さようならイグコさま

一途彩士

イグコさま

 ある朝、たろうくんは日課である魚釣りのために川に向かいました。

 川には家の裏にある森をぬけなければなりません。抜き足差し足、草の生い茂った道を進みます。

 そうして進むうちに、ぶるぶると震えてうずくまるじろうくんを見つけました。たろうくんは声をひそめて話しかけます。

「おはよう、じろう。どうしたんだ?」

「やっちまった・・・・・・おれやっちまったよ」

「何をだよ。はっきり言え」

「イグコ様に会っちまったんだ・・・・・・」

「お、おまえ、本当か?」

「偶然あっちの道でよ・・・・・・注意しとったのに」

 この森にはイグコ様という化け物が住んでいます。森に入るときはイグコ様に決して見つかってはいけない、食べられてしまう、そう教わりました。イグコ様に見つかった者は村には二度と帰ってこなかったとも言われています。だからじろうくんはこの茂みに逃げ込んだ後も恐怖で動けなくなっていたのです。

 たろうくんは頭をかきながら、きまり悪げに言います。

「そりゃお前、頑張って逃げるしかねえよ」

「たろう・・・・・・村まで帰るの付き合ってくれよ」

「やだよ。俺は釣りに来たんだ。それに、お前が狙われているなら俺はいま安全だ。いまのうちに釣りに行ってしまいたい」

 イグコ様は狙った人間がいる間は、他の人を狙わないと言われています。それを知っているのでじろうくんは怒りました。

「薄情者!」

「おい静かにしろ。大丈夫だろ、俺が来た道にはイグコ様の気配なんざしなかった。とっとと戻って、森にはもう入らないんだな」

「う、うう・・・・・・わかったよ・・・・・・」

 たろうくんは逃げ腰なじろうくんの腰を叩いて見送ります。その背が見えなくなった後、たろうくんはまた川を目指し始めました。イグコ様の心配をしなくてよくなった分、足取りも軽いです。

 川に着くとさっそく釣り竿を用意します。川に釣り糸を垂らして、獲物がかかるのを待ちました。

 太陽が真上に近づき始めた頃、ふと、辺りが静かなことに気がつきます。いつもなら飛び跳ねる魚や、さえずる鳥の声、草木が揺れる音が聞こえるものなのに何もしないのです。魚が一匹もかからないのもおかしな話です。

 なんとなく嫌な感じがして、今日はもう切り上げようとたろうくんが釣り竿とからっぽの桶をまとめました。

「あれ」

 たろうくんは、何かに見られている気配を感じました。獣でしょうか。おそるおそる振り返ると、森の木に混じって大きな身体がゆらりとたたずんでいるのに気がつきます。長い髪と、白い衣装。顔の見えないほど大きなつばのついた帽子を被り、たろうくんを見つめています。

 ああ、イグコ様です。

「ひいいっ!」

 たろうくんは釣り竿たちを投げ出して、イグコ様から離れたところから森に飛び込みま した。木々の合間を走って、走って、木の根につまづきながらも必死で出口を目指します。

 そうして森を抜けた先で、二つの人影が見えました。たろうくんの家族の、はなこちゃんと、みさきちゃんです。いつものように、たろうくんを迎えに来てくれていたようです。たろうくんは慌ててイグコ様に出会ったこと、じろうくんが狙われているはずなのにおかしい、と伝えました。話している間に、脳内に最悪の想像が浮かび上がります。

「じろうのやつが、もう食われちまったのか」

 涙がじわじわとこみあげてきます。そんなたろうくんの姿を見ていたはなこちゃんとみさきちゃんが顔を見合わせて、それからまたたろうくんに向き直って言いました。

 「おじいちゃん、イグコ様はこどもしかねらわないんだよ」

 「だから、だいじょうぶなんだよ」

 「じろうのおじちゃんもいえにいるよ?」

 たろうくんは目をぱちくりとさせました。その言葉に、「あっ」と思い出します。

 「そ、そうか、そうだよな。すっかり忘れていた」

 そうです、イグコ様は子供を食べる化け物です。どうして忘れていたんでしょう。

 恥ずかしくなったたろうくんはその立派なひげを撫でて、はなこちゃんとみさきちゃんを見下ろしました。

「もう、おじいちゃんってばわすれんぼうなんだから」

 はなこちゃんがぷんぷんと怒っています。そのかわいらしい、平穏そのものの姿を前に、たろうくんはほっと胸をなでおろしました。

 イグコ様に狙われるたろうくんもじろうくんも、もういないのです。

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