第85話 救いの手
黛先生と私の関係が父にバレるのは時間の問題だとは思っていた。
でもこんなに早く父の耳に知れ渡るなんて……
警察署から帰り、父は荒れ狂った。
「俺の真央になんてことをしてくれたんだあの教師は!」
父にとって、自分がしていることと、先生がしていることは同列じゃないらしい。
その日を境に一度なりを潜めていた暴力の嵐は、以前より増して酷くなった。
「なんてはしたない娘なんだ!俺はそんな娘に育てた覚えはないぞ!」
「やめて!もうやめてあげてください!」
母の抵抗なんて紙細工同然。
私にはパフォーマンスにさえ見える。
「お前がしっかりしないからだろう!真央がこんなふうになったのはお前のせいだ!」
私は歯が一本折れて、顔に痣ができる程度だったけど、母は腕を骨折するという重傷を負った。
父は暴力を振るった後に必ず言う言葉がある。
「ああ、ごめんよごめんよ……でも……こうさせているのは、全部あの教師のせいだ。あいつが俺に暴力を振るわせているんだ。分かるだろ?」
謝罪と責任の所在の説明。
自分は悪くない。本当は乱暴なことはしたくない。でもお前が悪いから、誰かが悪いから俺をそうさせている……
暴力を働き、謝罪、優しさを見せる。でもしばらくするとまたストレスが溜まってくるのか暴力が爆発する。
その繰り返し。
ただただ、嵐が去るのを堪えるだけの日々に戻ってしまった。
それでも学校には行かなくちゃ。
学校を理由もなく休むことは許されない。
その日の昼休み、いつものように他の生徒と接触を避けるべく、校舎裏のベンチにやって来た。
でも、よりにもよって一番会いたくも無い人物にこんな所で遭遇してしまった。
佐伯先輩……
お節介のお人好し。私には偽善者にも見える。
どうせ何もできないくせに……
しつこいので去り際に突き放す言葉を投げかけたら、先輩は泣きそうな顔をして黙ってしまった。
ただの私の憂さ晴らしですぎないのに。
今日は父が夜勤で日中は家にいるから部活には行かずにすぐに帰宅する。
家に帰ると、父はすでに出勤しているのかいなかった。
その代わりに、玄関に知らない靴が何足か置いてあった。
「お帰りなさい。ちょうど良かった……真央も一緒に話を聞いてくれる?」
少し赤くなった母の目。良い予感はしない。
リビングに行くと、綺麗目なスーツを着た中年女性と、若い男性が座っていた。
「おかえりなさい、真央さん、でいいのよね?」
女性からそう言われて、軽く会釈をする。
知らない人を勝手に家に入れたらどうなるか、母だって分かっているはずなのに……
「真央、お父さんはトラブルがあったみたいで早めに出勤したのよ。今日は帰って来ないし、安心して」
私は不安そうな顔をしていたからなのか、母が察してくれた。
「真央さん、帰って来て早々悪いわね。私たちは市役所の者です。突然押しかけちゃってごめんなさい」
「はぁ……?」
「いいんです。私がお呼びしたんですから……」
と、母。
その市役所の人は、ベテランそうな女性が川田さん、男性は斉藤さんと名乗った。
彼女たちは、市役所の女性相談などを受け付ける部署の人で、私たちのことが心配だから、母に呼ばれて訪問したのだという。話を聞くと、母はたまに市役所とかに相談をしていたらしい。
「あなたたちのその怪我を見て確信しました。あなたたちは家庭内暴力を受けているんですね?」
私は何も答えられなかった。赤の他人が、突然家の中に入って来てズケズケと。
佐伯先輩を思い出して、少しイラついてしまった。
市役所の人が言うには、暴力を振るわれる責任は私たちにはないということ、全て暴力を振るう本人が悪いということ。
そして、本当に苦しいと思うならば、母と2人きりで新しい生活を始められる選択肢もあるということ……
市役所の人たちは、決して押し売るような言い方はせず、主導権は常に私たちにあるということを言ってくれた。
思いもよらなかった。
父がいない人生だなんて、想像もしたことがなかった。
話を聞き進めるうちに、これが詐欺だったとしても、助けを求めたいという気持ちが生まれてきてしまった。
「考えさせてください……」
「もちろん、簡単に決断できることじゃないと思います。ゆっくり考えてと言いたいところですが、お2人のその怪我の状態、我々は緊急性が高いと判断しています」
結局結論は出ず……
母の気持ちも分かる。もしこの生活から逃げ出し、万が一父に見つかってしまったら?その恐怖は拭いきれない。
「いつでもいいです。ここには緊急時に対応してくれる支援団体の電話番号が書かれています。念のためこの名刺は隠しておいてくださいね」
…………
あれから、市役所の人たちが去った後、母はもらった名刺をじっと見つめ続けている。きっとこれまでもずっと悩んできたのだろう。
私はそんな母に何も声を掛けられなかった。
そして、
「ずっと考えていたんだ……どうすればあなたを助けられるのかを」
調子の良いことを言う。
守ってくれなかったくせに。
「もう、いいよ……」
どうでもいい。
そして、母は大きく息を吐いた。
「ごめん、真央ちゃん……私、いろいろ考えたけど、やっぱりあの人との生活、これ以上耐えられそうにないよ」
私は驚いた。
初めて聞いたかもしれない。母の意志のある言葉。
「川田さんたちのお世話になってもいいかな……?」
「私はお母さんに従うよ」
「転校もしなきゃならないし、お友達にも叔父さんにも連絡は取れなくなるのよ?知らない土地で、一から生活を立て直さなきゃならないの。それでもいい?」
もとより連絡を取っている友達などいない。
今のこの生活にもさほど未練はない
一つだけ心残りがあるとすれば……
先生……
先生とは本当にこれでお別れになる
それは……嫌、だな……
先生が学校を去り、もう二度と会えないことを覚悟していたのに。
でも
そうか、私は何も期待なんかしちゃいけないんだった。
夢も希望も。
なら、もう答えは一つしかない。
もう二度と、奪われたくないから。
本当に何も持たないでいた方がいい
私は、母親に無言で頷く
気付けばポロポロと涙が溢れていた
涙なんかもう出ないと思っていたのに……
「ごめんなさい……真央ちゃん……ごめんなさい」
そう言って、母は私を抱きしめ、先ほどもらった番号に電話をかけ始めたのだった。
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