パット・ハーンと無貌の女神

生地遊人

第1話 無貌の聖母

 父が死んだ翌年、わたしはダブリンを離れることになり、その前に大叔母の屋敷の整理を手伝うことにした。そのために、十年もの間ずっと避けていた部屋に足を踏み入れることになったのだ。それは<従姉の>ジェーンが最期のときを過ごした部屋だった。恐ろしく、忌まわしい思い出がわたしをその部屋から遠ざけていた。幼いわたしにはっきりそう教えた大人はいなかったが、ジェーンはおそらく結核で死んだのだった。

 ジェーンがこの世を去ってから、その部屋が客間として用いられたことはなかった。人ではなく、この屋敷を離れる予定もないものがしばしば運び込まれていた。従姉の寝台はそれらに埋もれていたが、まだそこにあった。


 寝台の上では幽霊の一家が食卓を囲んでいたが、わたしが埃を被ったシーツを一息に取り払うとともに冥府へと帰っていき、あとにはガラクタの山が残った。

 それを見つけたのはそのときだった。

 たったいま寝台から落ちて床の上に横たわり、ゆらゆらと揺れているのは、小さな黒い木彫りの聖母像に見えた。そういうものがこの屋敷にはいくつかあることをわたしは知っていた。わたしはシーツの角を握ったまま、それを拾い上げた。長衣を纏い、我が子を迎えるかのように両腕を広げた女の姿が鑿の痕も荒々しく彫られていた。確かに聖母の形をしていたが、われわれがキリストを知るよりもっと旧い時代の、森の木々が神だった頃の神聖な大気の匂いをこの像は知っているように感じられた。わたしはこの像の顔をもっとよく見たいと思い、薄暗い部屋の中でわずかでも明るい場所を探して、窓のそばに近づいた。ダブリンの曇り空はうすぼんやりとしか窓辺を照らしてくれなかったが、像の頭を目にしたわたしを震え上がらせるにはじゅうぶんだった。

 顔はなかった。女の黒い木の顔は摩耗してなんの凹凸もなく、滑らかに黒く光るばかりだった。

 わたしは恐ろしくなり、無貌の像を床に投げ捨てて、すぐに部屋を出た。


 それは聖母などではなかった。それが模っていたのはジェーンだった。ジェーンはいつも黒い服を着ていた。それに、わたしが最後に見た彼女には顔がなかったのだ。

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