【弐ノ漆】

 かなかなかなかな、ひぐらしのなく夕暮れの山。

 ゆうはあのお屋敷の、あのバルコニーの中で立っている。


「よく来たね、愛しいきみ」


 大好きな、世界でたったひとりだけの女の子が、ほこりまみれの窓を開けた。マスクをしていないほんとの素顔の、そばかすが可愛いベルだ。


「ベル!」

「ゆうくん!」


 ゆうは思いっきり愛する吸血鬼を抱きしめた。


「会いたかった。会いたかったんだよ。……もう、どこへ行っちゃってたんだよ」

「あちこちできみを見ていたよ」


 ……居た。確かに、ベルがたくさん居た。あれは、なんだったんだろう。


「匂いだよ。肉の焼く匂いがしたろ? それにきみが反応した。私は……ここにいたよ、ずっと」

「居なかったよ、ここにも来たもん」


 ううん。ベルは少しだけゆうの腕から離れて、ゆうの心臓あたりをとん、と人差し指で押した。


「ここだよ。私はずっときみのここに居る」


 死んだ人みたいに言う彼女の言葉が、つらかった。


「私は君の中で、細胞ひとつから血のいってきまで。その中で生きてる」


 そういうと、ベルは笑って、心臓からゆっくり人差し指でなぞって、首を通って唇に触れた。そして手を伸ばして、ゆうの首にからめた。


「私は君に力をあげた。今から、それを使うんだ。生き残るために」

「……何から?」

「この村を縛る、呪いから」


 呪い……そんな恐ろしいものから生き残れる自信なんて、ゆうのどこにもない。


「ふふ。私はその為にきみにあげたんだよ。……それでも。少しでも気を許すと、殺される。この村の……呪いに」

「あおおぉぉぉぉん──」

「なんの声?」

「もう時間だ。きみに、私があげれる次の力をあげる」


 ベルは、キスをした。あの日みたいに、舌を絡ませて。


 ベルベッチカ・リリヰの舌の味は。


 生き残るための勇気と強さをゆうにあたえた。


「さ、前を向いて。生きて。ゆうくん」


 ……


 ばきっ。

 ばきばきっ。


「あおおぉぉぉぉん──」


 本堂の中で、人々が変わり始める。骨がひしゃげ、身体がむくむくと膨らみ、黒い毛で覆われていく。


「ゆ、ゆーくん? ゆーくんっ! なにこれ、なんなのよう、これえ!」


 美玲が恐怖の表情を浮かべている。ゆうと、そのとなりの美玲、それから沙羅と大祇中学校のお姉さんたちは、変化がない。ゆうは、気がついたら目の前の肉を食べきっていた。


「ぎゃああっ!」


 見ると、村人の中でも何人かは「変化」してないらしく、その人たちから襲われていった。


「ひいっ!」


 美玲の足を隣に座っていた「スポーツ万能のおおかみ」が、がしっと掴んだ。


「あかねぇ、ボクだよ美玲だよ、はなしてよう、あかねぇ!」

「きゃあっ! 翔のおじさんっ、はなしてぇっ」


 沙羅もまた、押し倒されて襲われている。


『選ぶんだ。時間が無い。どちらもは助けられない』


 頭の中でベルの声がした。ゆうは考えるより先に、沙羅の方に駆け出して、足を掴む巨大なおおかみを突き飛ばした。


「ぎああああっ」


 後ろで絶叫があがる。茜だったおおかみが、美玲の喉元を食いちぎった。


「美玲!」


 ゆうは三メートルの距離を一歩で縮めたが、手遅れだった。


「お……がっ……ごほっ……お……」

「美玲! 美玲! ……くそっ」


 口と首を押さえながら噴水みたいに赤黒い血を吐いて、美玲は動かなくなった。


 ……美玲は、大祇小学校の最初の犠牲者となった。


「ぎゃああっ」

「バケモノだあっ」

「いたい、いたいっ」


 気がつくと、外では阿鼻叫喚の悲鳴がひびいている。地獄の釜の蓋が開き、おおかみたちが外にあふれ出したのだ。


「こっち!」


 ゆうの手を引っ張ったのは沙羅だった。となりでは中学生のお姉さんが、巫女装束のまま腸を引きずり出されている。ゆうは手を引かれるまま、祭壇の奥の扉へ向かった。


「ほんとの本殿の御神体があるお部屋! おじいちゃんが今いる、ぜったい安全な場所があるんだっ!」


 かかっ、かかっ、かかっ!

 後ろからおおかみが追いかける音が聞こえる。


「早く、はやくっ!」


 こども二人は、岩をくり抜いて作られたとても長くて狭い廊下をなんとか走るが、足音はすぐ後ろだ。突き当たりは回廊になっていた。


「こっちだよ!」


 沙羅の手がゆうを右に引っ張る。

 どがっ、ぎゃいんっ。

 今しがたゆうたちがいた場所に、おおかみが突っ込んで頭を打って悲鳴をあげた。そのまま回廊を反対側まで走ると、どこかへと続く上に登る階段と、反対側にはふすまが空いた六畳間があった。


「沙羅! 早く!」

「おじいちゃんっ!」


 沙羅のおじいちゃん、樫田正夫宮司が六畳間で手まねきしている。沙羅が先に部屋に飛び込んだ。


「ゆうちゃん、早く!」

「今い──」


 ぱしーん。


 ゆうは、雷に打たれたかのように吹き飛び、二メートル先の階段に頭を打った。ゆうはぶつけた後頭部を押さえる。


「……っつ、たた……」

「なんでっ? おじいちゃん、なんで結界を通れないのっ?」

「……ゆう君のお母さんが言ってたことは本当だったか」

「おじいちゃん、なんとかしてよ、ねえ! ……ゆうちゃん、逃げて! ゆうちゃんっ」

「うわぁっ」


 どかっ。


 ……


「いやっ、いやあぁぁぁあああ!」


 沙羅の絶叫がひびきわたる中。相原ゆうは幼なじみの「ニンゲンの」少女の目の前で。内蔵を引きずり出され、心臓から腸に至るまで……眼球も、舌も。おおかみに、すべてを食べ尽くされた。


 ……はずだった。


 ぴくん。空っぽになったはずのうつろな影が、沙羅の目の前でゆらりと立ち上がった。


「ベルヲ……返セ……ッ!」

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