5話

 子瑞しずいが召宝庫の床を開くと、その中に掛けられている梯子から左手に陽招鏡を抱えて降りていった。そこは闇に包まれており、梯子を下りてしまうと、王都順羽じゅんうの外へと出られるという通路は、洞穴と言っても過言ではなかった。


 その通路は、人がやっと通り抜けることが出来ると言った大きさで、暗くジメジメしていており、その闇の中子瑞しずいはそこを駆けていく。

 しかも、地面が均されていないのか何度もこけそうになってしまい、着ている黒い絹の生地に紫黒の鵬が刺繍された上衣が、次第に汚れまみれになり、周りにぶつかるたびに擦れてしまった。


 ましてや、禁軍の兵が召宝庫からの隠し通路を見つけたのか、報告する叫び声が聞こえた。

 子瑞は後から追手が来るので、さらに早く足を運ばせ、数えきれないほどつまずきながら、城外につながる出口へと向かう。


 すると、急な上り坂となり、そこを這い上がっていくと、通路の上部に自分の胴体がやっと通れるぐらいの狭い隙間が上に空いており、そこから月の光が入り込んできている。


 一瞬躊躇ったが、腹をくくって僅かな残りの力を振り絞りその隙間へと入り込んだ。

 しかし、その隙間の小ささと自分の身体の大きさで――――とは言え、背が高い割には細身で弱々しいと官から散々言われていた体躯も互いが摩擦し合い、着ている上衣が引っかかり、ビリビリと音を立てちぎれ、破れがひどくなってしまった。


 しかしそのような時でも、背後から追っ手の兵の声がだんだん大きくなっていく。


 急いでこの隙間から出ようと必死にもがき、身体と隙間との摩擦がより一層激しくなった。

 そして、破れた上衣から露出した雪のように白く美しい肌に擦り傷ができて、そこから鮮血がいくつも流れてしまった。


 やっとのことで子瑞はその隙間を抜け出すことが出来た。そこは、順羽の北辺の城壁と地面との間に出来た僅かな隙間だった。


 子瑞の着ている上衣は、無惨にも原型を失うほど破れており、その箇所の擦り傷から流血している肌があちらこちらを露出している。

 頭頂部と足元まで伸ばして襟足とを結っていた紫黒の艶やかな長髪も解けて、ぐしゃぐしゃとしたざんばら髪になった。


 子瑞が即位した途端、妹の萊珠りしゅとの壮絶な王位継承争いのそのさなかにあったにもかかわらず、自分の部下で奉常ほうじょう海伯黎かいはくれいに簒奪される始末に逢って当然だったのだと自嘲した。


