第7話 微分可能性と恐怖と運命について

 その日は紫のことで学校中が騒然としていた。それは久彦と緑だけの問題ではなく、紫の友達の問題でもあり、担任の問題でもあり、学年主任の問題でもあり、学校全体の問題でもあった。


 しかし当然のように学校側からは表立った口頭による説明があったわけではなく、あくまで非公式におけるコミュニケーションにとどまっていた。それはまだ騒ぎを起こしたくない学校としては当然の様子であったし、学生の本分としての授業を継続させるための当然の帰結であった。


 まだ朝の授業が始まるまでには時間がたっぷりとあった。


 久彦は胸のなかで泣き続けている緑をしばらくのあいだ、固まって見つめていた。固まるしかなかった。


 なぜ……?


 久彦は何が原因で思考を停止している?


 久彦の頭のなかは、紫のことでいっぱいになっていた。すでに緑の存在は遠くの彼方へと消え去っていた。


 緑が浮気をしていたという問題も……


 紫が親友としての自分を裏切ったという問題も……


 何もかもが、ただ一つのことでかき消されてしまっていた。それほどの威力がそれにはあったのだ。


 緑は胸のなかで盛んにその可能性について言語化して、不安を外へと露出させている。顔の表情や体の素振りだけにとどまらず、声に出して、不安を言語的に表出させている。罪を感じ自らに罰を課そうとするような声色で、緑は永遠とも思えるような後悔の念を露出させている。




「久彦がいない間に私が紫のことを突き放してしまったからいけないんだ」

「もっと真剣に紫の悩みを聞き入れてあげるべきだったんだ」

「私に余裕がなかったからって、何もそんな態度を取ることはなかったんだ。私は紫と親友だったのに。親友だったのに見放してしまったんだ」

「本当にあのときは紫が可哀そうでならなかった。だからあのときはなんでも紫のいうこと聞いてあげようと思ったのよ。親友として」

「でもいま思うとそれは何も紫のためにならなかったのよ。紫の性的な欲求不満なんて紫自身が正しく解消するしか道はなかったというのに」

「私は私の性を無意味に使用してしまった」

「そして紫を傷つけるだけでなく、久彦までをも深く傷つけてしまった」

「本当に私は最低なやつよ。助けることと傷つけることの区別が何もついていないなんて。どうしてあのとき私はK先生の代わりになれるなんて……」

「お願いだから、帰ってきてよ、紫。お願いだから……ねぇ」




 緑の涙と鼻水と涎で、久彦の制服は大きなシミを作り始めていた。しかし、彼らはそんなこと少しも気になどしていなかった。緑はおおよそ果てしない後悔の念に襲われて自らを本質的に見失いかけているところであろうし、久彦はその緑のぼんやりとした輪郭のない懺悔に近い言葉の連鎖から抽出された最悪の可能性によって頭を朦朧とさせていた。


 これは久彦にとって初めての経験だった。あまりにもそれが身近に迫ってきている実感があった。じわりじわりと、その可能性が現実感のあるものとして変化していき、次第にそれはもうすでに行われてしまったことであるかのような感覚が久彦を襲った。


 それはとてつもなく恐ろしいものだった。この世にこれほど恐ろしい可能性の恐怖はないだろうという実感。それは純粋にその可能性の確度が高いことからくる恐怖かもしれないし、その可能性がもつ本質的な恐怖からくることかもしれない。


 もし明日、地球に巨大隕石が衝突する可能性があったとしても、それをテレビが報道しているという信頼性に基づく可能性であったとしても、今の久彦にとって、いまのこの紫にかかわる可能性の凄まじい恐怖に勝るものなど少しもなかった。



