第2楽章  白日

幕間 Ⅰ.

 

 あれはもうずっとむかし。

 まだ私が《あの子》だった頃。

「くしゅっ」

 不器用なくしゃみをしたあの子に、姉が顔を覗き込んだ。

「あらあら。だいじょうぶ?」

 言いながらあの子のマフラーを巻き直してあげる。

 控え目な雪が降り始める時期。

 空を見上げると、何だかすべてが吸い込まれそうな気持ちになる。

「んん、平気」

「ふふ。そう?」

 姉は微笑んであの子の頭に手を置いた。

 ふたりは手を繋いで街路樹の下を再び歩き出した。


 街を歩く人影は疎ら。

 頬を氷のような風が包む。

「ね、お姉ちゃん」

「うん?」

「ずっと一緒にいてね」

 どうしてそんなことを言ったのか。

 あの子自身も分からない。

 ただ、まだ何度も経験していない冬の寒さに——或いはそんなことも関係なしに、ふっとした瞬間に言い知れない不安や寂しさを覚えたのかもしれない。


 その言葉がどう聞こえたのか。

 姉は虚を突かれた顔をしたあと、泣きそうに眉を寄せた。

「うん。もちろんだよ」



 正体不明の化物。

 まだ禍鵺マガネという呼称も産声を上げる前、そいつらに人々は襲われた。

 まともに軍や政府が対応を取るより早く、大勢が犠牲になった。あの子たちの両親もそのなかにいた。

 保護者を失い、あの子と姉は住処もなくした。

 それでも年の離れた姉は母親同然に、あの子を守ろうとした。

 何とか方々を回って安いアパートを手に入れ、そこでしばらくふたりで住んだ。壁は薄くて隣の声が煩いし、玄関もトイレもカビ臭い家だったけれど、不思議と嫌いじゃなかった。愛着さえあった。

 姉が一緒にいてくれたから。

 きっとどんなところでも。

 この人が傍にいるなら、へっちゃらに思えた。



「やぁ、よく来たね」

 雑居ビルの二階。

 薄暗い廊下の先で、チャイムを押すと男が扉を開けた。

「待ってたよ。さぁ遠慮なくあがって」

 妙に馴れ馴れしく、明るさのなかに時折鋭い視線を走らせる。姉よりいくつか年上に見えた。

 玄関口で立ち竦むあの子の前で、姉は男と親しげに話していた。どうやら初対面じゃないらしいことはあの子にも分かった。


「ごめんね、エリちゃん。驚かせちゃった? これから私たちはこの人と住むの。大丈夫。いい人だから。化物に襲われた人を保護したり救助したりしてる団体の人なのよ」

「まぁ、いきなりそう言われてもだよな」

 男が黒髪を掻きながら話し掛けてきた。

 姉との間に割り込んでくる。

 それだけで何か言い知れない厭なものが胸を浸した。

「もしかしてお姉ちゃんを取られると思ってるんじゃないか?」

「そんなこと……」

「その年頃なんだ。そう思うさ」

 男は上から手を差し伸べてきた。

「大丈夫。お姉ちゃんを奪ったりしないから。エリちゃんだっけ? これから宜しくな」



 姉は彼を『レイ』と呼んだ。

 詳しいことは知らない。知りたくもなかった。

 あの子は初めて会ったときからその男が好きではなかった。

 別にどこが嫌いというのでもないのに。

 男は最近新設された、天代てんだい守護しゅごという組織に属していた。禍鵺出現以降、禍鵺に対抗したり避難民を救護したりする役割を担っていたらしい。姉は住処の相談の際に男と知り合い、親しくなったようだ。

 まだ前の家のほうがよかった。

 安いアパート暮らしだったけど。

 ここより狭くて煩い場所だったけど。

 この部屋に来てから途端に世界が暗くなった気がした。きっとここは、自分の居場所じゃないんだという気持ちがずっとあって。

 それなのに——

 男と一緒にいる姉は何だかとても楽しそうで。

 あの子は急に姉が遠くなった気がした。

 あの頃に戻りたい。

 姉とふたりきりだったあの頃に。



「それじゃ、私、行ってくるね」

 ベッドで寝ているあの子に、姉は声を掛けた。

「いい子にしててよ」

 あの子の返事も待たず、外へ出て行ってしまう。

 住処を得たと言っても貧しいのは変わりない。姉は朝から働きに出なければならなかった。いま思えば、姉もまだ未成年だったろうに、年齢を偽っていろいろ働いてくれていたんだと思う。

 姉がいなくなって部屋が静かになった。

 また雪が降っている。

 窓の外が白い。


「起きてるか?」

 部屋の扉を開けて、男が言った。

 身を起こすあの子をじっと見て、男は言う。いつもより低い声で。

「出かけるぞ」

「どこへ?」

「ついて来れば分かる。支度しなさい」


 男に手を掴まれて、あの子は外に出た。

 街を歩く人影は疎ら。

 頬を氷のような風が包む。

 無遠慮に雪の降り積もる時期。

 地面を見て、何も考えないように歩いた。


 あの頃私は何も知らなかった。

 世界がどういうふうにできているのかも。

 どうして自分がそこに存在しているのかも。

 どうして姉が自分に優しくしてくれたのかも。

 何もかも。


「くしゅっ」

 小さくくしゃみをする。

 男が黙ってあの子のマフラーを直してあげた。

 何か言いたげにじっとあの子を見つめて。

 ぽつり、と雪に溶けるような声で呟く。


「ごめんな」

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