第15話 カクレブサー
羽美は自宅の私室で念入りな柔軟体操に明け暮れていた。
上半身は黒のTシャツ、下半身には白のトレーニングズボンというラフな出で立ちである。
『それでは次のニュースです。本日午後三時頃、綾園市美浜町にあるオフィスビルで発砲事件が起こりました。このオフィスビルの2階には城山会系の指定暴力団である磯島組の事務所があり、警察の調べによると暴力団同士の抗争が原因と見られています。なお発砲した犯人は未だ捕まっておらず、警察は付近の住民に対して危険を呼びかけるとともに犯人の聞き込み調査を行っています。また、この発砲事件により磯島組の暴力団員である鹿島浩二さんと竹富喜一さんが胸や腹部を撃たれて重傷、若頭である二……』
テレビから流れるニュース速報をBGMに、羽美は屈伸や股割、軽めの腕立て伏せや腹筋などをして身体を解していく。
どのぐらい経っただろう。
額に薄っすらと汗が滲んできたとき、羽美は柔軟体操を止めて大きく深呼吸した。
椅子にかけておいたトレーニングウエアを摑み、Tシャツの上からきちんと羽織る。
「そろそろ行こうかな」
羽美は首元までジッパーを上げつつ、勉強机の上に置いていた時計を見た。
すでに時刻は午後7時を回っていた。
窓ガラス越しに外を見てみると、すでに空一面は宵闇色に支配されている。
ロードワークに出掛けるにはよい頃合だった。
『……というわけで、付近の住民の皆様は十分にご注意ください。続いて芸能速報です。人気お笑いグループ〈アテンダント〉の1人、田中邦彦さんとグラビアアイドルである武田曜子さんがこの度晴れて結婚することが――』
羽美はリモコンを操作してテレビの電源を落とす。
扉の横に設置されていた蛍光灯のスイッチをONからOFFに切り替え、軽く腕を回しながら廊下へと出た。
天井にぼんやりと点っていた蛍光灯の光を頭上に受け、羽美は木造式の年季が入った廊下を進んでいく。
羽美の私室は1階奥にあったため、L字形をしていた距離の長い廊下を歩いていけばやがて玄関へと辿り着ける。
ただし、これは誰にも出会わなければの話だった。
「あら、羽美さん。こんな時間からお出掛け?」
L字形の角を曲がったとき、唐突に横から声をかけられた。
羽美は足を止め、声が聞こえた方に顔を向けた。
障子で仕切られた和室から1人の老女がすっと現れる。
銀色のような白髪をうなじの辺りで団子状に結い纏め、黒を貴重とした鶴の絵柄が刺繍された和服を着用していた。
152センチの羽美よりも若干高く、背中に鉄芯が仕込まれているのか疑いたくなるほど背筋が伸びている。
鷺乃宮朱音。
齢70を超える羽美の祖母であり、鷺乃宮学園の理事長でもある。
最近はたまにしか学園に顔を出さないが、それでも羽美よりはよっぽど学園について詳しい。
実の祖母ながら色々と謎に満ち溢れている存在だ。
「トレーニングですよ。いつものように赤松公園まで走ってこようと思います。何か文句でもおありですか? お祖母様」
「文句はありませんよ。女子といえども身体を鍛えることは健康にも美容にも大変結構なことです……しかし、こう毎日毎日お一人で過ごされるのはどうかと思いますがね」
着物の袖で口元を隠し、侮蔑とも軽蔑とも見て取れる眼差しを向けてくる。
そんな祖母の心境は腹立たしいほど理解できてしまった。
要するに自分が連れてきた婚約者をいつまで放っておくのか、と言っているらしい。
羽美は心中で舌打ちした。
「自分の家でどう過ごそうが私の勝手です。それに私はあの男が婚約者など微塵も認めていません」
「またそんな意固地になって。羽美さんのような方には武琉さんのような方が将来添い遂げるにはぴったりなのですよ。それに彼のどこが気に入らないというんです。聞けば同じクラスで隣の席、そればかりか羽美さんの一存で生徒会にも入会したというではありませんか。これはやはり羽美さんと武琉さんは前世から固く愛を誓い合った仲だったに相違ありません」
