【壱】
【壱ノ壱】
「ただいまー!」
「あら、翔くんはー?」
帰るとお母さんが聞いてきた。いつもなら翔が必ずくっついてきて、帰るなりうちに上がり込んできて、『イカやろうぜ』とゲーム機を出すから。ゆうは話したいきもちを押さえながら、ゆっくり答えた。
「ううん、話してる。それがさあ……お母さん?」
大根をとんとんと切っているお母さん。相原静、三十二歳。こんなことを言うと翔にマザコンと言われるからいやだけど、ものすごく美人だし、二十代にしか見えない、ゆうのじまんのお母さんだ。スレンダーで、黒髪のポニーテールに白のTシャツ、細身のジーパンが良く似合う。お化粧がとっても上手で、火傷したことなんて誰も気づかない。
そんな自慢の母親が手を止めた……みたいに感じた。
「えと……なんて?」
「だからあ、翔は今日来た子と話してるって。それで僕だけ帰ってきたの」
「あ、ああ、そう、お人形さんみたいよね」
ゆうは目を丸くして「へ?」ともらした。女の子だとは言ってない。
「なんでしってんの?」
「あ……ああ、ああ、あれよ。引っ越してきた時見かけたのよ。可愛い子だったから、ゆうちゃんと同じ学年ならいいなって思って」
「ああ、そか。……うん、金髪の女の子って、他にも居たんだ」
翔のお母さんも金髪だけど、染めてるのとちがうほんものだったから。こころの中に、ほんのりと暖かいものを感じた。
「それでね、その子、ロシアからきたみたいでね、それでね」
「ああ、ゆうちゃん、ごめん、おみそ切らしちゃってた。おばあちゃんのとこ、お願い」
お話をさえぎられて、ええと、といっしゅん頭が固まってしまった。
「おみそよ、おみそ。角田さんとこ行ってきて」
「……わかった」
「あ、ほら、いつものちゅうは?」
「もー、はいはい」
ゆうが青い帽子をずらしておでこを差し出すと、甘えんぼのお母さんはそこにちゅっとちゅうをした。
「おおかみに気をつけるのよ」
「わかったってば」
遅めの昼過ぎ。ほんのりお日様は傾いている。なのに山道のアスファルトは、山側はいつも湧水でぬれている。それを包むガードレールも苔だらけでいつだって緑色だ。ガードレールの外側はがけで、植林されたスギがたくさん並んでいる。道は、角田屋の方……つまり学校に向けて下っている。六月の湿っぽい空気が、裏の山の木々のいいにおいを運んできてくれる。梅雨がきらいっていう大人は多いけど、ゆうはすきだった。それに翔や沙羅とか他の女の子とたんけんで山に入る時は、雨でも関係ない。びしょぬれになりながら木の枝のつえをついて歩くのは、かっこよかった。
角田のおばあちゃんのお店は、ちょうど家と学校の間にあって帰りにお小遣いでアイスキャンデーをよく買う。こどもだけの、ちょっとした社交場だ。家の前の、車一台がやっとの細い道路を下って、学校から続く片側一車線の道路を右に曲がって、スギの木の林を抜けたところに、おばあちゃんのお店……角田屋がある。サビサビのシャッターがちょこっと降りてる、集落で唯一のコンビニ……みたいな白く塗られた木でできたお店で、角田屋という文字もかすれて読めない。
何人か子供がいて、笑い声が聞こえる。このうるさい声は……
「よお、ゆう! ベルちゃんにごちそうするとこ。あっ、お前のは無しな」
「……べつにいらないもん」
「んだよー、機嫌わりいな」
早速ベルちゃん呼び、と、女の子ならだれでもいい、翔らしいおどけた笑い声。いつもなら一緒に笑うんだけど、今日はなぜだかムカついた。
すると、彼女が小さな声で翔の背中に言う。
「あのね……私、食べれないんだ」
「だいじょうぶだいじょうぶ! ばあちゃんとこのはまじでうまいから! 食えばわかるって!」
「でも……」
「ばあちゃん、ソーダ味ふたつ!」
ごそごそと、短パンのポケットから銀色のお金をひとつ、角田のおばあちゃんにわたした。そんな彼の方を見ていたら、いつの間に
すんすん、匂いをかいできた。
「いい匂い」
「へ?」
「とても……甘い……いい匂い。美味しそう」
ゆうの首筋に、顔を近付ける。マスク越しに、口をあーんと開けているのがわかる。ふわふわの金髪が、ちくちくと頬に当たる。アクアマリンみたいな水色の目が、ゆうをつらぬいている。
「あの……
「……そうか、わかったよ」
きみが私の……最後までは聞こえなかった。バカでかい声で割り込んできたやつがいたせいで。
「はーい、ベルちゃん、どーぞ! まじさいこーにうまいから! くってみ!」
ん、そう言ってゆうたちのソーダ味の水色のオアシスを差し出した。マスクを付けた同じ色の目をした女の子は、その冷たいキャンディーを、見つめたまま止まっている。六月の蒸し暑い空気が、容赦なくぽたぽたとアイスを細らせる。
「……えと。はい。これ。……くって?」
「私、食べれないと言ったよ」
「え。アイス、嫌いなの? ……まじ?」
「さっきから言ってるじゃないか。食べられないんだ」
「またまたー。食べてみって。まじうまいから。……ほら、そんなん外してさ」
翔がアイスを持った右手を伸ばして、彼女のマスクに触ろうとした。そのしゅんかん。思いっきりその右手をはらった。
「やめてっ!」
可哀想に、少年のなけなしのお小づかいで買ったアイスは、角田屋の店先のコンクリートの床に落ちた。
「何すんだよっ」
「しつこいよ! いやなんだ! 犬くさいんだよ、きみも、この村のひとも、みんな!」
そう叫ぶと、店から駆け出して、学校の方へ走っていった。
残されたゆうたちは、見つめ合った。
「おれ、飼ってないんだけど……」
アイスはじんわりとコンクリートに水たまりを作った。
……
晩ごはんの時。マーボーなすをほおばりながら、ゆうが昼間の出来ごとを話した。
「犬なんて飼ってないのに、なんでだろ」
「まあ、なんでかしらねえ」
お母さんも一緒に考える。
お父さんも、食卓にいる。相原毅。五十二歳で、お母さんとはだいぶ歳が離れてるゆうのお父さん。白髪混じりで細身だけど、いつも背筋を伸ばしていて老けて見えない。音楽の先生で、しぶくてかっこいいけどちょっと怖い。
そんなお父さんが、黙って音楽雑誌を読みながらマーボーなすをもぐもぐしている。
「何か、言われなかったか」
「え?」
「お前のことを何か、言われなかったか」
「あなた」
「……なんにも?」
『とても……甘い……いい匂い。美味しそう』
この時なぜか、ゆうはごまかすことを選んだ……なぜだかは、どうしてかわからなかったけれど。お父さんが、雑誌から顔を上げてメガネをくいっとした。怒ってるときによくやる。なんだか気が詰まって、おみそしるをぐいっと飲んだ。
「なんにもなかったってば……」
「……その子とは、もう会うな」
「あなた」
「……なんで?」
「なんでも、だ」
「てか、会うなって、同じクラスだし」
「ダメだと言ったらダメだ。お前はおおかみじゃないんだ!」
「あなた!」
お母さんが大きな声を出したから、それ以上聞けなかった。
「ほら、テレビテレビ」
リビングに、ダウンタウンが仕切る観客のぎゃははという声が急に響きわたる。
でも、その笑いはとてもうるさいのに……どうしてか、静かすぎて怖かった。
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