【肆ノ肆】

 新しい家の可愛いドアを開けるなり、アレクが駆け寄り、聞いてきた。


「お医者さん、なんだって?」

「ふふふ。聞きたいかい? 私、今日そらを飛べるかもしれない」

「新月でもないのに?」

「ふふふ。、だって」


 アレクは、しばらく何も言わずにぼうっとしている。そんな彼に、ベルベッチカは耳打ちする。


「赤ちゃんだよ。ふたりの」

「……ええっ!」


 間の抜けた声を出す新しく父親になる彼に、少女ははにかんで、言った。


「ねえ、キスしておくれよ」


 ふたりは唇を重ねた。

 新しいお家に、暖かい暖炉。優しい恋人に、お腹に新しく宿った命。六百九十七年生きてきて、初めて感じる心の底からの、安堵。

 それから、約半年の間。

 赤ちゃんの靴下を編んだ。手袋を編んだ。ベビーベッドを、彼が作った。

 お腹が大きくても、彼は変わらず愛してくれた。綺麗だよと髪を撫でてくれた。

 幸せに……時間は過ぎていった。

 六百九十七年の中で、いちばん長い──そしていちばん一瞬の──半年だった。


 ……


 令和六年九月六日、金曜日。日本、岩手県、大祇村。


「こうさか亭にいこうか」


 今日はお父さんが早く帰ってきた。お母さんも、晩ごはんは何も作っていない。今日は大切な日だから。……二人の、けっこん記念日。毎年九月六日はこうさか亭にディナーを食べに行く。ゆうの家は決して裕福な家では無い。そしてこうさか亭は、比較的高めのお店だ。だから、けっこん記念日やゆうのお誕生日に行くのだ。


「ゆう、行くぞ」


 姿見を見ながら、ゆうは髪を帽子に入れて、目深に被った。


「うん。……よし。今行くー」


 ゆうはとんとんと、階段を降りていった。


 ……


 こうさか亭は下町にあるから、少し歩く。学校までは、山道を下って田んぼに出て、角田屋を通った先。ふだん遊ぶ神社にはそのまま真っ直ぐだけど、下町は学校前の丁字路を左に曲がって、田んぼと小川に沿って十五分ほど下った先にある。上町と下町の境界付近に立つ数少ない信号を過ぎると、下町だ。こうさか亭のようなレストラン、郵便局、銭湯、そして村役場。下町の方が人口が多く、航や結花は、ここから大祇小学校に通っている。

 こうさか亭は、一階部分が茶色いレンガ、二階は白い壁、屋根はオレンジの瓦でできた、山小屋風のおしゃれな一軒家だ。香坂結花。おしゃまでおませさんな子で、沙羅の次くらいに美人な子だ。我が家の結婚記念日は毎年こうさか亭が恒例なので……

 からんからん。


「いらっしゃいませ、相原くん」


 ……でた。メイド服姿の結花が出てきた。メイド服といっても、コスプレみたいな安っぽいものじゃない。二年生の時亡くなった結花のお母さんが若いころ着ていた、シックなデザインのものだ。でいちばん大人っぽく、背も高い結花だ。シックな黒と白のツートンのメイド服がとても良く似合う。

 ゆうは目を上手く合わせられなかった。目を合わせたら、真っ赤な顔を見られてしまう。どぎまぎしていると……


「あらー、お久しぶりー! 相変わらず美人ねえ!」


 お母さんナイス! おかげで赤い顔を見られずに済んだ。


「ありがとうございます!」

「お待ちしてました。ささ、ご案内します」


 結花のお父さんに案内されて、店の奥の個室に案内された。山奥の村にあるとは思えないほど、きれいな個室だった。ステンドグラスみたいな窓から、テーブルの上の小物まで、結花のお父さんのこだわりが透けて見える。


「まあ、きれいなマリーゴールド」


 んー。んー。お母さんは鼻歌交じりに上機嫌だ。……いつもの記念日より、機嫌がいいように見える。


「お待たせいたしました」


 あらかじめお母さんが注文していた料理が運ばれてきた。毎年、同じものを注文している。

 お父さんはサーロインステーキ。ゆうは、ビーフシチュー。お母さんは、白身魚のムニエル。

 ……のはずなのだが、今日はサーロインステーキだ。


「お腹減っちゃって」


 そう言ってペロリと食べてしまった。

 食べれないでいると、お母さんが紙パックのトマトジュースを出してきた。


(はあ。ビーフシチュー、食べたかったな……)


 そう思いながらちゅうちゅうとトマトジュースを吸った。と、お母さんを見ると、サーロインステーキを食べたのに、一人前のビーフシチューまで食べてしまった。もともと食が細くて痩せているひとだ。だからゆうはびっくりした。

 こんこん。

 結花がピッチャーを持って入ってきた。慌ててトマトジュースを隠す。


「あれ。相原くん、食べてくれた?」

「あ、ああ、美味しかったよ、ありがとう!」


 ゆうは取り繕うが、バレずに済んだ。


「今日のビーフシチューね、わたしが仕込んだんだよ! 相原くん大好きでしょ」


 そう言いながら、減ったグラスに水を注いだ。


「美味しかったのなら、良かった! また週明け月曜日ね!」


 結花は、にっこり笑って、おじぎをして、個室から出た。


「……食べたかったなあ……ビーフシチュー」

「まあ、暗い顔しないで。今日はいいニュースがあるのよ」

「静、なんだ、ニュースって」

「ふふ」


 お母さんはすうっと息を吸って、そして言った。


「赤ちゃんがね、出来たの」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る