勝手な理屈を並べないでほしい。
大体、前世から愛を誓い合っていた仲ならばもっと以前から知り合っていたはずだ。
などとは思っても口には出さず、羽美はこの場から一刻も早く立ち去ろうと決めた。
このまま祖母の説教(?)を聞いていたらせっかく暖めた身体が冷えてしまう。
「お祖母様がどう言おうが私はあの男とくっ付く気は毛頭ありません。それはお祖母様もよく知っているはずでしょう。私の好みの男は――」
「羽美さんよりも強い男性。それも素手で手玉に取られるほどの殿方でしたっけ?」
覚えているではないか。羽美は大きく頷いて見せた。
「そういうわけであの男は論外です。陽気で人懐っこい性格なのは認めますが、やはり男は心身ともに強くあらねばなりません。顔や学歴など二の次です」
「ならば羽美さんはボディビルダーのように筋骨隆々とした殿方が好みなのですね。それに顔や学歴は二の次と仰いましたが、心身ともに強ければ性格的に破綻していても構わないのですか?」
「いや、それは言葉のアヤというやつですよ。性格的に一般常識を兼ね備えているのは基本です。人様に平気で迷惑をかけるような輩は馬の蹄に蹴られて死んじまえですよ」
羽美は両手の腰に手を添えて仁王立ちした。
この条件は断固として譲れないという堅固な構えにも見える。
「だったら武琉さんは条件を満たしているのではありませんか? 彼の太陽な微笑みを見たでしょう。まるで真夏の蒼穹のように晴々としていて力強い」
確かにそれは認める。
武琉には他の男とは違う稀有な魅力があった。
上手い例えは祖母が口にしてしまったが概ね自分もそう思っている。
あの無邪気な笑みに惹かれる異性は結構たくさんいるかもしれない。
だが、それが自分の婚約者に相応しいかと問われれば話は別だ。
先ほども言ったが、男は優しさと強さが同居してこそ本物である。
「残念ですけど強さに関して彼は不合格です。だからと言って別に喧嘩っ早い男が好きではありませんよ。最低でも相手と自分の強さの差が分かる程度ではないと」
それは今日の放課後のことであった。
頑なに〈ギャング〉たちが屯っている旧校舎に行きたいというから一緒に同行してみれば、武琉は無謀にも本人たちを目の前に寄生虫だの白アリだのと暴言を吐いたのだ。
今思い出しても足元が軽く竦んでしまう。
勇気と無謀の意味を履き違えている人間ほど恐ろしく厄介な人間はいない。
そんな人間と付き合えば苦労するのは目に見ている。
羽美の意見を聞いた朱音は、穏やかな笑みを浮かべつつ苦笑した。
「羽美さんの言いたいことは分かります。確かに現状の武琉さんでは羽美さんの眼鏡に適わないかもしれません。ですが、これだけは覚えておいてください。彼は本物のカクレブサーです。そんな彼が婚約者なのですからあなたは大船に乗ったつもりでいなさい。きっと近いうちに彼の真価が分かるはずですよ」
カクレブサー?
まったく聞き慣れない単語を聞いて羽美は首を捻った。
「お祖母様。そのカクレブサーとは一体?」
羽美が尋ねたと同時だった。
朱音は拍手を1つ打つと、「そう言えばお湯を沸かしっぱなしだったわ」と小走りに浴場に向かっていく。
相変わらず自分本位な人だと朱音の背中を見送りつつ、羽美はカクレブサーという単語を記憶の隅に仕舞って玄関へと向かった。
そして玄関から外に出て前髪を揺らす微風に煽られた羽美は、玄関口でもう一度屈伸をして両足の調子を確かめた。
吐いていたスニーカーの爪先を地面に軽く打ちつけ、一戸建ての家々が犇いている住宅街の中をマイペースで走り始める。
午後7時12分。
向かった先は自主トレーニングを行うには最適な赤松公園であった。
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