第3話 鷺乃宮羽美という少女
今日の運勢は最悪だった。
ゆっくり寝ていたところを祖母に叩き起こされ、朝食を取る暇もなく家から追い出されてしまった。
その折、祖母から「いい年頃の娘がいつまでも寝てるんじゃない。さっさと先方さんを迎えに行け」と怒声を浴びせられたことが今でも腹に立って仕方がない。
だが、それはまだ許せる範疇だった。
祖母が昔気質の剛毅な性格だということも幼少期から身に染みて分かっており、また家を追い出されたときに結構な額の朝食代を貰ったからだ。
ところがどうだ。待ち合わせの時間帯に間に合わせたものの、件の相手は待ち合わせ場所である駅前に現れる気配がなかった。
5分、10分、20分と経過しても変わらず、やがて1時間も待ち続けたときに思った。
もう帰っても構わないな、と。
よく考えてみれば相手を1時間も待たせる人間など常識外である。
ましてや互いに初対面ともなれば待ち合わせの時間に遅れるなど考えられない。
一般常識を持ち合わせた人間ならば、相手のことを考えて10分前には来ることを心掛けるはずだ。
駅前で待ち惚けを食らっていた少女――鷺乃宮羽美は待ち合わせの相手など無視して颯爽と歩き出した。
十数台ものタクシーが停車している駅前ロータリーから50メートル先に点在する私鉄駅に向かって進んでいく。
10メートルほど進んだときだろうか。
突如、羽美は1人の男に呼び止められた。
「ねえ、今暇? 暇だったらどっか遊びに行かねえ?」
年齢は20歳ぐらい。ボサボサの金髪に胸元が開かれた花柄シャツの隙間からは、煌びやかな金色のネックレスが垣間見えた。
下半身には迷彩柄のトレパンを穿き、このご時世にぷかぷかと煙草を吹かしている。
「失せろ、馬鹿」
軽薄を絵に描いたような金髪男を言葉で一蹴した羽美は、男の存在など最初からなかったような足取りで私鉄駅に向かっていく。
それでも相手の金髪男は軽薄ながらもしつこさにかけては一級品だった。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ。いきなり馬鹿はひどくね? これでもこっちは精神誠意対応してるんだぜ」
鼻で笑いたくなった。
いきなりナンパしてきて精神誠意も何もないだろう。
羽美は足を止め、深々と溜息を漏らしながら金髪男に言った。
「あのさ、マジありえないから声かけないでくれる? いい加減こっちも我慢の限界だからさ」
最後に羽美は「自分と同じレベルの女に声かければ?」と捨て台詞を吐いて再び足を動かす。
だが、今度は1メートルも進まずに強引に肩を摑まれた。
「おい、少しばかり顔がいいからって調子こいてんじゃねえぞ。こっちが本気なればてめえみたいな高飛車なガキの一人や二人くらい攫うのなんざわけねえんだよ」
金髪男が態度と言動を豹変させると、最初から打ち合わせでもしていたのだろうか数人の男たちが近づいてきた。
全員が18から20歳ほどの年齢であり、ボーダー風のファッションやストリートカジュアルに身を包んでいる。
「どしたヨッちゃん。朝っぱらから揉め事?」
近づいてきた男の1人が右手を上げながら金髪男に話かける。
「そうなんだよ、ヨシト君。ちょっと声をかけたら馬鹿って言われちゃったよ」
「マジ? それ絶対調子こいてるっしょ?」
そう言うと、ヨシトと呼ばれた長髪男は繁々と羽美を見つめた。
「へえ、中々いいじゃん。十分見れる面だ」
羽美の身体的特徴を確認して淫らな考えを想像したのだろう。
長髪男は口の端を吊り上げて下唇をぺろりと舐めた。
150センチと小柄な体格の羽美だったが、短めの髪をポニーテールのように結っている姿は綺麗というよりも可愛らしさが全面的に滲み出ていた。
それだけではない。
白のタンクトップの上からベージュ色のシャツを重ね着し、紺色のカットソーパンツを穿いている姿はまさに夏先取りといった印象が窺えた。
それに加えて童顔ながらも日本人形のような端正な顔立ちも相まって、場所が場所なら芸能事務所の人間にスカウトされてもおかしくない容姿である。
だからこそ男たちの目に止まったのだろうが、目の前の少女の性格までは外見から推測できなかったのだろう。
長髪男は何の躊躇もなく羽美の制空圏内に侵入する。
「俺たちこいつのダチなんだけどよ、そのダチを馬鹿にされたらこっちも引けないわけ。だから分かるだろう? ほんのちょっとでいいんだ。俺たちに付き合って――」
その瞬間、我慢の臨界点を突破した羽美の右足が信じられない速度で動いた。
棒立ちだった長髪男の左太股に渾身の下段回し蹴りを繰り出す。
ドズン、という重苦しい音が響き、下段廻し蹴りを受けた長髪男は顔を歪めて地面に膝をついた。
もちろん羽美はこの絶好の機会を見逃さない。
自分と同じ目線の高さになった長髪男の髪を両手で摑むと、真下に引き寄せつつ跳ね上げた左膝を顔面に突き刺した。
「あぶばあっ!」
鼻骨を膝蹴りで粉砕された長髪男は、くぐもった悲鳴を上げてのた打ち回る。
「て、てめえ……ぶっ殺されてえか!」
仲間が瞬殺された光景を見て、身体を強張らせたのは金髪男である。
完全に腰が引けた状態にもかかわらず羽美に対して怒声を吐く。
しかし、そんな金髪男の威嚇など羽美にとっては蚊の羽音に等しかった。
羽美は地面を滑るような運足を駆使して金髪男の間合いに一気に侵入すると、がら空きだった金的目掛けて蹴りを放つ。
前蹴りのような直線的な蹴りではなく、真下から相手の睾丸を潰すつもりで放った蹴り上げであった。
深々と金的を蹴られた金髪男は顔面を蒼白に染めて悶絶。
顔を鼻血で真っ赤に染めて転がり回っている長髪男とは対照的なダメージである。
「だから言ったでしょう。自分と同じレベルの女に声をかければって」
自分よりも頭一つ分は背が高い男二人を瞬殺した羽美は、残っている他の男たちを冷やかな目で睥睨した。
そのときである。
羽美は自分たちを中心に野次馬ができていることに気がついた。
スーツを着たサラリーマンやOL、普段着や学生服を着用した人間たちが物珍しいアトラクションを見物するような目でこちらを見つめている。
(これはちょっとヤバイわね)
さすがの羽美も見物客の多さに頭を痛めた。
こちらから手を出した手前、警察官に正当防衛は主張できないだろう。
さすがに目撃証人が多すぎる。
ましてや街中で喧嘩沙汰を起こしたことが祖母の耳に入れば、鷺乃宮家の名に傷を付けたと殺されかねない。
なので羽美は一刻も早くこの場から遁走しようと思った。
雑居ビルの路地裏にでも逃げ込めば難なく撒けるだろう。
と女子高生とは思えない思案を巡らせたとき、周囲の野次馬たちから悲鳴と怒号が沸き起こった。
「ちょっと……さすがにそれは勘弁してよね」
羽美は悲鳴の原因と思われる一人の男に顔を向けた。
毬栗頭で右耳にピアスを空けていた男は、衆目の只中にいるというのに何の躊躇もなく懐からナイフを取り出した。
それは殺傷能力の高い、サバイバル・ナイフであった。
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