第11話 会話の構成

 会話文は直截的な臨場感を伴っていますから、その内容には特に留意しなければなりません。以下の例を考えてみましょう。

 

 いつも通りの気だるい朝。相も変らぬ通学路。週末まではまだ遠い。そんな物憂い週明け気分に浸りながらローファーを引きずるように歩き続けていると、背後から軽快な足音が近付いてきた。

「あっちゃん。おはよう」

 その声はいつも通りの元気ないっちゃん。でも、私は振り向かない。銀縁メガネに満面の笑み。なぜか私よりも着こなしの良い制服姿。ちょっとしゃくに障るそんな光景が目に飛び込んでくるのは間違いないのだから。

 私は足を止めずに、いっちゃんが隣に並ぶのを待った。

「いっちゃん。おはよう」

「あっちゃん。宿題できた?」

 やはり恒例の行事、週明けの儀式。仕方が無いと軽く笑って、私は尋ね返した。

「また?」

「あっちゃんの宿題、写させて」

「学級委員がそれでいいの?」

「いいの」

「いっちゃんって本当に見た目だけだよね」

「ひっどおい」

 膨れ面まで謎に可愛い銀縁いっちゃん。やっぱり、何だかしゃくに障る。

「私に向かってきちんとお願いしなさい」

「お願いします、朝美さま。写させて」

 そんな軽い言葉と共に、いっちゃんは歩みを止めずに一応頭を下げた。そのおざなりな様子に、私はふと誘惑に駆られた。もう少し勿体ぶってみよう。

「どうしようかな……。陀打団田逸美さん」

「フルネームはやめて。いつも寝癖の佐度野朝美」

「フルネームはやめて。私はサディストではないから」

「今日はパンをくわえないの?」

 突然の逆襲。私は絶句して、思わず立ち止まってしまった。

 

 この例文は約六百文字からなります。また、会話文は約三十七パーセントです。仮に全てを地の文で記述したら、もちろん要約と抽象化の程度にもよりますが、おそらく四百文字から五百文字に収まるでしょう。

 ところで、はたしてこの会話は読者にとって面白いのか。面白いかどうかは個人の主観であり、人それぞれでしょう。しかし、作者は常にそのことを気に掛けなければなりません。

 おそらく、読者が高校生以下であれば、面白いと思ってくれる者はそれなりにいます。週明けの朝の登校は、読者がまさに日常的に体験していることなのですから。片や読者が大学生以上、特に成人の場合、在り来りで詰まらないとの感想を抱く者も多いと思います。

 私としては、この調子で取り留めのない会話が続いたら、それこそ気だるいと感じてしまうでしょう。ただしそれと同時に、ふと想像してしまいます。このあと、宿題やいっちゃんの外面の良さを巡って何らかの波乱が起きるのではないだろうか。それにパンとは一体何だろうと。

 ここで一つ、重要な指摘をしておきます。もし今後、この小説内で宿題やパンの件に直接的にも間接的にも触れることがなかったら、この会話は単なる雰囲気づくりの役割しか果たさなかったことになります。物語に無関係な情報の提示は、小説に冗長さを生みます。その結果、物語が弛緩してしまいます。間延びしてしまうのです。他愛のない会話が延々と続く。読者にとっては退屈以外の何物でもありません。内容が希薄な雰囲気作りは程々にしましょう。無意味な雰囲気作りはやめましょう。

 では、会話の描写の一般的な構成を解説する前に、現実の会話について少し考えてみます。

 例えば、私と誰かが会話を始める。何かを切っ掛けに私が言葉を発する。それに応えて相手も話す。私が一言、相手も一言、私の言葉、相手の言葉。そして何かを切っ掛けに、言葉のやり取りはふと止まる。

