第18話   その男の正体は……

「おいおい、本当にスタンガンなんて使ってんじゃねえよ。相手は女だぞ」


 傍観していたジェイソン男は被っていた仮面を脱ぎ捨てると、乱れた髪を手櫛で整えながら肩で呼吸しているスクリーム男に言った。


「見てただけの野郎がでかい口を叩くんじゃねえよ。はっきり言ってこの女はてめえなんぞよりよっぽど手強かったぜ」


 スクリーム男は手にしていたスタンガンを地面に置くと、おもむろに被っていた仮面を脱ぎ捨てた。


 口内に溜まっていた血を地面にぺっと吐き捨てる。


 スクリームの仮面を被っていたのは坊主頭の男だ。


 先ほど仮面越しに顔面を蹴撃されたため、両鼻から鼻血が垂れ出ていた。


 着ていたシャツの襟元が血で赤く染まっている。


 〈ギャング〉の幹部である岡田であった。


「俺より強い? それこそギャクだろ?」


 一方、ジェイソンの仮面を脱いだ男は金色に髪を脱色していた内海である。


 この2人は剛樹の命令を受けた後、友人たちとのツテを使って羽美の動向を徹底的に調べ上げた。


 そして羽美が週の何回かは赤松公園で自主トレーニングをしているとの情報を得ると、身元がバレないよう変装道具を用意して襲撃しようと企んだのだ。


 もちろん、ただ暴行するためではない。


 暴行される場面をスマホで撮影し、鷺乃宮学園で〈ギャング〉に逆らわないよう脅迫するために他ならなかった。


「うわ~、こんな可愛い子を本当に犯っちゃうの? 止めた方がいいんじゃない?」


 血沸き肉躍る私闘をすべて目撃していた少女は、スタンガンにより気絶させられた羽美を見て2人に言った。


 しかし、言葉とは裏腹に少女は陽気な笑みを浮かべている。


「仕方ねえだろ。この女は俺たち〈ギャング〉にとって目の上のコブだったんだ。どうせ遅かれ早かれこういう目に遭っていたのさ」


 自分よがりな発言をしたのはジェイソンの仮面を被っていた内海だ。


「それにこいつが次の生徒会長になったら色々マズいしな。下手すると学園内で売り捌いていた〈L・M〉のことも嗅ぎつけるかもしれねえ」


「ああ……それが一番マズイな」


 スクリームの仮面を被っていた岡田が膝に手を添えて立ち上がった。


 ズボンのポケットから取り出したハンカチで鼻先を強く押さえる。


「それにしても日頃から腕っ節の強さを自慢していた野郎が鼻っ柱を折られるとは世も末だな。何だったら病院まで連れてってやるぜ。事が済んだ後でだがな」


「うるせえ、てめえみたいな軽薄な野郎に心配される覚えはねえよ。それに鼻骨は折れてない。血はもう止まった」


 岡田は鼻先を押さえていたハンカチをそっと離した。


 ハンカチには血がべったりと付着していたが、本当に血は止まっていたようだ。


 どうやら羽美の膝蹴りは仮面のせいで微妙にポイントを外していたらしい。


「だったら別に大丈夫だな。じゃあ早速おっ始めるか。おい、ちゃんと動画に撮れよ。あとで確認したときに撮れてませんでした、じゃ済まねえからな」


 内海は撮影係である少女に厳しく忠告した。


 ここまで危険を冒した挙句に徒労で終わったら少女はもちろん内海も岡田も無事では済まない。


「ちょっと待って。今出すから」


 少女は肩に吊るしていたバッグの中に手を差し込み、中に収納していたスマホを取り出そうとした。


 そのときである。


「おい、そこにいるのは誰だ!」


 突如、岡田が前方の闇に向かって高らかに叫んだ。


 少女と内海も岡田が見据えた方向に意識を向ける。


 内海は目を見張って絶句した。


