ご来店の挨拶は「こんにちは」─京都の生活雑貨店『INOBUN』─

 京都には『INOBUN──イノブン』という店がある。街中の喧騒の中にひっそりと佇む、癒しと安らぎに満ちたアンティークな雰囲気を放つ生活雑貨店。本店は四条河原町にあり、その他にも奈良や大阪、滋賀にも支店を構える。私がよく出向くのは本店の方だ。


 一歩店内へ足を踏み入れれば、外の雑踏とは無縁の、若しくはまったく気にならないような独特の世界が目の前に広がる。

 店内所狭しと並べられているのは、きらきらと眩い光を放つアクセサリーの数々、細やかな刺繍の施されたレースのハンカチ、衣類、繊細なデザインの食器や優しい香りを放つフレグランス、心躍るステーショナリー、オーガニック化粧品。足元には彩り豊かなフェイクフラワーがバケツ一杯に入れられ添えてある。どの品々も『INOBUN』が『INOBUN』たらしめる雰囲気を持つものが陳列されているように思う。


 INOBUNは古く長い歴史を持つ(この件に関しては以前、私個人で調べていた際に驚いた記憶がある)1814年に紙業として創業、1869年に『奈良屋』を屋号とし、1973年には現在の株式会社『イノブン』に組織変更。その後順調に支店を増やし、今に至る。

 私が初めてこの店を訪れたのは数年前。当時の仕事や人間関係に翻弄され、ひどく疲弊していた当時の私に、ほんの一瞬にして大きな安らぎをもたらした。それ以来、近場に行く際は必ず足を運ぶようになったのだが、この間訪れた際に、ふとあることに気がつく。

 この店の居心地の良さは、果たしてどこから漂ってくるのか──ということに対する答え。それは、以前から確かに感じていたが上手く言語化することができずにいたもの──というより、私生活の忙しなさが勝り言語化する余裕もなかったのだが、先日の来店で少しだけ紐解けた気がする。

 それはイノブンという店が、陳列する商品や店内装飾といった目に見えるかたちで醸し出している独特の雰囲気とは別のものだ。なぜこうも安らかな心地で買い物ができるのだろうと、ずっと頭の片隅にその疑問がふんわりと引っ掛かっていた。


 店員さんたちは、店内で客とすれ違うとき『いらっしゃっいませ』ではなく『こんにちは』と声をかけてくれる。『こんにちは』は、人と人とが交わす日常的で代表的な挨拶の言葉。店側として客を迎え入れる際、かける言葉として使われるのは『いらっしゃいませ』が世間では一般的だと、私も含めて誰もがそう認識しているはずだ。イノブンは、その『いらっしゃいませ』という言葉に魔法をかけた。


 客として店へ入る際『いらっしゃいませ』と声をかけられると、どうしてもお客と店の関係を意識させられて少なからず緊張し身構えてしまう。だが『こんにちは』と声をかけられると、まるで親しい隣人と挨拶を交わすが如く、自然体でお店の空気に馴染み買い物ができる。とてもささやかなことだが、言葉にかけられた魔法の力は強力だ。そのことに気がつき、感嘆した。客としてというより一人の人として店を訪れ、居心地よく買い物ができる。こんな素敵なことがあるだろうか。


 イノブンの経営理念にはこうある。


 ──私たちイノブンは「健康で夢ある楽しい生活シーンを提供する」ことを使命とします


 私は、店員さんにかけられた『こんにちは』から安らぎと癒しを受け取った。店と客という立場ではなく、人と人。人が人としてお互いに自然体でいられること。イノブンは言葉の魔法、言霊の仕組みを大事にしている店なのではないだろうか。


 ちなみに、本店の外壁にはラテン語でとある言葉が四種ほど刻印されている。

『FESTINA LENTE』──ゆっくり急げ

『DUM SPIRO, SPERO』──私は息をする間は希望を持つ

『OMNIA VINCIT AMOR』──愛はすべてに打ち勝つ

『VITAE SAL AMICITIA』──友情は人生の塩である


 アウグストゥスやキケロ、ウェルギリウスの遺した言葉が含まれている。本店の向かい側でバスを待っている間、ふと見上げるとこの文字が目に留まる。忙しなく過ごしている日常の中、立ち止まって自分の内側と静かに向き合い対話するきっかけをもらう。


 イノブンは巷に溢れる雑貨店とはどこか異なった雰囲気を持つ、不思議な魅力を放つ店。近くを訪れることがあれば、ぜひ立ち寄ってみて欲しい。

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琴線に触れる日常 鷹川安世(たかがわ あんぜ) @anze_takagawa

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