第55話 引退なんて言わないでくれ!

「頼むラピス!」


 朝。


 起き抜けにゴミ出しをしようと玄関を開けると、真夏なのに上等な背広を着こんだ中年男性が、自宅の前で土下座していた。


「え、誰?」


「頼むラピス! 俺にはお前が必要なんだ!」


 おいおい泣く、スキンヘッドで濃い目のサングラスに大柄な男がおいおいと泣いている事態に、俺の起き抜けの頭は処理が追い付かない。


 あと、芸名のラピスって呼んでるという事は。


「お兄ちゃん、どうしたの? って、社長!?」

「社長?」


 玄関先での騒ぎを聞きつけたラピスこと瑠璃が出てきて、目の前の大柄な男性が地べたに丸まっているのを一瞥して、ウゲッ! とした表情を見せて呟く。


「おお! ラピス! ようやく会えた」


「知らない人です。帰ってください。人の自宅の前で迷惑です」

「そ、そんな! ラピスゥ~~! ドアを閉めないでくれ~!」


 玄関のドアを閉めようとする瑠璃に、大男が追いすがる。


「瑠璃、さっき社長って言ってたじゃないか」

「大丈夫だよ、お兄ちゃん。もう事務所との契約は終わりにするつもりだから、もう知らない人だよ。このクマ、帰らないから、不退去で警察に連絡して」


 ニッコリと笑いながら、瑠璃は玄関のドアを力いっぱい閉めようとする。


「ウオォォォン! 引退なんて言わないでくれラピスぅうぅうう!」


「引退!? 瑠璃、お前、芸能の仕事を辞めるつもりなのか?」

「うん、そうだよ。一線からは退いて、裏方に回ろうかなって」


「なんでまた、そんな……」


 歌姫ラピスは、今、まさにスターダムに上り詰めた所だ。

 そして、瑠璃の年齢はまだ15歳。


 これからの彼女の成長と共に、その歌われる楽曲がどう変化していくのか、世界中が楽しみにしている所だ。


「楽曲提供で今後も歌や曲はファンに届けるよ。お兄ちゃんや、優月、珠里の子供達みんなの生活費を稼がないといけないからね」


「その狂った未来予想図、本気で実現するつもりなんだ……」


 瑠璃の場合、実際に実現できちゃうところが、本当に始末が悪い。


「夏休み明けからはお兄ちゃんと一緒に高校通うし、アヤメ様を祀る宗教法人の立ち上げの手続もあるし、もう歌姫なんてやってる暇ないんだよね」


「優先順位が色々とおかしくないか?」


 とは言え、瑠璃の人生な訳だし、いくら兄とは言えどこまで口出しして良い物か……。

 と迷っていると、この間にも絶賛、地べたに這いつくばり中のクマと目が合う。


「あの……失礼ですが、ラピスのお兄様ですか?」

「は、はい」


「ご挨拶が遅れました。わ、わたくしラピスの所属する芸能事務所サンノーブルの社長の今泉と申します」

「いえ、こちらこそ妹の瑠璃が大変お世話になっております」


 朝貢する使者が貢物を献上するように差し出された名刺を受け取り、俺も挨拶を返す。


 ご丁寧にサングラスも取って挨拶してくれたが、その眼も鋭く、やっぱり反社っぽい。


「お兄様の方からも、なんとかラピスを説得していただけないでしょうか?」

「はぁ……」


「お願いします! ラピスの歌声が届けられなくなると、ファンが悲しむんです! あと、事務所が破産して所属タレントが路頭に迷います! どうか! どうか! お願いします!!」


スキンヘッドの強面から泣きながら迫られると圧が凄い。

 見た目は反社みたいなのに、やってくるのは泣き落としなのかよ。


「たしかに、急にラピスの歌が聴けなくなるのは残念ではあるな……」

「え!? お兄ちゃんは、私にまだ歌姫ラピスであって欲しいの?」


 何気なくつぶやいた言葉に、瑠璃が反応する。


「あ、いや、瑠璃が歌姫を続けるのが本当にしんどいなら辞めた方がいいと思う。瑠璃の心身の健康が第一だし」


「お兄ちゃん……私のことを、第一に考えてくれてるんだ……嬉しい」


 トロンとした目で瑠璃が俺の目を真っすぐに見つめる。


 あれ? 媚薬入りのお香は捨てたはずだけど、また焚いてないよな?


「まぁ、そりゃ家族だからな。けど、俺のために色々と犠牲にしちゃうのは心苦しいよ」

「けど、さすがに私も、お兄ちゃんのお世話と高校生と歌姫ラピスと宗教法人の代表を全部やるのはキャパオーバーだよ」


「……アヤメを祀る宗教法人は、まだやらなくていいんじゃないかと思う」


 ここで、俺はチャンスとばかりに宗教法人の立上げを後ろ倒しにするように進言する。


 っていうか、あの駄目女神を祀る宗教法人なんて要らないので、このまま有耶無耶にしたいところだ。


「うーん……たしかに心神を集めるには準備不足は否めない……それに、宗教法人立上げ後に信徒を増やすためには、ラピスの知名度は健在な方がいいかも」


 ここで、瑠璃がその才覚の詰まった頭脳でそろばんを弾く。


「そ、そうだろ?」


 いや、お兄ちゃんの俺としては未来に渡っても、そんな怪しい宗教の教祖様にはなって欲しくないんだけど、その事は押し隠して、瑠璃の見立てに肯定的な答えを返す。


 俺の横で、不安と期待が入り混じったハラハラしたような表情で今泉社長が見つめる。


「う~ん……お兄ちゃんも私の歌聴きたい?」

「うん、聴きたいよ」


 これは、本心だから自信をもって、俺は瑠璃の顔を見ながら大きく頷いた。


「そういう事なら仕方ないな~。じゃあ、まだ歌姫の活動も続けようかな」


「うん。よか「うおおおおぉぉぉぉぉん! ありがとうラピスぅぅぅぅぅぅううう!」


「ちょっと社長! 別に、社長のためじゃないんだからね」


 強面反社顔のクマみたいな体格の男に追いすがられる女子校生歌姫という図式は、客観的に見て中々にシュールだった。


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