第88話 神様は賽を振らない
5階のレストランに着くと、すぐに異常に気付いた。
ガラス戸が破られている……
入り口のすぐ目の前に『準備中』という立て看板が倒れて、ガラスの破片が散らばっていた。
人間一人を背負った状態でどうしたらこんなふうに破壊できるんだ?
でもこれで間違いないだろう。
黛と瑞穂はここにいる。
俺は散らばるガラス片を避けつつ中に入った。
このレストランは意外と広い。病院に併設しているにも関わらずテラス席もある。パラソル付きのテーブルで、天気の良い日は何気に人気だったりする。俺も入院中に何度かこのレストランに来たことがあった。
俺の中で渦巻いている悪い予感というものを頼りにテラスの方に向かって行った。
*
「ほら、夕焼けが綺麗だろう?ここを利用するときはなるべくテラス席にするよう店員さんに頼むんだ。まぁ、病院なんて何度もくるような場所じゃないし、冬場は寒くていられないけどね」
背中に何も語らない少女を背負いながら、その男は続ける。
テラスの手すりのような柵の手前には横長の大きな植木鉢がいくつか並んでいて、男は植木鉢を避けて柵までやってきた。
足を痛めているのか少し引きずりながら進み、その歩調は遅い。
柵の先は少し足場があるだけであとは何もない。断崖絶壁だ。
一見、仲の良さそうな兄妹かカップルが夕焼けを眺めている微笑ましい場面に見えなくもないが、この男にはそんな気はさらさらなかった。
「僕のパパは、大手運輸会社の取締役をしていてね、若い時はそれはもう一年中あちこちを飛び回っていた。もちろん僕も一緒について行ったよ」
遠くを見るようにその男は続ける。
「そう、仕事だから仕方ないよね。僕らは一年と同じ場所にいなかった。転校したら、またすぐ転校。おかげで初対面でも誰とでも仲良くなれるし、たくさん友達ができたよ…………僕はいろいろ我慢した……友達とゲームすることも買い物に行くことも。勉強だって頑張った。でもね、パパは褒めてくれないんだ……それでも僕は自分自身に納得がいく職を手に入れたんだからいいんだ。そう……手にしていたんだよ……」
男は俯き、その表情には影が落ちていた。
「パパが助けてくれると思ってた……僕が大学生だった時に訴えられそうだった時だってパパが議員先生に掛け合ってくれてなんとかしてくれたんだよ!本当にすごい人なんだパパは……なのに……どうして!今回は助けてくれなかったんだ!!」
「それは、お前がクズすぎるから見限られたんだろ……」
*
思わず出てきてしまった。
何も考えず、ただ感情に任せて本音を吐いてしまった。
後悔してももう遅い。しかし、黛は逆上するどころか、笑い出した。
「佐伯ィ……やってくれたなぁ本当に。お前のこと甘く見てたよ。完全になめていた」
「……そりゃどうも。先生、そろそろ中に入りませんか?だいぶ冷えてきた」
「それは無理だよ佐伯。僕は、僕たちはここで終わりにするんだ」
そう言って黛は手すりの先、断崖の底に目をやった。
瑞穂と心中するつもりなのか?!
この男はどこまでクズなんだ!!
落ち着け……
俺はなるべく平静を保つように言葉をつなぐ。
「やめましょう先生。じきに警察も来る。まだ引き返せる段階です」
「まだ僕のことを先生と呼んでくれるんだ……でも僕はもう決めたんだ。もうこんな世界になんて未練はないからね」
天を仰ぐように話を続ける黛。
完全に悦に入っている……
「本当はできるだけ多くの人間を道連れにこの世とお別れしようと思ったんだけど、僕は殺人鬼じゃない。せめて、この壊れた人間だけでいいから一緒に連れて行ってあげようと思ってるんだ」
俺の中で抑えていた気持ちがプチッとちぎれたのが聞こえた。
「いい加減にしろこのサイコ野郎が!瑞穂は壊れてなんかいない!壊れているのはお前だ!」
「酷い言い草。でもこれを見ろよ。どう考えても再起は不可能だろう?」
「お前ッ……」
「近づくな!近づくなよ……ハハッ、道連れにするのは使い物にならない人間だけさ。逆に感謝してほしいくらいだね」
ダメだ。コイツに今何を言っても聞き入れやしない
でも……何か、何かできることはないのか?!
いろいろな事を失敗してきた。取りこぼしてきた。
でも今回は、絶対に諦めない……諦めるなんて選択肢、俺には、ない!
黛はテラスの柵に寄りかかり、下を覗く。
当然そこから落ちたら無事では済まない。
「先生……瑞穂は関係ないだろ……道連れにするなら俺にしろよ!」
「佐伯……お前のその顔が見たかったんだ……」
「やめろ!!!」
黛は瑞穂を背負ったまま、片足だけ柵を跨いだ。
「はははッ!いい顔だ佐伯、そう急かすなよ。僕たちはもうすぐ、あちらの世界に旅立つ。でも今は!この時間を楽しもうじゃないか!」
と、そこへ
「瑞穂ン?!!」
永瀬さんたちだ。
警察官の今井さんもいる。
「黛!!彼女を放しなさい!!」
「フッ……大勢でまぁ。僕はもう誰にも縛られない。この時間……この瞬間だけは、誰にも渡さない!今!たとえ神様が僕たちを欲しがったとしてもね……」
偶然か、雲の切れ間から、もうすぐ暮れようとしている太陽の光が一筋、後光のように黛を照らした。
「時間だ……」
黛は、背負っている瑞穂の腕を取った。
瑞穂から落とそうというのか……!
「やめなさい!!」
「嫌ァ!!瑞穂!!」
悲痛な叫び声がテラスに響く――
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