夢を食べる仕事
叉岸
夢を食べる仕事
今思えば、あのとき暗くなっていたのは空だけではなかった。春が始まる頃の夜、生暖かい紺色の風が吹き始めていた。濃くて甘くて美味しくはない、そんな風だった。
それでもまだ足取りは軽かったし、僕たちは飲み足りなかった。だから意気揚々とこの店へやってきた。はずだった。
宇佐美が顔を近づけて、小声でこう言ってくるまでは。
「後ろの席、例の子かもしれんわ」
「まじか」
据わったままの宇佐美の目は、僕の返事から視線を外して手元へ落ちた。奴が見ている縦書きの「おしながき」には、酒とおでんと焼き鳥が見えて、ところどころタレが跳ねたビニールケースに入っていた。煙に揺られる焦げた醤油の匂いと、よく似合っている。
しかし今ここで、楽しい飲みとは似つかわしくない、衝撃の疑いが浮上した。
僕らが座っている四人掛けのボックス席、宇佐美の背もたれの向こうから聞こえる声の主が「例の子」かもしれないというのだ。
例の子というのは、宇佐美が最近デートしている職場の同僚である。
先月に飲んだときも、その前のときも、例の子とのお惚気話をたくさん聞かされた。
その子との進展は、宇佐美が毎回の飲みで持ってくる愉快なニュースのひとつだった。もはや恒例と化しており、僕は会うたび楽しみにしていた。
「入ってくるとき、顔見なかったの?」
「見てねぇな」
視界には入ったかもしれないが、見てはいなかったのだろう。僕だって見ていない。
「声がってこと?似てる?」
「似てるなんてもんじゃない」
本当にそんなに似ているのなら、これはヘビーだ。
僕らが耳を澄ますと、決して大声ではない男女の、断片的な会話が聞こえてくる。
イルカやアシカといった海洋生物の名前が出て、すごかったねとか、可愛かったとか言っていた。
「水族館か」
宇佐美は僕にそう呟いた。こいつにとっては、ただ「水族館」ではないはずだ。
若い男女が二人きりで水族館。
兄妹か姉弟かもしれないし、友達かもしれない。
だから早とちりはいけない。
というか、そこにいるのが「例の子」とは限らない。
でも、
「んー、どうかねぇ」
僕はどうにかすまそうとしたが、言葉は少し濁ってしまった。
「イルカとアシカで、水族館じゃなきゃ何の話だよ?」
そう返された僕は言葉に詰まって、苦し紛れの冗談を飛ばした。
「『おっとっと』とか、『たべっこどうぶつ』の話とか…?」
宇佐美は苦笑いした。
そうして腰に伸ばした腕は、電子タバコを取り出すかに見えたが、違った。
宇佐美は掌を椅子に突き立て、すぐに口を開いた。
「まずは頼むもの決めて。で、愚痴だ愚痴。」
そう言う声は、いつもと変わらなかった。向こうの席を盗み聞きし続ける宇佐美は見たくなかったから、嬉しかった。中学の頃からあっけらかんとしているし、この男なら、きっと、聞くよりも話すのを選ぶだろうと思っていた。
ほぉ、と、おぅ、の二つが混じった吐息を出した僕は、彼の話に耳を傾ける。
しかし、
「だろぉ!やっぱ、ジュゴンは初めて見たべ?」
「うん。可愛かったー!」
向こうの席から「ジュゴン」という単語が聞こえた。
宇佐美にも聞こえたようで、少しだけ目が彼らの方を向こうとした。
いやぁ、ジュゴンかぁ……。残念なことに、『おっとっと』にも、『たべっこどうぶつ』にも、さすがにジュゴンは居ない。
ここからバスで15分の水族館には、居るが。
このときちょうど、そのジュゴンが寝返りを打った。
誰もいなくなった水族館では、水槽の厚いガラスは、もはや客と海獣を隔てるものではなく、溢れ出んとする大海原を押さえつける堤防だった。
ジュゴンは、なみなみと張られた塩水の蒲団で、ぐるりと半回転する。
まだ夜は浅く、ジュゴンは眠っていなかった。同じ水槽に居る数えきれないほどの小魚たちも、眠ろうとはしなかった。
淡い緑色をまぶしたプールの底には、およそ食べる気にはなれないくらい小さな、アマモの欠片が落ちていた。
ひとけが無くなって灯りの落ちた水族館は、どこよりも夜の匂いがしていた。
「この店の練り物は、自家製でこだわってるっていうし。おれはガンモ欲しいな。」
「いいねえ。おれは取り合えず卵とか…かな。」
僕と宇佐美は注文を決めた。
宇佐美が声を張ると、藍色の前掛けに黒のTシャツを着た店員がやってきた。
うっすらと茶髪に染めており、春休み中の女子大生といった風に見えた。
僕はハイボールとがんもどき、宇佐美は麦焼酎に卵と糸こんにゃくを注文する。
店員が去ると、騒がしい店内に僕ら二人の無言が冴え渡った。耳を澄まさなくとも、例のカップルの会話が耳に入ってくる。次に向かう店でどんなお酒を飲むか、どんなお酒が飲める場所に行くかを話し込んでいるようだった。男の発する一言一言は先程よりも落ち着いたトーンで、しかし少しずつ着実にアクセルを踏み始めていた。
宇佐美も、ブレーキの踏み込みを少しずつ緩めて、口を開く。
「…で。ちょっと職場のこと愚痴るけどさ」
「うん。なんでもどうぞ」
「こないだ、上司が社員全員に回答させるアンケートを紙ベースでやろうとしてて」
「うん。」
「集計地獄だなってボヤいてたから、俺がフォーム作ってオンラインでやりましょうかって言ったの。したら、助かるよ助かるよ、ってさ。実際、効率も良いし、俺がフォームつくることになったの。」
