第6話 絵のモデルをする・日本は本当に後進国です

「双子というのは本当に不思議ですね、同じ魚の夢を見られるとか」

 そんなことまで兄さんは話したのか。



 今日から、いやいや保坂さんの絵のモデルを務めることになり、一張羅を着せられて椅子に座っているのでした。

 今日は母さんが出かけているので、モデルはできないと一度は断ったのですが……。


「チビ達の世話は、俺がする。座ってるだけでいいんだから」


 そう兄さんに言われ、朝からずっと洗濯をしていて疲れていたので、弟妹達の世話よりは楽かと思い、引き受けることにしました。

 今頃兄さんはきっと自作の童話を読み聞かせでもしているのでしょう。

 私も聞きたかったのに。



「ユングの夢判断では、魚は自我意識を自由にしようとする試みだとか。

 心の奥に秘められたエネルギーや感情、可能性の象徴で、魚を捕まえて食べる夢は、可能性を手に入れる事なんだそうです」


 あの三毛猫が、可能性を手に入れた象徴?


「さすがお医者様。でも夢判断はフロイトの方が、先駆者ですわ」

「フロイトときましたか。並の女性ではこうは返せません。さすが寛治くんの妹さんだ」


「双子ですもの、ちょっと間違っていたら姉だったかもしれません。

 私、イギリスの『シェイクスピア物語』の著者のラム姉弟のように、一生兄を支えて生きるつもりでいますの」


「そんなふうに埋もれた生き方は、あなたにもったいない。

 平塚雷鳥も、与謝野晶子も結婚なさってましたよ。

 ノーベル賞をもらったあのキュリー夫人も」


「ええ、キュリー夫人。マリー・キュリーではなく、〝夫人〟。いつでも女は男の付属物。

 なら、せめて自分の好きな相手を選ぶ〝NO〟 と言う権利くらい頂きたいものですわ」


「本当に聞いていた通りの方だ。寛治くんは、あなたの話ばかりします。

 それも掌中の珠のように大事に大事に語られる。

 それを聞くうち、どうでも一度お会いしてみたくなった。


 だから寛治くんに無理を言ってあなたを描かせてもらいたいと、頼み込んだのです」


「あら、会ってみてどうでした? 

