第20話 やれやれ
「ママー、おみずのみたい」
「ゼナくん。川のお水は飲んじゃダメよ」
「どうして、かわのおみず、のんじゃダメなの?」
と、年端もいかない金髪の男の子が、母親と同じ灰色のくりっとした瞳で尋ねる。
「……汚いから」
「えー?汚くないよ」
「その川はね、透明な血の川なの。血なんて飲みたくないでしょう?」
「うん……」
自分より幼い子どもがそう言って諭されるのを見て、レイは。
「透明な血の川――なにそれ、カッコいい!ねえルジ、飲んでいい!?」
今にも飛び込みそうな勢いでそう言うので、思わず笑ってしまう。上で飲んだ赤色の水がそのまま流れてきただけなのだが。
「ふはっ。――飲んでもいいけど、人に見られないようにね」
「なんで?」
ふむ。上手い方便がパッと浮かばない。正解は気味悪がられるからだが、赤色――魔族がダメな理由も分からないレイに、そんなことを言ったって仕方がないだろう。
「えーっと……」
「この川の水を飲むとね、たまーに、特殊能力が手に入るの」
「特殊能力!?」
真実を言いかけた俺を遮り、ムーテが創作を披露し始める。
「そう。だから、飲んだことがバレちゃうと、組織に追われることになるの」
「な、なんだって!?」
思えば、ムーテは昨日、出会ったときからこんなノリだった。案外、レイと気が合うのかもしれない。
「ねえ、トーリ。一緒に飲もう。二人で組織に追われながら愛を育む逃避行を――」
「えっ。追われたくないんだが……」
「そっか!追われなくても僕たちの愛は無敵だもんねっ」
「ほぇ」
「どこでそういうことを覚えてくるんだ」
教えた覚えはないんだが。トーリが助けを求める目――頭巾で目は隠れているが、訴えかけてきているのは分かる。しかし残念ながら、助けてはやれない。こうなるとレイは無敵だから。
いくつかの会話を盗み聞き――というと聞こえが悪いが、国の内情を噂話からそれとなく探っていると、ふと、気になる影が見える。俺は意識の半分をその影に向ける。いくつかの会話を同時に聞き分けることくらいは容易い。
「聞きましたか?ラスピス首相が退任されるそうですよ」
「聞いたぞえ聞いたぞえ。なんでも、精神を病んだそうじゃのう」
「じゃあ、その間に、魔族たちが攻めてきたりしたら――」
「魔法降天から七年ぞよ?さすがにないしゃわ」
――よく言ったものだ。
「それもそうですね。そうなると、我が国を騒がせるのはせいぜい、首相の娘さんの脱走癖くらいなものですが」
「それもこう毎日となると、騒ぐほどでもないっちゃ。それよりハミラス。今日の晩御飯は何がいいしな?」
そこまでで音の意識を切る。人間たちは至って平和な日々を過ごしているらしい。周囲の会話のいくつかに耳を傾けていれば、ある程度の内情は分かる。空気感が、ぬるい。
「なあ、ルジ。今の黒髪の女の人――」
「あんなに露出多くて風邪引かないかなって?」
「ま、まあ、それは思ったが。そんなことより……目が、赤くなかったか」
「うん、赤かったね」
「え、と」
その件にはこれ以上関わるなと、視線で諭せば、トーリは俺の顔色を窺いながら、静かに、頷いた。
***
人目がないのを確認して、こっ、とレイが水を飲む。ささっと周りを警戒するその心中はさしずめ、敵国の諜報員といったところか――こんなに怪しい諜報員がいてたまるか。
「きょろきょろ。よし、敵はいなさそうだ」
――残念ながら、いる。
昨日、おいたした俺を見張っている、というわけではない。監視対象は首相の娘――ムーテの方だ。
頭巾を被っていても結局、気づかれてしまったらしいが、ないしは、俺が誘拐したと思われているかもしれない。
俺としては別に見張りがいようといまいと関係ないが、音で察してしまった繊細なトーリは落ち着かない様子だ。
見張りは各地に配置されており、今いる者たちだけを撒いたところで、あまり意味がない。
まあ、彼らに川の水を飲んでいるところを見られたとて構いはしないので、レイが飲んでいるのに口出しはしない。
あとは、隙さえあればいいのだが――。
「ふふふ。これで最強の力は我のものだ……!」
「ついに最強の力を手に入れてしまったか、おにーさん……」
「特殊能力って話じゃなかったか?」
そんな簡単に強くなってたまるか、とは言わないが。てか、ムーテさん、ノリノリだな、とも言わないが。
ともあれ、戦争を止めようと思えば、現首相ラスピスに直談判するのが一番、早い。
ニーグに魔力印つきの手紙を書いてもらったので、これである程度は顔が利く。緑の軍団に見せれば、ムーテを誘拐したと思われずに済む。
――ただ、首相の精神状態が芳しくないというのが気にかかるが。
「なあ、ムーテ。今の大統領って、体調を崩してるのか?」
ムーテの顔が、強張る。貼り付けたような笑みを崩さない子だという印象だったので、それだけで、本当に酷い状態なのだろうと分かってしまうほどに。
「……そうだよ。最近はもう、言葉すら分かってないみたい。退任を待たずに選挙をやるべきだーって大人たちが騒いでる」
「そうか」
言葉が分からない相手に、戦争云々言っても無意味だ。
やはり、人類の敵としてチリリンをこの地に放つことで戦力を削ぐ作戦に出るしか――。
「そういえば、チリリンは?元の飼い主さんのところに戻っちゃったの?」
と、レイが心を読んだかのように問いかけてくる。
「ああ、目立つからもう少し向こうで合流しよう……って、言ったんだけどなあ」
こてんとムーテが首を傾げている。そう言えば、ムーテはチリリンを知らないのだった。
「チリリンって?」
「まあ、会えば分かるよ」
「誰かの愛称?」
「ああ、まあ、愛称ではあるけど――」
説明しかけると同時に、トーリがさっと青ざめるのが見えて、そちらに意識が取られる。
「なあ、ルジ。チリリンが阿鼻叫喚を連れておでましだぞ、いいのかあれで」
「なんだその洒落た表現。そしてよくはないけど、仕方ないね」
背嚢に命の石がある限り、すぐに見つけられてしまうのだから。それに今の感じだと、どうやらトーリの耳よりも、チリリンの命の石察知能力の方が遠くまで及ぶようだ。
「んー?なんか聞こえる気がする」
「ビモーフーが走ってくるときみたいな音がするね」
レイとムーテが遅れて気がつく。そこからは一瞬だ。
「チリチリチリチリ――」
「あ、チリリンだー!」
「レイ、待て!……ったく」
手を振るように鋏角を動かしながら近づいてくるチリリン。遠くに見えるチリリンに向かって手を振り返しながら走っていくレイ。そして、レイを追いかけるトーリ。
ムーテは目を凝らし、じっとその影を見つめる。
「んー、大きいサソちゃんに見えるなあ」
サソちゃんに見えてしまったか……。まあ、サソちゃんなんだけども。ここはあえて。
「いや、ロブスターかも」
「ハサミが美味しいよね」
なんとなくボケてみたら、すごい返しをされてしまった。確かにロブスターのハサミは美味しいけど。エビじゃん。それはさておき。
「さ、ムーテ姫。今のうちに逃げようか」
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