第19話   闇の中の真相

 気だるげなチャイムの音が凄く耳ざわりだった。


 それでも起きないわけにはいかない。


 羽美は机に突っ伏していた顔を上げ、口元に付着していた唾液を手の甲でさり気なく拭う。


 四時限目が終了したチャイムだった。


 ぼそぼそと呟くように授業をしていた現国教師が足早に教室から退室し、授業を終えた開放感に満ち溢れていた生徒の大半が昼食を取るために教室から出て行く。


(お昼……どうしようかな)


 教室から出て行くクラスメイトたちを見送りつつ、羽美はそっと自分の腹を撫でた。


 空腹はあまり感じていない。


 今朝は祖母が作ってくれた朝食を平らげたものの、その量はいつもの半分にも満たなかった。


 病気のせいではない。


 ましてや怪我のせいでもない。


 間違いなく、2日前の出来事が原因だった。


 今日は7月の第2週の木曜日。


 教室の窓から見える空模様は、今の羽美の心を映しているかのような灰色に染まっていた。


 天気予報では曇りのち晴れとなっていたが、もしかすると午後から本格的に雨が降ってくるかもしれない。


 それでも羽美の表情に変化はなかった。


 午後から雨が降ろうと槍が降ろうと今の自分には関係ない。


 そんなことよりも今は2日前の出来事に心が奪われている。


 そう、あれは2日前の夜の出来事だった。


 いつものように赤松公園に自主トレーニングに向かったとき、休憩場所も兼ねていた広場で変な格好をした男たちに襲われた。


 素顔は分からない。


 何せ相手はホラー映画でお馴染みのジェイソンとスクリームの仮面を被っていたからだ。


 他にも中学生ほどの少女もいたが、あまりにも仮面を被った男たちの印象が強かったせいか顔が思い出せない。


(一体、あいつらは何者だったのだろう)


 昨日、そして今日と羽美はずっと考えていた。


 自分は誰かに怨まれる覚えはないはずだ。


 確かに学園内では素行の悪い生徒に対して厳しく接したこともあるが、それは一般生徒の模範となるべき生徒会の人間ならば当然の対応だ。


 第一、素行の悪さを注意した程度で襲われるのならばとうの昔に襲われている。


 ならば相手は学園の生徒ではないのか? 


 そう何度も何度も考えてみたが、そうすると余計に混乱の袋小路に嵌ってしまう。


 一体、あの仮面男たちは何者なのか。


 何が目的で自分を狙ってきたのか。


 そして……


「あのとき、何で私は気を失ったの?」


 一番の疑問はそれであった。


 羽美は広場で仮面男の1人――スクリームの仮面を被った男と対峙した。


 よくいえば野試合、悪く言えば喧嘩だ。


 相手の動きを見て一目で格闘技経験者だと判断した羽美は、習い覚えていた空手を使って撃退しようと試みた。


 本来、武術の目的は先人が残した技を身につけ、日常に突如として勃発する争いを沈静化することにある。


 プロの格闘家となってリングに上がることや、日々の健康状態を健全に保つことでもない。


 無駄な争いを極力避け、ただひたすらに研鑽を積む。


 そして、ときとして自然現象のように向こうからやってくる災いに対して素早い対処に臨む。


 それこそが武の本来の姿だと信じてきた。


 だからこそ、あのとき羽美はスクリーム男に対して自分の信念を貫こうとした。


 夜の公園で人知れず行われた野試合。


 結果は羽美の勝ちだった。


 組技系の使い手だったスクリーム男のタックルに、得意の膝蹴りをカウンター気味に合わせたのだ。


 もちろん、その後の記憶も残っている。


 膝蹴りだけでは浅いと感じた羽美は、剥き出しだったスクリーム男の延髄部分に中高一本拳――主に人体のツボを攻撃する拳形――でとどめを刺そうとした。


 もちろん、とどめといっても殺す気は毛頭なかった。


 相手の意識だけを確実に刈り取ろうと思っただけである。


 しかし、結局はそこで意識がぶつりと途切れてしまった。


 その後、羽美が意識を取り戻したのは二時間以上も経ってからだった。


 しかも目覚めた場所は公園の広場ではなく、羽美自身がよく見知った鷺乃宮家の私室だったのだ。


 これには羽美も動揺を隠せなかった。


 なおかつ目蓋を開けた瞬間、おぼろげな視界に武琉の顔がアップで見えたことも原因の1つだっただろう。


 思わず喉が張り裂けんばかりに悲鳴を上げ、武琉の鼻っ柱に正拳突きをお見舞いしてしまったことは今でも鮮明に覚えている。


(そういえば、あいつはどこへ行ったのだろう?)