 静かな足音とともに闇の中から姿を現したのは、漆黒のトレーニングウエアを纏った男である。


 それだけではない。


 男は目元を隠すほど目深に野球帽を被っていた。


 ただ正体は不明である。


 内海と岡田は素性を隠すために仮面を被っていたのに対し、野球帽を目深に被っていた男の真意はまったく測れない。


 本当の変質者なのだろうか。


 ゆっくりと近づいてくるトレーニングウエア男を内海は見つめていると、やがてトレーニングウエア男は3人から3メートルほど手前でぴたりと歩みを止めた。


 全身を脱力させた自然体のまま佇み、トレーニングウエア男はぼそりと言葉を吐く。


「このアシバー(チンピラ)ども。誰のイグナ(女)に手を出そうとしている?」


 その瞬間、内海は思わず呆気に取られた。


 トレーニングウエア男はくぐもった声で意味不明な言葉を口にしたからだ。


 どこかの方言だろうか。


「だからてめえは誰なんだよ! 俺たちを馬鹿にしてんのか!」


 そんなトレーニングウエア男に対して、高らかに敵意を剥き出しにしたのは岡田だ。


 今ほど女に顔面を蹴られたせいで気が立っていたのだろう。


 言葉の節々に怒気と殺気を込めてトレーニングウエア男に言い放つ。


「フラー(愚か者)は口で言っても分からないか」


 だが、トレーニングウエア男は岡田の敵意をさらりと流した。


 それだけではない。


 あろうことかトレーニングウエア男は、人差し指を何度も折り曲げて岡田を挑発した。


 まるで文句があるなら掛かってこいとばかりに。


「上等だ!」


 手にしていたハンカチを投げ捨てると同時に、岡田はトレーニングウエア男の足元を狙ってタックルを仕掛けた。


 内海が見た限りでは今までで最速の動きだった。


 地面と密着するのではと思いたくなる低空タックルで、トレーニングウエア男の両足を摑みにかかる。


 3メートルの距離が一瞬で縮まった。


 得意技のタックルから柔道の寝技に繋げる岡田の連携技だ。


 それでも膝でのカウンターを警戒しているのだろう。


 岡田は右手でさりげなく顔面を防御していた。


 これならば結果は概ね予想できる。


 岡田はトレーニングウエア男の両足を刈った直後にすかさず柔道で鍛えた寝技に移行。


 そのまま腕の一本でも関節技を極めて躊躇なく折るだろう。


 岡田はそれができる男だ。


 しかし、内海の予想は完璧に外れてしまった。


 なぜなら、先に攻撃を仕掛けたはずの岡田の顔が車に轢き潰された蛙のように地面に埋まったからだ。


 信じられなかった。


 仮面を剥ぎ取ったことで視界が開け、闇に目が慣れたために岡田がどんな攻撃を食らって瞬殺されたのかが内海は完全に見て取れてしまった。


 踵落としである。


 トレーニングウエア男は顔面を防御しながらタックルを仕掛けていった岡田に対して、膝蹴りではなく踵落としでカウンターを合わせたのだ。


 内海は地面に顔を埋めたまま身体を痙攣させている岡田を見た。


 当然の如く岡田は戦闘不能に陥っている。


 膝蹴りを警戒していた矢先、後頭部に人体の中でも最も固い部位である踵を凄まじい速度で落とされたのだ。


 昏倒するなと言うほうが無理である。


「お前も闘る気はあるか? ワン(俺)は一向に構わないぞ」


 トレーニングウエア男は挑発の対象を内海に切り替えた。先ほど岡田にして見せたように人差し指を何度も曲げて見せる。


「この野郎……調子に乗るじゃねえぞ!」


 仲間の無残な姿を見て内海も瞬時に覚悟を決めた。