 ガッカリなさったでしょ、こんな生意気で」


「いいえ思った通りの方でした。真っ直ぐで、裏表がなくて。

 寛治くんが大学の寮に入った時、僕は室長をやってて、寮の懇親会の出し物を考えてたんです。

 その時彼の書いた小説を読んで感動して、その話を劇にして上演したんですよ。


 全能の神(太陽)と、全智の神(宇宙)と、恵の神(星)と人間たちの掛け合いで物語は進むんです。寛治君には、宇宙の役で出てもらいました。その台詞がいいんですよ。


『人間よ 黒い黒い闇の夜に立たねばだめだ。

 そしてその中に智の色が数千も光っているのを見止めねばだめだ。

 いばり好きの人間たち 智を求めよ 智を 天輝く星を望め

 自分の歩みし道を憶えよ 古を憶えよ』


 暗闇こそが知恵の前提となるという発想は、ヘーゲルにも通じます。

 純粋で真っ直ぐで、日頃は大人しいのに、内に情熱を秘めていて。

 寛治君の作品は、僕のそうなりたいという理想像そのものなんです」



 この人は、私の知らない兄さんを、たくさん知っているのだ。

 なんだか憎らしくなってきました。昨日の夢みたいにパクリと食べてやろうかしら。


「ところで、『赤い鳥』はもう読まれたでしょう。

『花物語』も良いけれど、ああいうのも良いと思いませんか?」


 吉屋信子の「花物語」は、一九一六年から少女画報に連載されて

 女学生達に熱烈な支持をされている作品でした。


 芸術の表現者として女性が認められにくい時代でしたが、明治に入り女学校が出来てから女性の読者層が生まれ、女の子を対象とした少女小説が新分野として生まれたのです。


 赤い鳥もまた「児童文学」という新分野を開拓せんと、鈴木三重吉がつい先月創刊した雑誌でした。

 新たなパラダイムは多くの作家を魅了し、翌年には「金の船」「童話」などの雑誌が続々と生まれ、のちに一大ムーブメントを巻き起こすのです。


 各雑誌には投稿欄が設けられていて、私も投稿するつもりでいたのです。


「ええ、子供向けの綺麗な本ですね。

 お陰で八歳の妹のシゲは、杜若の紫の振袖が欲しいと、母にねだってます。

 肩上げしてるおチビのくせに」


「泉鏡花ですね。

『あの紫は、お姉ちゃんの振袖。一つ橋渡れ。二つ橋渡れ。三つ四つ五つ。

 お姉ちゃんの歳も 六つ七つ八つ橋』

 綺麗な歌じゃないですか」


「でも、あれを見た日本中の八つの女の子が、みんな杜若の振袖を欲しがるんじゃ、親はたまりませんわ。

 そのうえ職業婦人になりたい、タイピストがいい、バスの車掌さんもいいとか言い出すし。

 本当に子供って何にもわかってない」


「現実的なんですね。もっとロマンのある方かと思いましたが。

 アンデルセンの『天使』なんかとても良かったでしょう?」


 アンデルセンの「天使」は、死んだ子供が天使になって神様のために花を集めるお話。

 花は神様のキスで歌を歌うようになるという、大変きれいなお話です。

 いかにも育ちの良さそうな保坂さん好みの話。


 本当は私も好きな話でしたが、同意するのが癪に触ったので、私は別なことを言い出しました。


「でも、子供が『天使』なんて嘘です。あれって男の方の綺麗ごとですわ。

 おむつを替える時や、夜泣きして寝てくれない時は悪魔に思えます。

 子守唄にあるでしょ、『寝た子のかわいさ、起きて泣く子のねんころろ、面憎さ』

 昔の歌の方が本当があるわ」


「でも、寝顔は天使ですよね」


「そうやって都合のいいところだけ見て、綺麗ごとばかり並べる。

 見たいところだけ見て、都合の悪いところは見ないふり。

 それが男の理解の限界です。

 現実を直視する勇気がないんです。

 女にはあります、女が弱かったら子供なんて育てられません。

 現実を無視した甘ったるい詩なんて無駄なだけよ」


 なにを言ってもさらりとかわされて、私はだんだんムキになっていました。



「朝、粥四椀、ハゼの佃煮、梅干砂糖漬け。

 昼、粥四椀、鰹の刺身一人前、南瓜一皿、佃煮。食後梨二つ。

 二時すぎ、牛乳一合ココア混ぜて。煎餅、菓子パン十個ばかり。

 夕、奈良茶飯四椀、なまり節、茄子一皿。食後梨一つ」


「え? 何なんですか、それ」


「正岡子規の『仰臥漫録』です。あんまり腹が立ったので暗記しました。

『食後クレオソート、水薬、健胃剤。この頃食いすぎて食後いつも吐き返す』

 吐くくらいならなんで食べるんですか! 食事はタダじゃないんですよ。

 今、お米がいくらすると思ってるんです! 

 貧しい人はご飯におからを半分混ぜて、やっと凌いでるのに」


 ◇


 一九一四年に始まった、ヨーロッパの全土を巻き込んだ世界大戦。

 七月十七日に、ロシア皇帝ニコライ二世とその家族が革命軍に銃殺されました。

 戦争はまだ続いており、軍事物質の輸出により日本経済は空前の好景気でした。


 けれども恩恵を受けたのは一部の資本家だけ。

 その後のシベリア出兵に先駆けて、投機目的の米の買い占め、売惜しみが起こり、米の価格は四倍にもなっていたのです。


 今年七月、富山で、女たちが米の安売りを求め立ち上がり「女一揆」だと新聞に載りました。

 世にいう「米騒動」の始まりです。

 この騒動を新聞は煽り立てて、八月十日に名古屋・京都。その後も止まることなく大阪・神戸・東京へと拡大していったのです。



 ◇



「なのに男ときたら。

 苦労して食事を作って、ゲロの始末までしてる妹さんを

『律は理詰めの女なり。同感同情のなき木石の如き女なり。

 義務的に病人を介抱することはすれども、同情的に病人を慰むることなし。

 ――病人のそばには少しでも長くいるのを嫌がる』


 医者なら、病人の世話がどんなものか分かるでしょう! 

 いえ、わからないわね。

 それは看護婦の仕事、お医者様の仕事じゃなくて、女の仕事ですものね。


 母も、ずっと寝たきりの祖父を世話してました。

 卒中でろくに口が回らないくせに、母が自分のいうことがわからないと言って、暴れて殴るんです。 

 鬼みたいに食べて、鬼みたいに垂れ流してました。


 食べたら、それだけ出るんですよ。

 臭くて臭くて、母以外誰もそばに寄り付きませんでした。

 母はそれに三年耐え抜いたんです。これが女の仕事です。

 現実はきれい事じゃないんです。


 今年の二月にはイギリスで女性の参政権が得られたというのに、日本じゃいつまで経っても女は男の奴隷。

 基本的人権があるのは男だけ。

 女はいつまで経っても人間扱いされません、日本は本当に後進国です」

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