 話に興が乗っている場合には、一呼吸おいて再び言葉のやり取り。興が乗っていない場合には、私も相手も何かを考え込む。しばらくの後に再び言葉のやり取り。

 途切れることなく言葉のやり取りが続いている間は、私も相手も特に深いことを考えている訳ではない。せいぜい、些細なイメージや概念が頭の中を飛び交っているだけ。思考と呼べるほどの頭の回転が起きるのは会話が途切れた時。

 これが一般的な会話のあり方でしょう。人間の思考パターンには多様性がありますが、それでも大きな差異がある訳ではありません。そうでなければ、そもそも意思疎通、コミュニケーションが成立しません。

 読者を物語に引き込むためには、描写を読者の脳裏に滑らかに流し込まなければなりません。そのためには、現実の会話と思考のパターンを模さなければなりません。

 それでは、前記の例文に戻ります。

 例文の会話には三つの地の文が挟み込まれています。やはり恒例の……。膨れ面まで……。そんな軽い言葉と共に……。それらは会話が途切れた所に置かれています。と言うよりも、その種の地の文は会話が途切れた所に置かなければなりません。

 さらに言えば、会話が途切れた所には、必ず地の文を挟み込まなければなりません。そうしなければ、読者に延々とマシンガントークを聞かせ続けるような状況になってしまいます。そんな状況に置かれたら、読者の思考は麻痺し、読者は息が詰まるような感覚に陥ってしまいます。一方、地の文で読者の思考が麻痺することはそれほど多くありません。これが地の文と会話文の臨場感の違いです。

 三つの地の文は全て主人公の発言の前に置かれています。三つが描写しているのは、主人公が認識した情景と主人公の思考です。これを主人公の発言の直後に置くと、話に興が乗っているにもかかわらず主人公の注意は散漫、相手の発言に傾注していないことになってしまいます。

 三つの地の文の長さには差があります。一つ目と二つ目が短いのは、特にその時点で会話が弾んでいるからです。逆に言うと、弾んでいる会話に長い地の文を挟み込んで会話の勢いを削いではいけません。

 最後に会話文の冗長さと切れについて説明します。例として示した会話文には冗長さがあります。もっと切れを良くしてみましょう。例えば冒頭の部分。

 

 ……背後から軽快な足音が近付いてきた。

「あっちゃん。おはよう」

 その声はいつも通りの元気ないっちゃん。……中略……

 私は足を止めずに、いっちゃんが隣に並ぶのを待った。

「いっちゃん。おはよう」

「あっちゃん。宿題できた?」

 やはり恒例の行事、週明けの儀式。仕方が無いと軽く笑って、私は尋ね返した。

 

 これを以下のように変更してみます。

 

 ……背後から軽快な足音が近付いてきた。

「あっちゃん」

 その声はいつも通りの元気ないっちゃん。……中略……

 私は足を止めずに、いっちゃんが隣に並ぶのを待った。

「あっちゃん。宿題できた?」

 やはり恒例の行事、週明けの儀式。仕方が無いと軽く笑って、私は尋ね返した。

 

 挨拶の言葉の交換を省略することによって、会話に切れが出ています。「おはよう」と挨拶し合うこと。それは自然ではあっても、現実的には単なる手順に過ぎません。そんな手順を文章化すると、冗長としか言いようのないものになってしまいます。

 挨拶の言葉を交わす仲と交わさない仲。関係性が変わってしまうのではないだろうか。そう思う人もいるかも知れません。しかし、挨拶の言葉自体に重要性があるのならともかく、そうではないのなら省略は可能でしょう。実際、言葉ではなく何らかのボディランゲージで挨拶を交わしている人も多いのです。

 一般的に、当然の手順に過ぎないものは簡潔に記述すべきです。例えば外出する際、消灯を確認し、火の始末も確認し、玄関にきちんと鍵をかける。そんな描写が必要でしょうか。準備を整え、家を出た。それで十分なはずです。

 会話文の記述は安直になりがちです。そのため、この問題が頻繁に発生します。会話文から些末な発言を排除し、会話全体に切れが出るようにしましょう。

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