 どのみち犯行の現場を目撃したと思われるトレーニングウエア男を黙って返すわけにはいかない。


 何としてでも正体を特定し、それ相応の報いを受けさせる。


 だからこそ内海は得意のボクシングでトレーニングウエア男を倒そうと決意した。


 軽快なフットワークを駆使して近づき、まずは力を抜いた左のジャブで牽制する。


 トレーニングウエア男は内海のジャブを軽く突き出した右手で華麗に捌いていく。


 その姿は実に様になっていたが、ボクシングのパリーと呼ばれる受けの技術ではない。


 それはフルコンタクト系空手の経験者が使用する典型的な捌きだった。


(こいつの得意はフルコンか。だったら顔面への攻撃は慣れていないはず)


 直接打撃制を謳っているフルコンタクト空手は、一般の公式試合でも顔面への殴打は禁じられている。


 そのため手技よりも足技の方が重視され、頭部を攻撃してノックアウトするのもハイキックなどの見栄えがする蹴り技が多いと聞く。


 また内海は路上の喧嘩でもフルコンタクト系の空手を使う人間と戦ったことがある。


 そのときに内海は思ったものだ。


 フルコン経験者は顔面への攻撃と受けが下手だと。


 内海は左ジャブの連打から繋げて右ストレートを繰り出した。


 狙いは顔面。


 しかも相手は野球帽を目深に被っている。


 避けられる確率はかなり低い。


 だが、内海の放った右ストレートはトレーニングウエア男の顔面横をすり抜けた。


 トレーニングウエア男は首を横に捻っただけで右スレートを回避したのだ。


 さすがの内海も動揺した。


 ジャブの連打を受け捌いたのみならず、極力呼び動作を廃した右ストレートまで難なく避けられるとは思わなかったからだ。


 それでも内海は攻撃の手を緩めなかった。


(顔面への対応が完璧ならば――)


 続いて狙う場所はボディである。


 顔面よりも攻撃箇所が大きいボディへの攻撃ならば、何十発ものパンチを浴びせ続ければ絶対に何発かは当たるはずだ。


 ましてや相手のスタイルは空手である。


 さしものボクシング経験者が放ち続けるパンチの連打を全部は捌ききれまい。


 内海は回避された右腕をすぐさま引くと同時にトレーニングウエア男の懐に低く潜り込んだ。


 当然、蹴りを警戒して左腕で顔面を防御するのは忘れない。


 そしてトレーニングウエア男と密着するほど接近した直後、内海はさらに上半身を低く丸め込んだ。


 よもすれば相手の腹部に顔が密着する低さである。


(食らいやがれ!)


 トレーニングウエア男の腹部を注視しつつ、内海は鋭い踏み込みから背中の筋肉を意識してパンチを繰り出した。


 狙いは腹――ではない。あろうことか顔面である。


 このとき、内海は自分の身体全部を使ったフェイントを出していた。


 低く潜り込んだのはそのフェイントを相手により強く意識させ、間髪を入れずにパンチを放つためだ。


 パンチの名前はロシアン・フック。


 かつて総合格闘技の試合においてあるロシア人が使用した独特なフックだ。


 通常の真横から相手の顎を狙うフックとは違い、このロシアン・フックは縦に弧の軌道を描いて相手の顔面を狙うパンチだった。


 これならば当たる。


 フェイントに継ぐフェイントから相手の予測を超える軌道で向かってくる独特のパンチである。


 いくら捌きの技術に秀でた人間でも避けるのは困難。


 そう予想したからこそ、内海はロシアン・フックを繰り出したのだ。


 相手が被っていた鬼の仮面ごと顔面を粉砕する意志を込めて――。


 ゴチュッ! 


