第27話 ナンクルナイ
「武琉さん……武琉さん!」
鷺乃宮家の中に朱音の声が響き渡る。
清掃が細部まで行き渡った板張りの廊下を慌てた足取りで移動していた朱音は、やがて裏庭の中央で佇んでいた人影を見つけて安堵した。
「こんなところにいたのですか」
鷺乃宮家の裏庭は白砂が満遍なく敷き詰められ、高い塀の前には何匹かの錦鯉が優雅に泳いでいる純日本風の庭である。
樹齢数十年の松ノ木の手前には、日本人の心をくすぐる風情豊かな鹿威しがあった。
そんな裏庭の中央に影のように佇んでいた人影――名護武琉に朱音は声をかける。
「武琉さん。実はちょっと聞きたいことがあるのですけど」
「それは羽美のことですね?」
最後まで尋ねる前に武琉はあっさりと答えた。
続いて武琉は、肺に溜まった空気をすべて吐き出すかのような独特な呼吸法を行う。
「分かっているのなら話は早い。武琉さんはあの子から今日遅くなる理由を何か聞いていませんか? あの子が連絡もなくこんな時間まで帰らないなんて今まで一度もなかったことなんです。それが今日に限って……」
現在の時刻は午後7時過ぎ。
それに夕方から曇ってきた天気と相まって、空は半紙に墨汁を染み渡らせたような宵闇色に染まっていた。
本来ならば満月の眩い燐光が地上に降り注ぐ月日である。
「そんなに慌てなくとも大丈夫ですよ。羽美の居所は分かっています。今からすぐにでも迎えに行くつもりです」
やけに落ち着いた口調でそう言うと、武琉は開いた両手の掌を胸元で交差させつつ脇腹の位置へ引きつけた。
同時に鼻の穴から吸い込んだ息を肺へ循環、すかさず小さく尖らせた口から循環させた息を長く長く吐き始める。
「居所は分かっているとはどういうことです? それに武琉さんが今着ている服は……」
朱音は武琉が着用している服の正体はすぐに分かった。
すでに他界してしまった夫が、練習の際には必ず着用していた衣服だ。
真っ白な部分に対して黒の線が一つだけ目立つ着衣。
それを見て朱音は一足早く冥土に旅立った夫の言葉をふと思い出した。
この着衣は死地に赴く戦装束でもあり、常に己の死に準じる覚悟を持つ者が着る死に装束を表しているのだと。
やがて武琉は独特な呼吸法を終えて気息を整えた。しばし逡巡した後、武琉は決心したかのように吐息する。
「そうですね。朱音さんに黙っているわけにはいかない」
武琉は何も知らない朱音に、この十分内で自分の身に起こったことをすべて話した。
「そ、そんなことが……」
すべての事情を聞き終えた朱音の狼狽振りは凄まじかった。
血色のよかった肌は見る見るうちに青白く染まり、次第に怒りや悲しみが入り混じったような苦悶の表情が浮かび始める。
「では、すぐにでも警察に連絡を」
朱音は萎える意識に何とか渇を入れ、身体を預けていた壁を支点にして立ち上がった。
そして電話が備えられている場所に向かって歩を進めようとしたが、それに対して武琉は是としなかった。
裏庭から廊下に一足飛びに移動すると、武琉は今にも倒れそうなほど揺れていた朱音の身体を優しく抱き止める。
「いや、さすがに警察はますいと思います。それに証拠もろくに揃っていない現状では動いてくれない可能性の方が高いでしょう。もしも警察が事情を飲み込んで重い腰を上げたとしても、時間的に手遅れになるかもしれない」
武琉の言葉は正論だった。
今から事情を話したところで警察がどこまで信じてくれるのか甚だ疑問である。
ましてや朱音は理事長という立場から警察に学園内を調べられることはできるだけ避けたかった。
良くも悪くも警察が動けばマスコミも動く。
最近、全国的に学校関係者の不祥事が相次いでいる。
その不祥事の中に鷺乃宮学園の名前を連ねさせるわけにはいかない。
しかし状況は極めて最悪だった。
武琉の言葉を信じるならば可愛い孫が窮地に陥っているという。
ならば国家権力の助けを求めるのが妥当ではないのだろうか。
「大丈夫」
羽美のことで頭が一杯な朱音に武琉は穏やかな笑みを向ける。
「羽美は絶対に俺が無事に連れ戻します。それにこういったときを予想してあなたは祖父の申し出を受けてくれたのでしょう?」
「それはそうですけど……」
「ならば俺を信じて待っていて下さい」
朱音の肩を軽く叩いた武琉は玄関口に向かって歩いていく。
「武琉さん」
背中を向けていた武琉に朱音は声をかけた。武琉は歩みを止めて振り返る。
「あの子を……羽美をよろしく頼みます」
50歳は年が離れている武琉に朱音は深々と頭を下げた。
学園の未来と羽美の安否を1人で背負ってくれるというカクレブサーに最大級の感謝と畏敬の念を込めて。
ふっと武琉は顔をほころばせ、
「ナンクルナイ(なんとかなる)さぁ」
と、ウチナーンチュ(沖縄の人間)の気質を表す言葉で応えた。
その後、武琉は黒のトレーニングウエアを羽織って玄関口から外へと出た。
鷺乃宮学園の敷地内に点在する、周囲から隔離されたような旧校舎へと――。
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