お遍路奇譚
@nakamayu7
第1話 子宝遍路 その壱
夫の慎吾がお遍路に行こうと言い出したのは、初夏、6月のことだった。
千里は今年で27歳になる。夫は私より1つ歳上だ。
結婚する前、千里の描いた将来設計は、27歳になるまでに一人目の子供を生む、30歳までに2人目を生む、その間は3年空ける、もしその時点でもう一人育てる余裕がありそうなら3人目を考える、というものだった。
もちろん子供は天からの授かりものであり、予定通りになるとは限らない。
10月生まれの私は、一人目の出産期限の27歳を目前にして少しあせっていた。
大学を卒業して今の会社に就職。1年間会社勤めをした後、大学時代からつきあっていた夫と結婚。妊娠したら退職するつもりでいたが、未だにその気配はない。
幼い頃に両親を失くし、養父母に育てられた私は家族というものに憧れていた。飢えていたと言った方が近いかも知れない。自分の家族を持つことは私の夢であり、切実な願いであった。だからどうしても自分の子供が欲しかった。
夫もそのことは知っていたから、子作りについては概ね協力的である。
毎日基礎体温を測って、妊娠しそうな『当たり日』には必ずセックスするようにしていたのだが、今回も月のものはきちんと来てしまい、がっかりする。その繰り返しだった。
不妊検査について夫にも相談したが、夫はあまり乗り気ではない。
「もうちょっと様子を見よう」と言うばかりだ。
近頃は夫も忙しいらしく、夜遅くぐったりした様子で帰宅することが多くなった。入社5年目ともなると中堅社員として『なんとか長』と言う肩書も付き、給料もそれなりに上がった。
私は正社員ながら一般事務職として働いているので、『長』がつくような出世もない代わりに、ほぼ定時で退社することができる。
結婚した当初は、早く帰った方が夕食の支度をする決まりだったが、今では夫が私より先に帰宅することは、まずない。
夜の営みも疲れているからと断られることもしばしばで、このままでは最低2人、できたら3人の子供を作るという私の将来設計は根底から破綻しそうな気がして、私は不満を募らせていた。
そんな不満が私の態度や表情にも出ているのだろう、口喧嘩やすれ違いも多くなって、せっかくの『当たり日』ですらセックスしてくれないこともあって、私は悔しくて一人で泣くこともあった。
そんな夫婦関係の綻びが目立つようになってきた結婚4年目のある日のことだった。珍しく早く帰ってきた夫が晩ごはんを食べながら、
「なあ、千里。一週間ぐらい休みとってさあ、お遍路に行かへんか?」
そう言い出した。
「俺、ここんとこずっと疲れてて、千里のことちゃんとしてやれてへんやん。悪いって分かってるんやけどな……」
「子供のこと、俺も考えてんねん。このままやったらあかんて。そやから、」
「そやからって何でお遍路なん?」
「子宝祈願も兼ねて。旅行でリフレッシュしたら子供できるかもしれんやろ」
分かるような分からないような理由だったけど、夫がちゃんと子供のことを考えてくれてて、私の気持ちも無視してる訳ではないことが分かって、すごく嬉しかったから、その夫の提案に乗ることにした。
二人の休暇を合わせるのに苦労したが、忙しい月末、月初の期間を避ければ何とか7月の中旬に2人一緒に1周間の休暇を取ることができた。
旅行の計画は全部慎吾にまかせっきりだ。
行き先は四国。88箇所の札所から、子授けのご利益がある札所をピックアップし、ここぞと言うところに絞ってピンポイントで回るらしい。
旅行が決まって以来、慎吾は会社から帰った後も遅くまで地図やガイドブックとにらめっこしている。何かとっても楽しそうだ。疲れた顔で早寝していた頃とは大違いで、見ている千里も嬉しくなる。
お遍路は第1札所から順に回る必要はなく、どの札所から回ってもいいらしい。出来上がった慎吾の計画書を見てぎょっとした。
「徒歩?」
慎吾が書いた手書きの地図には札所の名前と位置、それを繋ぐ大まかなルートが書き込まれている。そしてそのルートには『徒歩〇〇時間』と書いてあった。
「歩くの?」
「そらお遍路なんやから歩くに決まってるやん」
「車で行ったらあかんの?」
「車で行ったらなんかご利益なさそうやん?せっかく行くんやから最大限のご利益をもらわんと損やろ」
なんでも損得勘定で考える思考回路は大阪人だからか……
「子授かりでご利益のある札所をピックアップして、1周間で回れる範囲で限定してみたんやけど」
とりあえず最初は1番札所の徳島県霊山寺。ここは色々な縁結びのご利益があるらしい。子宝との縁も結んでくれるかもしれない。フェリーで徳島に渡るから、通り道にあたることもあり最初に参拝することにしたそうだ。
そこから回る札所は全部で3箇所。
「少なくない?」
「欲張ってたくさん回るよりも、リフレッシュ旅行も兼ねてるんやから、あんまり頑張らんとゆっくり楽しむのも大事やろ?」
「そっか」
考えてみたら子宝祈願は名目で、リフレッシュして頑張って子作りしようってことだもんね。納得。
慎吾も色々考えてくれたんやなあ、そう思いながら手書きのルート地図と本物の道路地図を見比べてみた。うん?
「なあ、このルートやけど道路なんてないんとちゃう?」
よく見ると『徒歩〇〇時間』と書いてあるルートは、どれも道路なんてないところばかりだ。
「道路はないけど、ちゃんと人が歩く道はあるで」
と言いながら慎吾が私に見せたのは登山地図だった。
「歩くんやから道路でなくても大丈夫やろ。お遍路道って言うのもあるらしいで」
ほらこのルート、と言って手書きの地図を指差す。嫌な予感がしてきた。
「あのさ、泊まるとこの予約とか、もうしたん?」
「野宿する」
「はあ!?」
「キャンプ道具一式、実家から持ってくる。千里の分もあるし」
そう言えば慎吾って大学ではワンゲル部に入ってたっけ。何度か二人っきりでハイキングに連れて行かれた記憶がある。
慎吾のプロポーズも、どこだったかの山の頂上でだった。そこでポケットから指輪を取り出して、私の左手の薬指に嵌めてくれた。
そのときは何てロマンチックな人だろうと感激したけれど、ここに来てこんな展開があるとは思わなかった。
「トレッキングシューズとレインウエアは買わんとあかんな。次の日曜日に買いに行こ」
何かのりのりの慎吾。こんな生き生きとした慎吾を見るのは久しぶりだ。水を差したくはない。不安はあるけど、元ワンゲル部の夫がついていてくれるんだからきっと大丈夫だろう。そう思うことにした。
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