幼い頃の晴菜が笑顔とともにそう告げてきた。
伸忠の目が覚めた。
目は見慣れた天井を捉えている。
だけど、夢から醒めても物理的に重い。
視線を動かすと、フェリが伸忠の腹の上に乗って見下ろすように見つめてきていた。「おい、早く飯の用意をしろ」と言わんばかりに。
「わかりました。起きるので、私のお腹から下りてください」
と言うと、お腹の上から床に下りた。フェリが普段いる部屋と伸忠が寝起きしている部屋は隣同士だがアパートの別の部屋だ。フェリの部屋は中から外に出られないようになっているのだが、こうして気ままに出入りしている。先日は右前足に真っ赤な足輪をはめたイエネコがフェリの部屋に入っていくのを見た。「なぜ、そんなことができるか」は考えないことにしている。
――問題が起きた時は、その時はその時。
そもそも、どうして「フェリ」と呼んでいるモンスター「シャドウフェリス」の個体が自分と行動を共にしているのか、も伸忠は分からない。分かっていない。
伸忠がフェリと出会ったのは、彼がまだ探索者として駆け出しだった頃。
5匹のゴブリンの集団との戦闘を終えたら、1匹を横取りされた。死んだゴブリンを口でくわえて引きずっていたフェリを見つけると、フェリは「バレた! しまった!」と目で雄弁に語っておきながら、決してゴブリンを口から離そうとしなかった。
そこでチャンスと伸忠が攻撃していたら、また違っていたが、そうしなかった。見逃した。それ以来、時々、ダンジョンの同じ階層に潜った際には近くに姿を現すようになった。フェリから他のモンスターの接近を警告されたり、共闘するようなこともした。そうした時は必ず倒したモンスターの一部をその場に残すようにした。
それから、また関係が変わったのは、伸忠が気まぐれで猫缶をダンジョンに持ち込んだ時。皿にあけられた猫缶の中身を、フェリは注意深くだけど好奇心たっぷりに見つめ、匂いを嗅ぎ、そして、一口口にした。
その瞬間の様子を伸忠ははっきりと覚えている。フェリの驚きで見開いた目、固まった顔、ブワッと逆立った毛並みと、ピンと上を向いた尻尾を。それからガツガツと猛然と食べ始め、あっという間に食べ終わった。こうした反応を期待して、ダンジョンには無い魚をふんだんに使った高級猫缶をチョイスしていた。
けれど、食べかすを顔に付けたまま「もっとよこせ」と言わんばかりのフェリに、伸忠は苦笑いとともにこう言うしかなかった。
「それだけですよ」
と。「フン! ケチだな」としかとれない仕草をする。
でも、これで終わりだと思っていた伸忠は、地上までついて来ようとするフェリに困惑する羽目になる。
「これ以上ついてくると面倒なことになりますよ」
「上の世界に行っても自由はないです」
そう言っても、フェリは知らんふり。
「他の人間たちに触られたり、色々されますけど、いいんですか」
と言ったら、「お前が何とかしろ」と語る目。
「首輪や足輪をすることになりますが、どうします」
今度は心底イヤそうな目。
こんなやりとりをしていた時に出会ったのが、まだその頃は現役だった直章たちのパーティーだった。
「へえ、面白そうだな。……任せろ! 俺が何とかしてやる!」
事情を聞いた直章によって、あっという間にフェリを地上に連れ出すのに必要な手続きがされてしまった。伸忠は書類にサインするだけ。
その間、フェリは夕香里と万理華にモフられていた。モフられて全身を
実際、直章たちの主戦場は20階層より深いところで、相対するモンスターは伸忠が普段仕留めているモンスターより格段に強い。女性の夕香里や万理華でも浅階層のモンスターであるフェリを造作も無く始末できる。伸忠の気付かないところで、夕香里にキュッと急所を押えられ、上下関係をしっかり叩き込まれていた。それはさておいて。
以来、伸忠のダンジョン探索にフェリはついてきている。なぜなのか、彼なりに理由を考えている。
一番はフェリの性格。気まぐれで食道楽なところ。ダンジョン内は弱肉強食、モンスターの中で食物連鎖が成立している。その中で「シャドウフェリス」は連鎖の中のほぼ中間に位置する。だから、人間の世界に安全地帯を作り、肉体的には脆弱だが知恵と道具で強者に近い