 羽美はふと教室内をぐるりと見渡してみる。


 何人かのクラスメイトたちが自分の席をくっつけて弁当を広げていた。


 中には1人で雑誌を読みながらパンを食べている男子生徒や、ひたすらに携帯電話を弄くっている女子生徒の姿も見受けられた。


 中にはすでに昼休みに突入したというのに、未だこんこんと眠り続けている男子生徒もいる。


 だが、そんなクラスメイトの中に武琉はいない。


 四時限目が終わったと同時に教室から出て行ったのか、それとも四時限目が始まる前に出て行ったのかは不明である。


 二時限目までは隣にいたことは覚えているが、三時限目が始まってから急に睡魔が襲ってきたせいで後の記憶が曖昧だった。


 普通に考えれば三時限目が終わった後に教室から出て行き、そのまま帰ってこなかったというのが真相だろう。


 転校してきて1週間も経っていないというのによく授業をサボる奴だ。


 以前も羽美は武琉に授業をサボるなと注意したが、どうやら武琉自身には寝耳に水だったようだ。


 おそらく今頃は屋上や校舎裏で昼寝でもしているのだろう。


 聞いた話では沖縄には沖縄時間ウチナータイムというものがあり、1日をマイペースでゆっくりと過ごす気質が沖縄全体にあるのだという。


 確かに地方独特の雰囲気や習慣というものは中々拭うことができない。


 それは羽美自身もよく理解している。


 ただ郷に入れば郷に従えという言葉があるように、生まれがどこだろうと余所の土地にきたのならばその土地の習慣に合わせてほしい。


 それ以上に武琉も高校生なのだ。


 生まれた場所に関係なく学生の本分である学業を疎かにしてはならない。


 それ故に本来ならば武琉を即刻見つけ出し、以前よりも強く注意したいところだ。


 学業を疎かにせず鷺乃宮学園の生徒会役員としての自覚を持て、と。


 それでも今日の羽美には武琉を叱咤するつもりはあまり沸いてこなかった。


 2日前、意識をなくしていた自分を家まで送り届けてくれたのが他ならぬ武琉だったからだ。


 ただし、そのときの記憶はない。


 しかし正拳突きを食らわせてしまった武琉が鼻を押さえながらこう教えてくれた。


 掻い摘むとこうだという。


 その日、自主トレーニングの時間があまりにも長いと心配した祖母は離れに住まわせていた武琉に赤松公園まで羽美の様子を見に行ってほしいと頼んだ。


 武琉は祖母の頼みを快く了承すると、赤松公園までの道程を教えて貰い1人で向かった。


 やがて赤松公園に辿り着いた武琉は、広場ではなく入り口の脇に設置されたベンチに寝かされていた羽美を発見。


 外傷がないことを確認して自宅に連れ帰り、羽美の私室に置かれていたベッドに寝かせた。


 それから2時間ほどが経過した頃、目が覚めた羽美に渾身の正拳突きを見舞われた……というのが武琉の口から聞かされた記憶が欠如した後の出来事だという。


 そして次の日、羽美は祖母に今日は学校を休むように言われた。


 日頃から溜まっていた疲れをきちんと癒すように、と付け加えられて。


 このとき羽美は、祖母にも武琉にも広場での一件を話さなかった。


 なぜ、そうしたのかは自分でも分からない。


 途中から記憶が欠けているせいか、本当に広場で起こったことが現実の出来事だったのか不安になったこともある。


 それに祖母に余計な心配をかけさせたくなかったという思いの方が強かったかもしれない。


 どちらにせよ、羽美は祖母と武琉に公園のベンチで休憩していたら眠ってしまったと嘘をついてしまった。


 すべての詳細を話すのが面倒だったことあるが、一番の理由はしばらく1人でじっくりと今後のことを考えてみたかったからだ。


「ともかくお昼にしようかな」


 羽美は強引に眠気を覚ますため目元を激しく擦った。