 子瑞は外へ抜け出た途端、隙間から抜け出すまでの摩擦で幾多も擦り傷を負ったことによって、肩で息を切らすほど疲労困憊していた。


 建物が何もなくただ広い草原と森林が下り斜面の向こうに広がっていた。

 さらにその向こうには、この冬亥国を西から北、そして東に兌震山脈だしんさんみゃくが囲むようにそびえている。

 その標高は約5万5千じん(約9487.5m)もあり、それを越えることが出来た者は誰一人もいなかった。

 そして、背後を見ると、斜面を上った先に城壁がそびえ立っていた。


 子瑞が城壁の歩哨から見ていた景色とは打って変わって、ここからの景色を改めて見ている。


 これが下々の民草が見ている風景だと思うと、自分はこの国の王として、彼らの上に立つ身である。

 それにもかかわらず、このようなざまで王としての器がないのだと不甲斐なく思っている。


 そして、自分がこの目線に立たずして、民草の想いなど考えずに、まつりごともろくにしなかったことに対する自責の念にかられるのだった。


 そのようなことを考えていたが、自分が出てきた隙間から間もなく兵が這い上がろうと、そこから上半身が抜けて出てきていたことに気づいた。

 兵は体が自分より大きいのか、甲冑を外しているとはいえ、隙間に身体がつっかえて出られないようだ。

 それに気づいた子瑞は、兵がそこから出てしまう前に、疲労した状態でこの場からいち早く去った。


 ――――このままここで冬亥国の王として潰える分けにはいかぬ。


  子瑞は、そのような決意を固め、陽招鏡ようしょうきょうを強く胸に抱き、順羽の北東にある鴦県おうけんの県都靜耀せいようへと続く街道に向かった。


 靜耀への街道は王都順羽城外の北東に位置し、順羽がある叢県そうけんから、街道を通り靜耀を目指す。


 街道は林の中に入り、そこは鬱蒼と木々が茂っているのが月の明かりだけでも分かった。それらの枝葉が月影に照らされていた。


 木々の梢の隙間から吹きすさぶ風は、8月にしては肌寒く感じた。それは、子瑞の切れ長の透き通った紫の瞳をした目を細めるほどの冷たさだった。


 それでも、子瑞はもう息が続かないほど疲れた状態で走っていたが、禁軍の兵が追ってこないか後方を確認する。

 振り向くと、ただ街道に沿うように木立が並んでいるだけで、まだ未明なのか人の気配を感じずに済んだ。


 しばらく、靜耀に辿り着けるように半刻(1時間)経ち、人気ひとけが無いと判断して、体力を温存しつつゆっくり歩き続けた。


 しかしその直後、前方の靜耀方面から蹄の音が聞こえてきた。その直後、林の中にも関わらず、その方向から闇の中から幾重にも点々と火の灯りが近づいて来る。


 予想だにしなかった事態に子瑞は戸惑ったが、すぐに判断がついた。街道の脇に生えている灌木の中へ突っ込んでそこに隠れ、近づいて来る蹄の音の正体を確認した。


 そしてその方向から、豪奢な鎧を身に着け騎乗した禁軍の兵が松明を片手に持っていた。どうやら、その隊は数十人ほどの兵で編成されており、辺りを見回している。どうやら、自分を捜索しているようだった。


 何故順羽の隣県の県都靜耀の方から、順羽に駐在している禁軍の兵が駆けて来たのか子瑞は疑問に思った。

 理由は恭啓きょうけいによってそこの県令に匿ってもらうよう伝鴇を送っていた。

 それなのに禁軍がそこから来たということは、自分が靜耀に逃げることをもう既に知っていたのではないかと予測した。

 そうであれば、自分が靜耀に行っても、我が身も助からないのだと思うと、身体の震えが止まらなくなった。


 しかし子瑞は禁軍の兵士らに見つかるわけにはいかず、自分が王位を奪還を果たすためにやらなければならないことがあった。


 敵兵が照らし出す松明の灯りに当たらぬよう、潜んでいた灌木の茂みから抜け出し、街道から更にできるだけ離れた深い林の中へと行き、小脇に抱えていた陽招鏡を震える腕で取り出した。

 そしてそれを地面に置いて、子瑞は陽招鏡に向かって手をかざし、陽招士を転移させるための呪文を詠唱した。


「この神界を創りける北辰聖君ほくしんせいくんよ、汝が君臨させたもうた鳳皇ほうこう凰后おうごうの血を引き継ぎし黒き鵬、幽昌ゆうしょうたるこの冬亥国王、泉子瑞せんこうぜんに力を与え、陽招士をここに召さんとす――――」


 すると、黒曜石で出来たその鏡が地面から浮き上がり、直径が1尺半(34.5cm)から、7尺半(172.5cm)に広がると、子瑞に鏡面が向けられた。

 それには、服が破れるほど傷を負って、頭部から出血した状態で倒れている状態の一人の青年が映し出された。

 彼は正気を失った顔をしており、もうこれ以上ピクリと動く気配はなかった。


 その青年の横には――――どうやら幻世の車のような乗り物であろう大きな四角い物体がある。

 青年はその大きな車のような物体が、彼の右側から衝突し、左の方に吹き跳ばされて地に落ちた衝撃で頭蓋骨を損傷し、命を失ってしまったようだ。


 そして、青年を映していた陽招鏡が、急に闇夜を照らすほどの閃光を放った。その目も眩むほど輝く光の中から、その青年がその中から姿を現した。


 ついに、陽招士が四鵬神界に召喚されたのだった。

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