そして、美味いものを食べられること。昨日のように、アルファロークをフェリが単独で仕留めようとすると、かなり苦労することになる。苦労をしても、結局は、他に横からさらわれることも多い。それが伸忠と一緒なら、ほとんど苦労することなくご馳走にありつけられる。
より大きいのは、魚を食べられること。魚系モンスターの存在はダンジョン内で確認されていない。だから、猫缶は必ず魚系の物しか食べない。それも複数種類取り揃えて、その時の気分で食べたいものを選ぶ。フェリの部屋にも自動給餌器が置かれているが、こうして時々伸忠の部屋にやってきて、給餌器にセットされていない種類を催促するのだ。
「では、これですね」
並べた猫缶の中でフェリに選ばれたものを、伸忠は開ける。「早くしろ」とせかす視線を受けながら。
「どうぞ」
中身を空けた皿を差し出すと、猛然とフェリが食べだす。それを確認すると、伸忠は冷蔵庫からストックしているポーションを取り出し、起き抜けの1本を飲み干す。1本当たり価格は……材料まで含めて自作なので0円。使い捨ての容器代は除く。
成立過程の性格から、ポーションはそのレシピも公開されている。中にはパテント料が必要なレシピもあるが、個人で使う分は無料。だから、材料を揃えることができて、それなりの知識と道具、テクニックがあれば、誰でも作ることができる。
でも、
「マズい! もう一杯……なんて言えない! 吐きそう。メチャクチャマズすぎる」
なんて言われるほど、元はモンスターの死骸だから非常に飲みにくかったが、
「……まあまあ、薬なんだからこんなものじゃない?」
くらいまで、最近は改善された。
かつては、探索者が小遣い稼ぎで片手間に作ったものをフリマアプリなどで売っていた。けれど、品質にバラつきがあって、中には全くの偽物が出回ったりしたため、今では探索者が自分で使う分を除いて、国が扱いを取り仕切っている。
お値段、一番安いランク5で5万円也。その効果は、擦り傷が治る程度。それでも、体調維持、健康寿命の長期化に効果があるとして、一部の富裕層には人気があったりする。ランク3以上は供給量が足りずに不足していて、病気や怪我で藁をもつかもうとする人たちが非正規品に手を出して騙されるケースも後を絶たない。ただし、ストレスを始めとするメンタルには、上位ランクのポーションでも効果がほとんど無い。なお、末期がんでも完治させる最も効果が高いランク1の値段は2000万円から天井知らず。
伸忠の場合、曲がりなりにも大学を生命科学系の学部で学んだから、知識とテクニックは持っていた。材料はダンジョンで自分で取って来る。買い揃えた道具が部屋中に散らかっている。
ポーションを飲み干して空になった容器をゴミ箱に捨てると、伸忠も自分の朝食の用意を始めようとする。いつものルーティンワークなのだが、悪夢で受けたメンタルダメージのせいで、食指があまり動かない。用意することすら、
――朝食、抜こうかな。
抜いて、午前中一杯ボーっとしていても、何も問題はない。会社で働いていないから、出社する必要はない。学生でもないから、学校に行く必要もない。ソロで探索活動しているから、パーティメンバーに迷惑をかけることもない。
と、ベッド脇に置いておいた通信端末が作動する。
『おはようございます。朝ですよ。忙しくても朝ごはんはちゃんと食べましょう。そして、今日も一日、素敵な一日を過ごしましょうね』
端末から、晴菜の声が響いた。彼女が直接コールしてきたわけではない。「スターライトセレナーデ」がリリースしているアラームアプリに入っているボイスデータだ。モーニングコールだけではなく、他にも、出かける時刻を告げるものや、夜寝る前のお休みの挨拶なども入っている。ボイスの再生は、1人だけに限定することも出来れば、設定した複数のメンバーでランダムに再生させることもできる。伸忠は推しメンである晴菜とその同期メンバーの計3人を設定していて、今、再生されたのが、晴菜のボイスデータだったということ。ちなみに、利用するには毎月課金する必要がある。もちろん、リリース直後から課金し続けている。