宇佐美は情報系の専門学校を出ていて、こういったことには頼りになるし、自信がある。パソコンが得意でなかった僕も、大学の情報処理課題で困ったときには、よく助けてもらった。
「なんだけどよ。紙ベースの変更が伝わってなくて、印刷する担当が全部用意しちゃってさ。何百枚も擦らせて綴じ込みもさせて無駄骨じゃねえかって怒って…。まぁ急な変更だったとはいえ、印刷日の前日には社内メッセージでちゃんと送って開封済もついてたんだけど。」
僕はお冷を啜って受け答える。
「んん。開封してたっていうんなら、気づかなかったって道理ないよなあ。」
自分で言ってみてから、既読と開封済が同義に扱われることを少し不思議に思った。が、そんなことは口に出さなかった。
このとき、ジュゴンの水槽で一匹の小魚が死んだ。黄色くて、薄くて、小さな魚だった。
ジュゴンはその魚を見た。
朝になったら、空からアミを持ったダイバーが降りてきて、死んだ魚をプールの水面よりも「上」に持っていく。
ジュゴンはそのシステムを知っていた。
明日の朝も、きっと、そうなるの「だろう」と「思った」。
水面よりも上に、水槽よりも外の世界に何があるのか知らなくても。
いや、覚えていなくても。
「お待たせしましたぁー。」
橙に光る古めかしいLEDのアーチをくぐり抜けて、先程とは違う、若い男の店員が注文を運んでくる。
湯気こそ立っていないが、運ばれてきたおでんたちからは、ほのかに湧き上がってくる確かな熱を感じることができた。寒くも暑くもない春の夜が、より一層、その微妙な熱を際立たせている。これを気持ちよく感じることのできなかった僕は、堅く削られたジョッキを手に取り、冷たさで口元を洗い流した。
宇佐美は、煮卵を箸で掴んで、器用に二つに割った。くすんだ黄身が、ほろほろとこぼれて、皿の中の汁に散るのが見えた。
「しかもよ。その翌朝に。頼んだ上司が、おれのこと他の同期に言ってるのを聞いたんだけど。」
僕は、箸の先でがんもどきをつまんで、丸ごと口へ放り込んだ。スポンジを握るように優しく潰すと汁が溢れ、噛み切ると心地よいニガリの味がした。間違いなく美味しい。だが、久しく食べていなかったので、がんもどきってこんな味だったっけと思った。こだわりの自家製ということで過度な期待していたが、他のガンモの味を覚えていない僕に、そこまでの感動は無かった。
「陰口ってこと?」
「んー…。向こうに悪気は無いだろうけどね。俺が休憩から戻ったとき、出入口がそいつらからは死角になってたみたいで。おれが入ってきた音とかには気づかず喋ってたことなんだけど」
そう切り出す宇佐美は、特別落ち込んでいるようには見えなかったものの、いつもに比べると酒があまり進んでいないように思えた。
「その上司、『宇佐美くんが、紙ベースじゃない方が効率いいですよって言うからね。そんなに得意ならやっていいよって。任せてあげることにしたんですよ~。もうねえ…。』とか言っちゃってて。」
宇佐美のモノマネは、口を尖らせたウザイおっさんという感じで、リアルだった。実物に近いかどうかは分からないので、そういった「現実味」のリアルではないが、間違いなく「リアルに」居そうな感じがした。少なくとも、僕のイメージの中には無理なく存在しえた。
「やらせてあげた。みたいによ。」
「それは、おれでもムカつくわ」
「むしろ、やってあげたのによ。ボヤくから。」
僕は難しそうに眉をひそめて、実際にはそうやって表に出す以上の複雑さをもって、難しい気持ちだった。
「もうひとつ頼もうか」
僕は、重たくなった唇を動かして、そう発した。
「焼き鳥?」
「も、いいけど。おでん、でさ。」
焼き鳥も食べたいが、僕には、もっと食べたいものがあった。
「ダイコンとか?」
「汁がたっぷり染みてうまいよな。ダイコンは。」
「ちょっとだけ酒も入れるわ。汁に。」
「…それ、おれもやってみようかな。」
僕たちが話し込んでいるあいだに、後ろの席のカップルは静かに店から居なくなっていた。
僕は全く気がつかなかったが、宇佐美は分かっていたのだろうか。
「…例の人たちさ、いつの間にか居なくなったみたいだね。」
ジュゴンは大きな顎をプールの底に引っつけて、引きずった。やわらかい灰白色の頭は、掃除機のヘッドのように、なめらかなシアンの床を滑った。
ジュゴンは底に落ちていたアマモの欠片に辿り着いて、それを吸い込むように呑んだ。
呑み込んだアマモがすぐに舌を通ったが、アマモの味は無かった。
ただプールの味がした。
プールの底ではなく、いつも変わらずそこにある、プールの水の味がした。
「お待たせしました。ダイコン二つです。」
両手に一枚ずつ持った皿を、慎重にテーブルへ置いた。
その瞬間に、おでんの汁が少し波立ち、ダイコンの匂いがゆっくりと立ち始める。
僕たち二人は店員に軽い会釈をして、顔を見合わせることなく箸を手に取った。
春が近づく生暖かい夜は、長く長く横に広がっていて、まだ終わる気配が無い。
太陽が去ったジュゴンの水槽では、何かを「終えて」横たわった魚だけが、この世界の外で、明日の朝を待っていた。
夢を食べる仕事 叉岸 @kigouKAITAI
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