 親しくしている、愛している異性または同性と何も後先考えない目先の快楽だけが目的の性交をしたあとに、性病に感染しているかもしれないという可能性の恐怖であっても……


 明日もしかすると何かしらのバブルが弾けて金融商品の価値が一気に下落するかもしれないという、そんな可能性の恐怖であったとしても……


 そのようなあらゆる可能性の恐怖が、久彦を襲ったとしても、今の久彦は少しもそれには震撼させられないような雰囲気を漂わせていた。




「緑、僕はいくよ」



 久彦は胸のなかの緑を丁寧にどかして、すぐさま教室を出ていこうとした。その後ろを緑が悲痛な叫びをあげて追いかけてくる。



「私もいくよ久彦!私も!!」

「緑。これは一緒に行ってどうこう、という問題ではないと思う。なんなら手分けをしてすぐにでも探しにいくべきかもしれない。これは一刻を争う事態だからね。警察はこういうとき何も頼りにならないさ、でもそれは別に彼らが悪いわけではない。警察に何もかもを求めすぎるのはよくないからね。緑、これはね。本来はね、僕たち三人の問題なはずだ。究極的には僕たち三人だけの問題であるはずだ。そして緑。君はそんなに後悔をしているのであれば、学校になんて来ないで、ひとりであっても紫をすぐさま探しにいくべきだった。その意味がわかるか? 緑はすでにそれを知っていたんだったら、少なくとも学校になんて来るべきではなかったんだよ!!!」


 緑はハッとした顔をして、その場で立ちすくんだ。緑を新たな後悔の念が襲った。あまりにも残酷すぎる自責の念が緑を支配し始めた。


 一刻を争う事態。


 それはまだ、死が可能性としてあるときの一縷の望みでもある。絶望に内包された希望でもある。


 久彦はなりふり構わず駆け出した。


 紫のことを思って。


 紫の存在を思って。


 すでに問題は新たなものへとすり替わっていた。


 それは天秤にかけられる以前の段階であった。比較するまでもなく、それは絶対的な解決すべき課題として、問題として、久彦たちに降りかかった。


 どこまでも青く、清らかであった青春をともにした三人のうちの二人に伸し掛かってきた喫緊の課題であった。


 紫、紫、紫……


 紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫紫


 ……


 ……


 ……


 すでにそこに青春の色はなかった。なにもかもが取返しの付かない領域まで浸食し始めている予感がする。


 しかし久彦は探さなくてはならない。


 紫を探さなくてはならない。


 ――なぜ?


 紫のことが心配だから


 ――なぜ?


 親友だったから。大切なひとだったから


 ――でも彼は君を裏切ったんだよ。


 死の可能性は全てを黒く塗りつぶしてしまう。その恐怖に耐えられないんだ。


 ――じゃあそれは君が君のために紫を探すということかね?


 ああ、そうだとも。それももちろん、あるさ。それをやらなきゃ後悔するんだ、きっと。


 ――なぜ?


 もう二度と話し合えなくなるのが怖いからだ。


 ――君はまだ紫と対話したいというのかね?


 ああ、そうだ。悪いか。それのどこが悪い。


 ――君はあまりにも純粋で高潔で、だからこそ損をする人間だとは思わないかね?


 何が言いたいんだ!


 ――紫が所詮は何も人間的な魅力はなくて、正真正銘のクズだったと割り切って生きていくことはできないのかね?


 そのような生き方を積み重ねていけば、きっと僕は掬い取れるはずだった大切なことを取りこぼして、取りこぼし続けてしまって、そのことに気が付かないままに、常に顔を歪にしかめて生きていきそうに思えてしまうんだ。


 ――そうかね。それはなんとも不毛な考えだとは思わないかね。結局それはどこまでも個人的なポリシーに過ぎないではないか。損をし続ける可能性があることは怖くないのかね?


 そんな可能性を考えてしまう精神なら、僕は自己嫌悪とともに自暴自棄になって知床半島のヒグマと真っ向勝負しに行ってしまうね。


 ……


 ……


 ……


 久彦はこうして、紫の捜索を開始した。そして緑もまた学校を抜け出して紫のことを独立して探し始めた。


 三人の青春を頼りにしながら。手探りの捜索を開始した。


 雲行きは怪しく、二人の存在を雨粒がぽつぽつと濡らし始めている。


 初夏のもくもくとした入道雲が、鬱蒼とした森林のその頭上を壮大な佇まいで居座りながら、その裾を真っ黒に燃やして、二人をそれぞれに迎えいれようとしている……

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