そして、これまでに何度も聞いたボイスデータであっても、
「……分かりました」
独り言を漏らして、「朝食を食べない」という選択肢が伸忠から無くなった。
昔から、アイドルの推し活をしていたわけではない。友人たちの間で流行っているものについては、それなりに追っかけてはいたが、自分から「これだ!」というものはなかった。だから、晴菜のアイドルとしてのデビューライブに行ったのも、「幼い頃を知っている親友の妹の応援」。それ以上の気持ちはなかった。
ただ、このことが沼にドップリとはまるきっかけになった。
健気に、懸命に、歌って踊る晴菜とその同期の仲間たち、関口寛乃と日下彩寧の姿に、伸忠は心を打たれた。晴菜より2歳年上の普段はちょっと抜けているお姉さん、酒が絡むと「ダメ人間」認定されているけど、ステージの上ではしっとりとした歌声でファンを
少しずつ、だけど確実に成長していく彼女たちを見守りたい気持ちが芽生えた。
「親友の妹の応援」は「アイドルへの応援」に変わっていた。ライブなどのリアルイベントには東京近郊であれば必ず参加しているようにしているし、出演するネット配信番組も欠かさず
ただ、晴菜にどう思われているか、が不安の種。もしも万が一、
『ノブお兄ちゃん、キモイ』
などと言われた時には、
――普通に死ねる。
ピーピーピー。
冷凍庫から取り出してかけていた電子レンジのアラームが鳴る。レンジに2個目のおにぎりをかけた後、温まった鶏飯のおにぎりをひと口頬張る。砂糖と醤油がきいた甘めに味付けされたご飯に鶏の脂の旨さが加わる。そこに、鶏の肉の旨味が重なり、ゴボウの食感がアクセントになって、食欲が増すはずなのだが、彼の重く暗い心が味覚を麻痺させていて、食欲がいまいち湧かない。
二口目を頬張る前に、端末を取ってきて、動画配信サイトにアクセス。昨夜ライブ配信された番組のアーカイブの再生を始める。
『はーい! 「セレナーデ通信」始まりました。本日の担当は、私、「チーム・ベガ」所属、徳安萌恵と』
『同じく、「チーム・ベガ」所属、横畑真季がお送りします!』
アイドルグループ「スターライトセレナーデ」は、「セレナーデ通信」と銘打った基本週2回のライブ配信を行っている。内容はファンからのお便り紹介や雑談、時々何らかの企画物をする。出演するのはグループメンバーが持ち回りで担当している。晴菜とその同期が出る際にはリアタイするのだが、それ以外の時はアーカイブで済ませることも多い。
ちなみに、「スターライトセレナーデ」はチーム制を取っていて、オリジナルメンバーは「チーム・シリウス」「チーム・プロキオン」。晴菜とその同期は「チーム・スピカ」。今年デビューしたメンバーは「チーム・ベガ」となっている。
それで、昨晩の配信では晴菜の後輩しか出ないはずだったのだが、
『そして、本日はスペシャルゲストをお迎えしています!』
『私たちの頼れるお姉さん! 「チーム・スピカ」の永妻晴菜さんです!』
『みなさん、こんばんは。「チーム・スピカ」の永妻晴菜です』
それまでのテンション高めの声とは変わって、落ち着いた声が聞こえてきた。
――!!
「わーい! 晴菜お姉さんです!」「イェイ! イェイ!」といったワチャワチャとした歓迎の声をバックに、伸忠は急いで「スターライトセレナーデ」のSNSを確認する。すると、
>本日のセレナーデ通信には
>「チーム・スピカ」の永妻晴菜が特別ゲストとして参加します
>初めての「チーム・スピカ」単独ライブを明日に控えて
>その意気込みをたっぷり聞きます!
>お楽しみに!
の書き込みを発見。配信時刻は昨日の午前中。その時間、伸忠はフェリと一緒にダンジョンの中にいた。ダンジョン内では、ほとんどの通知をOFFにしている。例外は、ダンジョン内で問題が発生した時に送られる緊急通信のみ。だから、今までこの書き込みに気付くことはなかった。
――リアタイを逃してしまった。
悪夢を見たメンタルダメージは、このショックによって上書きされた。
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