第8話 どこにいるのかわからないからここを作らなければならない
久彦は必死に走り回った。
紫と緑と一緒につくった思い出の地を……
このどこまでも壮大な自然が広がり、緑にあふれ、青に囲まれて、海も川も、森も林も……
なにもかもが満たされ過ぎている、自然という豊かさに満たされ過ぎている、そんな場所を……
雨に降られても、風にあおられるようなことがあっても……
遠くから雷鳴の轟く音が聞こえてきていても……
ずっとずっと、まだまだ数キロ先に落雷のあったのがはっきりと見えているとしても……
久彦は胸を締め付けられる思いでいっぱいになって、自らの命のことなど少しも、これっぽっちも意識していない状態で、紫を捜索した。
ほんとうに、自分の命なんてものが、いまここにあるのかすら意識できないほどに、こころには紫の命がいっぱいに広がっている。
紫の命さえあればいい。紫が生きてさえいればいい。今までの思い出が、一緒に思い出を作ったひとが、そんないい加減なことで死んでいいわけがない。
久彦にとって、紫の予期される死は到底理解できるものではなかったし、許されるものではなかった。紫がどのようなことを思っているのか、どれほど苦しいのか、それを推し量ることは今の時点では難しいが、親友だったから、わかる。紫は絶対になにかとてつもない闇を抱えていたんだ。
とてつもない闇
それは他人には理解できない部分にある闇
理解しようとしても、本質的なところまでは到底到達できないような闇
そのような闇は誰もが持ち得るものであるし、理解して欲しいと思いながらも、どうしても表に出したくない闇であったりする。本当に、どうしようもなく深く、真っ黒で、とてつもなくいやらしい、ぼくたちの闇。
私たちの闇。
……
……
……
「紫、お前はいまどこにいる?」
雷鳴がすぐそこまで迫ってきている。落雷が頻繁に、田んぼのいたるところに落ち始めている。木々のバリバリと弾ける音。何本も枝分かれして流れている電子の道筋。全てがスローモーションになって、動いているように見える。その精神的な時間の進みの遅さに、久彦は何も、何事も進みえないような感覚に襲われる。
考えることばかりが増幅されて、実際的な願望的帰結へは少しも貢献がなされていないような感覚。それはとても恐ろしいものであったし、さらに久彦の心を抉りとるものであった。
心にあるもの、その何かしらが抉られていくような実感。心が痛む。雨粒が顔に当たり、弾ける。痛い。痛い。心も体も、何もかもが痛い。
「僕も最近まで自分がどこにいるのかなんて、少しもわからなかったんだ。そしてそれは今もまったくわからないんだ。これっぽっちも、わからないんだ。だからさ……。だからこそさ……。どんなことがあっても、さ。僕たちは一緒にいないといけないんだよ。一緒にいて、ここに留まり続けなくちゃいけないんだよ」
ここ。
ここに留まり続ける。
どこにいるのかもわからないような世の中だから。
人生だから。
ここ。
ここを作らないといけない。
なによりも大切な、ここ。
そこであっても、あそこであっても、どこであっても……
ここに敵うものはない。ここを目指さないといけない。目指したほうがいいと思っている。
紫……
紫はどこにいる?
どこにいて、何をしている?
そして、どんな闇を抱えている?
「紫ぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!」
久彦が叫んだ瞬間。
『バリバリバリバリィィィィィィィィィィィィィィィィィィ!!!!!!』
ほとんど近くに雷が落ちて、弾けた。
身震いがした。
そして、気が付くとそこには鳥居があった。あの鳥居があった。
鬱蒼とした佇まいをした、森に囲まれて……
その積乱雲の真下にいる久彦を、真っ暗闇へと誘うように……
唐突に目の前に現れたように見えた。
……
……
豪雨の音。
雷鳴。
木々の弾ける音。
そして……
緑。
緑もまた、ほとんど時を同じくして久彦の前に現れた。
まるで幻のように思えるタイミングだった。
「久彦!!!!!!!!!!」
緑が険しい顔をしている。
そして上下に激しく肩を上下させている。緑も緑で必死に走って紫を探していたのだろう。目には涙が継続して流れ続けているようにも見えたし、それはただの雨粒でできた仮初の涙であるようにも見えた。しかし、目は泣き腫らしたときのように真っ赤になっていたし、顔にはとてつもない悲壮感が漂っていた。
久彦は運命を感じた。
これはかぎりなく、確度のようなものを伴った、心のなかにふっと落とし込めるような、運命だった。まるで春の熊が雪解け水をそっと飲んでいるかのような優しさがあった。運命を受け入れるときの、何かしらの覚悟を持って受け入れるとしたときの、運命の優しさのようなものがあった。
「緑!!!!!!!!」
「久彦!!!!!!!!!!!!」
二人はお互いの存在を確認して、すぐさま石段を駆け上った。久彦は緑をぐんぐんと引き離して、その神社の境内へとずかずかと入っていった。
鳥居を潜り、鬱蒼とした森たちが久彦を覆いつくすと、雨音がずっとずっと天井のほうで鳴り響いているのが聞こえた。
静かな不気味さ。あの夕暮れのときに感じた不気味さとは全くことなる質の不気味さ。異質さ。
それは、もう完全な場として整っているように思えるような、そんな状況。あまりにも自然がそれを支えてあげているような、そんな心地さえしてしまう。
そして……
久彦は紫をとらえた。
「あっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
「紫!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
久彦と緑の悲痛な声が暗闇をまとった境内に響いた。
大きな落雷の光が、後ろから二人のことを不気味に照らしていた。
その瞳には、紫の姿が不気味に映し出されている……
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