 そのような歪な男が聞こえたのは幾拍の後か。


 それでも内海の耳には確かに聞こえた。肉と骨が潰れる耳障りな音が。


 完璧に命中した。


 内海はコンマ数秒の中で自分の勝利を確信した。


 耳に聞こえた歪な音は自分のロシアン・フックがトレーニングウエア男の顔面を粉砕した音だろうと。


「あれ?」


 そんな間の抜けた言葉を放ったのは数秒後のことだった。


 興奮していた身体が徐々に冷え切っていくのを文字通り肌で感じる。


 それだけではない。


 なぜかロシアン・フックを放った右拳から鋭い痛みが走る。


「あれれ?」


 内海は身を低くした体勢から自分の右拳をちらりと見やった。


 すぐに信じられない光景が目に飛び込んできた。


 何と内海の右拳はトレーニングウエア男の顔面を捉えてはおらず、そればかりかトレーニングウエア男がいつの間にか放った右正拳突きが内海の右拳に突き刺さっていたのだ。


 粉砕したのは自分の拳……


 と、ようやく内海の脳が認識した刹那である。


 凄まじい速度の何かが後頭部に落とされた。


 視界の中に火花が煌き、目の前にあった漆黒のライダースーツが完全な闇と同化していく。


 それが意識をなくす寸前の光景だと認識したときにはもう遅かった。


 内海は完全に意識を絶たれて地面に倒れ込んだ。


 瞳孔は完全に開き、半開きの口から涎が垂れ落ちる。


 トレーニングウエア男はカウンターで放った右正拳突きを内海の右拳に叩き込んだ後、同じ右腕の猿臂を内海の無防備だった後頭部に振り下ろしたのだ。


 猿臂えんぴ――つまりは肘打ちである。


 トレーニングウエア男は正拳突きから肘打ちに繋げた右手の感触を確かめると、この場で自分以外の健全者に目を馳せた。


 撮影係として連れてこられた14、5歳ぐらいの少女である。


 そしてトレーニングウエア男は少女にゆっくりと近寄っていく。


 それでも少女は逃げられなかった。


 当然である。


 少女は岡田と内海を葬ったトレーニングウエア男に対して、身も竦む畏怖を感じていた。


 両の膝小僧を震わせ、かち鳴らす歯の隙間から小さな声で「ごめんなさい」と呟いている。


「なぜ、ワン(俺)のイグナ(女)を狙った?」


 死者のように顔を蒼白に染めている少女にトレーニングウエア男は低い声で問う。


「あたしは関係ないの……こいつらが面白いことをするから一緒にこいって……それに動画を撮るだけで2万くれるって――」


「そんなことはどうでもいい。要点だけを話せ。サリンド(殺すぞ)」


 少女は目元を潤ませ何度も首を縦に振る。


「その女を大人しくさせるためにレイプするんだって言ってた。何でもこの2人が通っている学園じゃかなりウザイ存在なんだって……それに〈L・M〉の正体もバレたらマズイからって……だからレイプされる場面を撮影して脅迫するんだって」


 一呼吸後、トレーニングウエア男は少女に向かって右手を差し出した。


「お前はその〈L・M〉を今持っているか? 持っているなら出せ。出さないと」


 少女は血相を変えてバッグの中から煙草の紙箱を取り出した。


 銘柄はラッキーセブン。


 すでに開封済みである。


「この中に普通の煙草と一緒に入ってるわ。それが〈L・M〉よ」


 トレーニングウエア男は少女の手から紙箱を掠め取った。


「ねえ、ちゃんと渡したわよ。だから、あたしだけは無事に――」


 言い終わらないうちに少女の言葉は呆気なく途切れた。


 目元に涙を溜めていた少女に、トレーニングウエア男は容赦ない平手打ちを浴びせたのだ。


 横っ面を叩かれた少女は、悲鳴も上げられないまま地面に倒れる。


「ィヤー(お前)もこいつらと同罪だ。許す価値なんてない」


 トレーニングウエア男は気絶した少女にそう言い放つと、意識をなくしている羽美に近づいていく。


 そして羽美を慎重に抱きかかえると、そのまま赤松公園の出入り口に向かって消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る