私が名人になったら結婚しよ?師匠
マイヨ
第1局 弟子がプロ棋士になる瞬間
「私が名人になったら結婚してください! 師匠‼」
弟子になってまだ間もない、あどけない少女が、スカートの裾を掴みながら、真っ赤な顔で俺に告白をしてきた。
それを観て、『おませさんな女の子だな~』と俺はほっこりとした気分になった。
「おう、いいぞ。名人になったらな」
当時の俺は、そう気安く約束して、その子の頭を撫でた。
「それが、ここまで来ちまうとはな……」
俺は、関西将棋連盟の喧騒を眺めながら、独り言ちた。
関西将棋会館。
まだ移転、建設されてから間もない新品特有の香りが漂う建物の報道陣控室は、テレビカメラを携えた取材クルーや新聞記者、それに帯同するカメラマンでごった返していた。
新聞記者と思しき者は、スマホでデスクと見出しの内容について相談し、ある者はパソコンで黒丸と白丸がならんだ無機質な表の画面を何度もF5キーを押して更新をしている。
「凄いことになってるな……タイトル戦でもここまでの騒ぎにならないよな」
いつもとは違う異様な将棋会館の雰囲気に、俺は圧倒される。
「あ!
「やば! バレ……って、なんだキョウちゃんか」
俺は慌てて、念のために持って来ていたサングラスを懐から出そうとしたが、相手が旧知の仲の新聞記者である
畏まって『稲田六段』なんて呼んだのは、キョウちゃんのイタズラ心によるものだ。
「アハハッ! 何そのサングラス。もしかして変装用?」
「念のためな……あくまで念のために」
「どうせ、イナちゃんの顔なんて、日頃から将棋担当してる記者しか知らないから問題ないでしょ」
「ですよね~」
芸能人の変装用みたいな大きめのサングラスをわざわざ今日のために買ったのだが、何の問題もなく将棋会館の中を歩けている事実に、気負っていた自意識過剰な自分が恥ずかしくなり、サングラスは再び懐の中に仕舞われた。
「まぁ、イナちゃんが浮足立つのも無理ないけどね。なんせ、今日は10年に1人出るかどうかの中学生棋士が誕生するかもしれない日だからね」
キョウちゃんはそう言って、3階に通じる飛翔の間の階段を見上げる。
俺たちのいる2階ホールの上階にある飛翔の間は、現在、記者はもちろんのこと、奨励会幹事ではない棋士も立ち入る事は出来ない。
まぁ、階下のこちらまでピリピリした重苦しい空気を漂わせる部屋に、好き好んで近づこうとは思わないが。
行われているのは、今年度後期の三段リーグ戦だ。
「イナちゃんは三段リーグの想い出ってあるの?」
「未だに、あの頃の悪夢を見るから思い出したくない……」
「あははっ! プロ棋士になる最後の関門で、地獄の三段リーグってよく言われるものね」
「いや、笑い事じゃねぇんだぞキョウちゃん。あれは本当に地獄だったんだからな」
お互い己の人生がかかっての殺し合い。
殺し合うメンツは、幼少期から一緒だった見知った顔ばかりというのが、またエグい。
負ければもちろん悔しくて苦しくて将来への不安で押し潰されそうになって、勝っても知り合いを蹴落とした罪悪感が付きまとう。
そして、そういったしがらみや将来への不安は、三段リーグに長く足踏みするほど積み上がってていく。
「まぁ、そういう苦しみの経験も、そこに到達する前に道半ばで諦めた身としては、羨ましいけどね……」
「キョウちゃん……」
しみじみとした顔で呟く、かつての奨励会の同期に俺は言葉を掛けられずにいた。
「って、俺の話は良いから、話を聞かせてくださいよ稲田師匠」
キョウちゃんが、切り替えて記者として、俺に質問をする。
「……俺、関係者以外に師匠呼びされたの、ほぼ初めてだわ」
「これからたくさん呼ばれると思うから、今から慣れておいた方が良いよ」
昔馴染みからの師匠呼びなんて、何だか変な気分だ。
「まだ、
「三段リーグ入り1期目の今期全勝で、今日午前の対局も勝って、今やってる午後の対局に勝てば、3月の最終日の対局を待たずして、昇段確定でしょ」
「まぁな……」
俺も連盟のホームページで見ていたから、午前の結果と、他の三段との白星勘定の兼ね合いについては知っていた。
三段リーグの最終日の2戦は東京将棋会館で行う予定だが、桃花が今の対局に勝てば、最終日対局の自身や他の三段の勝敗に関わらず、昇段が確定する事になる。
「まだ14歳の中学生棋士。それも、飛び切りの美少女ときたら、将棋界隈以外も浮足立つのは無理ないかな。
キョウちゃんが興奮した口調で俺にまくしたてる。
そうなのだ。
今日は、棋界の長い歴史の中でも5人しかいない、中学生棋士の6人目が誕生するかもしれない日なのだ。
ちなみに、女性棋士としては初めての中学生棋士だ。
「そんな天才が、なんで俺のところに弟子入りに来ちゃったのかね……」
棋士として、今のところ目立った戦績をあげていない俺の元に来た、天から将棋の才を与えられた弟子のことを想いながら、俺は自嘲気味に天井を見上げる。