 やがて席から立ち上がり、右棟2階にある購買部へと向かうため教室を出る。


 羽美たちのクラスがある二年B組は右棟三階にあるため、左棟一階にある学生食堂よりも購買部へ向かった方が手っ取り早い。


 それに僅かな空腹を満たすためには購買部でパンを買った方がよかった。


 何よりも早くて安価で済む。


 羽美はリノリウムの廊下を進み、階下へ向かう階段の前に辿り着いた。


 そこで――。


「ちょうどよかった。今、呼びに行こうと思ったんだ」


 階段の前で唐突に声をかけられた。羽美は緩慢な動作で振り返る。


 秋兵だった。


 先ほど教室内にはいなかったから、四時限目が終わったと同時に教室から出て行ったのだろう。


「どうしたの? 何だか慌てているようだけど」


 てっきり食堂か購買部にいるものと思っていたのだが、秋兵の手には購買部で買い物したと思われる代物は一つもなかった。


 また食堂で昼食を取ったにしても早い時間帯だ。


 この幼馴染はご飯を食べるのは結構遅い。


 ならば、まだ昼食は取っていないのだろうか。


 秋兵は軽く頭を振った。


「俺のことはどうでもいいんだ。それよりも会長が至急、生徒会室にきてほしいそうだ。何でも火急の用があるんだとか……」


「真壁会長が? 珍しいわね、あの人が自分から私たちの誰かを呼び出すなんて」


 現生徒会長の真壁は自分から会長職に就いたわけではない。


 それでも会長職に就けば内申書に大きくプラスとなると思ったのだろう。


 内心、嫌々ながらも会長の仕事に従事していたことは周知の事実だった。


 そのため、真壁から積極的に生徒会役員を招集するという行為はこれまでに一度たりともなかった。


 各議題のテーマや会議の日取りなんかはすべて副会長の羽身の役目だったのである。


「まあいいわ……で? 会長は何の用があるって言ってたの?」


「いや、俺もそこまでは聞かされていない。廊下で擦れ違った際に呼び止められてね。放送するのも面倒だからと俺に伝言を頼んだんだ」


 なるほど、言わんとすることは分かった。


 羽美はこくりと頷く。


「分かった。生徒会室へ行けばいいのね」


「ああ、生徒会室な」


 羽美は伝言を持ってきてくれた秋兵に別れを告げると、行き先を購買部ではなく生徒会室へ変更した。


 階段を下りて反対側に屹立する左棟の校舎へと向かう。


 ほどなくして羽美は生徒会室へ到着した。


 最低限のマナーとして2回ほど扉をノックして室内へと入る。


 だが部屋の中に足を踏み入れた途端、羽美は視界に映った人物を見て眉根を細めた。


 視線上の先にはパイプ椅子に深々と背中を預け、丁寧に磨かれた窓ガラスを通して灰色の空模様を見つめている男子生徒がいた。


 真壁ではない。


 それは後ろ姿だけでもはっきりと分かった。


 両耳を覆い隠すほど伸ばされた髪に、華奢な身体だということは首元の肉のつき方で判別できる。


「どうしてあなたがここに……」


 羽美は掠れるような声で呟いた。


 直後、二階堂晴矢は外に向けていた視線を入り口の前で佇む羽美に移す。


 羽美と晴矢の視線が綺麗に交錯した。


「以前、君に言われたことを思い出してね。ほら、空中通路で〈ギャング〉どもと諍いを起こしたときだよ」


 その瞬間、羽美の脳がフラッシュバックを起こした。


 そうだ。


 あれは初めて武琉がこの鷺乃宮学園に転校してきた日の……


 数日前の記憶を呼び起こした羽美を見て、晴矢は優雅に足を組み替えた。


「だからこうして足を運んだ次第さ……まあ、それは建前であって本当は君に折り入って話があったからなんだけどね」

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