第5話 混乱 ★アボット伯爵家side
一方その頃。
アボット伯爵家は、混乱の渦中にあった。
「もう! 何ですの、怪盗シリルとかいう不遜な輩は!」
「落ち着きなさい、ドリス。貴族のレディたるもの、いついかなる時も取り乱したりしてはならないと、普段から言っているでしょう?」
伯爵家の輪の中心にいるのは、怒りをあらわにする娘と、それをたしなめる母親。つやめく黒髪と、紫水晶の瞳をもつ、似たもの
「ええ、申し訳ございませんわ。けれど、お母様は腹が立ちませんの? あの輩のせいで、デイヴィス子爵家から結婚支度金の返済と、慰謝料を請求されているのですわよ?」
「あらあらドリス、いけないわ。わたくしたちがまず一番に心配しなくてはならないのは、セレーナの身の安全でしてよ?」
「そうでしたわね、お母様。つい口が滑りましたわ」
セレーナの継母アマラと義妹ドリスは、そう言ってうふふ、おほほ、と笑う。それを見て、セレーナの実父であるアボット伯爵はため息をつく。義弟ライリーは、怖いくらいの無表情で、何かを考えている様子だった。
「わたくしたちの
「ええ。返済期限はひと月……支度金はもう残っていないから、
「わたくしも同意見よ。……ああ、誰かセレーナの行方を探しに行ってくれる者はいないかしら? そうしたら特別手当を出しますことよ?」
アマラがそう言って周囲を見回すと、一人の使用人がおずおずと手を挙げた。
「まあ、おまえ、行ってくれるの?」
「いえ……その前にお伺いしたいのですが、その特別手当、前借りでいただくことはできませんか?」
「なんですって?」
アマラがその使用人をひと睨みすると、「ひっ」と小さく悲鳴が上がり、挙がっていた手は引っ込んだ。
「特別手当の支給は、セレーナを連れ戻した者にだけ出すわ。当然、後払いよ。誰か行く者は? もちろん、いるわよね?」
しん、という静寂が室内に満ちる。ややあって、使用人たちはアイコンタクトを取り始め――、
「私が」
「……私も」
「自分も行きます」
想像以上にたくさんの手が挙がり、アマラは満足そうに頷いた。
早速使用人たちは、
彼らの荷物の中には、自分の全ての私物が入っているほか、なぜか伯爵家のギャラリーに飾られていた美術品や、高価な皿などが詰め込まれてゆく。
パンパンになった荷物を背負い、ひとり、またひとり。
怪盗シリルが飛んでいったという南の方角へ向かった者は、誰一人いなかった。
*
もうこれ以上はアボット伯爵家の甘い汁を吸えなくなる。
それを察知した使用人たちが屋敷から出て行くのを、ライリーは部屋の中から、ただ眺めていた。
使用人たちに忠誠など皆無だというのは、ライリーにもわかりきっていた。
ライリーにとっては、アボット伯爵家の金が尽きることも、使用人が不足して屋敷の状態が保てなくなるであろうことも、どうでも良い。
「……
無表情のままぽつりと呟いたライリーの、紫色の瞳には、昏い炎が宿っている。
ライリーは剣をとり、マントを羽織ると、少ない荷物を持って厩舎へと足を向けた。
向かうのは、南の方角である。
*
「ああ……セレーナ。どうか無事であってくれ」
この家の中で唯一、セレーナを案じている人間――アボット伯爵は、自分の部屋に戻って、うろうろと一人で歩き回っていた。
体の弱かった前妻の忘れ形見、たったひとりの実娘だ。気にならないわけがない。心配しないわけがない。それは、以前からずっとそうだった。
だが、アマラの実家であるゴーント侯爵家から、「何よりもアマラを尊重しろ。さもないと――」と脅しをかけられていたアボット伯爵は、娘の窮状に、見て見ぬふりをすることしかできなかったのである。
せめて離れに近づけない自分の代わりに、密かに彼女を助けてくれる者がいなくてはならない――そう思い、アマラが嫁いでくる前からセレーナと特に仲が良かった二人の使用人に、大切な娘を守ってくれと頭を下げたのだ。
二人はそもそも、伯爵家ではなくセレーナ自身に恩義を感じている身だ。彼らはセレーナを心から案じ、彼女に尽くし、よく働いてくれた。その甲斐あって、セレーナの笑顔も、徐々に戻りつつあった。
しかし、伯爵が視察のために屋敷を離れている隙に、ジーンは人買いの商人に売られてしまった。ダークブルーの髪に金色の瞳という、見目の良い少年だったから、高く売れると思ったのだろう。
もう一人の使用人ダブは、白い髪と赤い瞳という、他者から敬遠される色合いをもつ少女だったため、人買いに売られることはなかった。だが結局、ダブも忽然と姿を消してしまい、いまだ行方がわかっていない。
ここ数年、彼女はたびたび大怪我をして、身体中に包帯を巻いていた。そのため、彼女がいなくなった時には、伯爵の頭を最悪な想像がよぎった。
「ああ……私が不甲斐ないばかりに。すまない、セレーナ。すまなかった」
謝っても、もう、取り返しがつかない。
アボット伯爵は、娘を失ってようやく、覚悟を決めた。
「こうなったら、私の取る道は一つしか残されておらん。……最後に、伯爵としての責任を果たさねば」
伯爵は、急いで旅支度を始めた。
――事前に用意していた書類と、アマラの目から隠していた貴金属をすべて、信頼する家令に託して。
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