天井の上の飛翔の間では、今まさに弟子の桃花が、盤を挟んで人生をかけた戦いを繰り広げているであろう。
「今日は対局ないのに、わざわざ将棋会館まで来たんだから、いい師匠してるじゃない」
「茶化すなよ……実際問題、桃花はまだ中学生だからマスコミ取材への受け答えとかが出来るのか、師匠としては不安なんだよ」
「俺もイナちゃんを通して何度も会ったけど、桃花ちゃんはしっかりしてると思うけどなー。って、お……!」
ホールに置いてあったテレビから、ニュース速報を知らせるチャイム音が鳴った。
『将棋の飛龍桃花三段が四段昇段確定。女性初の中学生プロ棋士の誕生』
「流石、テレビ屋さんは早いね~」
「決まったか」
「って、イナちゃん反応薄くない? 弟子の桃花ちゃんがプロ棋士になったんだよ! プロに‼ もっと喜んだら?」
「この日が来るのは、解ってたからな」
一棋士として、桃花の力量を測れば、これは必定の結果と言えた。
俺は、桃花がまだ小学生の頃からその成長を見守って来たのだから、彼女が別格の力を持っていることを、誰よりも解っているつもりだ。
「師匠として桃花新四段に何て声を掛けるんですか? 稲田師匠」
「そりゃ、おめでとうだろ」
「ヒネリがないな~ あ、そろそろマスコミも入れるみたい。じゃ、また後でねイナちゃん」
そう言って、キョウちゃんはダッシュで同行してきているカメラマンさんと、慌ただしく階段を昇って行った。
俺は、ドヤドヤと移動していくマスコミの皆様が移動していった後に、ゆっくりと階段を昇って飛翔の間に向かった。
「こちらに目線お願いします!」
「龍王の駒にもっと顔を寄せてお願いします」
マスコミ関係者が、カメラを向けてシャッターを激しく切るまばゆい光に顔を顰めながら、辛うじてマスコミの人たちの背中ごしに、我が弟子の様子を窺う。
人垣の間から、最近は毎日見る白襟のセーラー服に空色のリボンの制服姿が見える。
色んなカメラに身体を向き直るためか、動くたびにロングの黒髪がなびく。
「プロ棋士になれた喜びを、まず誰に伝えたいですか?」
「両親や友人たち等、私をずっと見守ってくれた全ての方々です」
よし、今のところは実に優等生な受け答えをしている。
俺の心配は杞憂だったか。
「
うわ……キョウちゃんめ、余計な事聞きやがって……
「うーん、そうですね……」
桃花は少し考え込んだ後、はっきりとした声音で答えた。
「師匠、私プロになったよ。約束、ちゃんと守ってね♪」
そう言って、カメラに笑顔で手を振る桃花の姿は、傍目にはまだまだ子供っぽい年相応の少女っぽさが感じられ、マスコミの方々をホッコリさせているようだ。
「お師匠さんとの約束って何ですか?」
「内緒です♪」
追加で質問をした記者に、悪戯っぽく笑いながら答える少女の眼差しは、少女としてのあどけなさと、それでいて強い意志の炎を宿した怪しげな色香が奇妙に両立していた。
桃花の言う約束という物が何であるのかは、師匠である俺と弟子の桃花だけが知っている。
こんな事、いくら仲良しのキョウちゃんにも言えない。
言えるわけがない。
「私が名人になったら結婚してください! 師匠‼」
その時の俺は、桃花の告白を、身近にいるプロ棋士であり師匠である俺への憧れや敬意を、恋と混同してしまっているせいだろうと考えていた。
女の子が幼い頃に『パパ大好き!』とか『お兄ちゃん大好き!』とか言うのと一緒で、いずれ成長するにつれて、その辺の整理がつくだろう。
そう考えていた。
だが……
その後、研究会で対局したら、
「師匠に初めて
「ハハハッ! そりゃ楽しみだ」
昇級すると、
「研修会でB2クラスになりましたたよ師匠! あ、女流棋士登録は希望しません。名人になって、師匠のお嫁さんになるから寄り道してられないので」
「お……おう。頑張りなさい」
奨励会の例会終わりには、
「来期からいよいよ三段です。約束、解ってますよね? 師匠」
「あ、ああ……うん、まぁ……」
そして昨日。
四段昇段、つまりはプロ棋士になれるか決まる大事な対局の前日にも、最早耳にタコが出来るくらい聞いた言葉を俺に投げかけてきた。
「私が名人になったら結婚しよ? 師匠」
そう、桃花はガチなのだ。
一貫してブレなかったのだ。
桃花は、俺と結婚するために、女性棋士として初めて名人になるという偉業をなし得ようとしているのだ。
着実に夢への第一歩を踏み出した弟子に、師匠である俺は喜べばいいのか、着実に自分の元に迫るハンターに恐れ
文字通りスポットライトを浴びる桃花を見ながら、俺は答えを見つけられずにいた。
なお、過去に中学生でプロ棋士になった5人は、その棋士人生において、5人全員が名人位に就いている。
例外は唯の1人もいない。
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