第7話 エプロンのボタン
住み始めて一週間が経つ頃には、だいぶ生活に馴染んできた。それと同じように、なんとなくそれぞれの生活リズムも見えてくる。
会社員をやっているマヤさんは、毎朝早くに家を出て、夜遅くに帰ってくる。お酒が好きらしく、けっこうな頻度で酔っている。共用スペースでの酒盛りはしないらしい。未成年の前では自制しているのだろうか。
古河水希とは夕食を一緒に食べる。そこそこ仲良く、ただ他の時間はまったく別行動。バイトでケーキ屋に通っているらしく、余り物がリビングに置かれていたりする。春休みということもあり、家にいる時間が長いが、なにをしているかはわからない。
七瀬柚子は中学校に通っているようで、基本的に夕方までその姿を見ることはない。リビングにいる時間は短いらしく、廊下でもほぼ見かけない。深夜にリビングにいたら、入ってきてお菓子を持って出ていった。少し恥ずかしそうだったので、声はかけなかった。
◇
俺の部屋をノックするのは、今のところ古河水希だけである。その日も、廊下に立っていたのは明るい髪色の女子だった。
「どうした古河」
「戸村くん! 今日の買い出し、一緒に行ってくれない?」
「忙しいなら俺が行っとくけど」
「違うの。今日はお一人様一パック限定の卵が安いの」
「了解した。いつ出る? 俺は今でもいいけど」
「じゃあ、今から」
「ん。財布取ってくる」
お互いに下心がゼロのため、彼女との会話はストレスがない。距離がこれ以上近づくことも、遠ざかることもない。年齢が近いから、話題もなんだかんだ噛み合うし。
部屋から荷物を取り出して、家を出る。
女子と一緒に家を出て、スーパーで買い物か。しかもこんなに気楽に。
人生なにがあるかわからんな。おもしろ。
「今日はなにを作るんだ?」
「からあげかなぁ。お肉も安いし」
「おおっ。それはテンション上がる」
「でしょでしょ?」
ぴんと立てた人差し指を振りながら、楽しそうにする古河。
いや君ね、それは可愛いんよ。
そういう無邪気なところ、非モテ理系男子にはぶっささるぞ。俺じゃなきゃ落ちてたね。
「からあげだと、ゆずちゃんも食べるかなぁ」
「七瀬さん?」
「そうそう。けっこうしつこく誘ってるけど、『遠慮します』って言われてるんだよね。あ、戸村くんが来る前からだから、心配しなくていいよ」
「補足助かる。罪悪感でミジンコに転生するところだった」
「だけどたまーに、『じゃあ……今日だけ』って来てくれるんだよ」
「なるほどなぁ」
好きな料理ってことなのだろうか。
「古河としては、もっと一緒に食べたいみたいな感じか」
「そうだね。理想はみんな一緒に。まあ、それは無理なんだけどね」
軽やかに笑い飛ばす姿に、寂しさは感じられない。深刻には考えていないらしい。
叶えばいいな、と心の中で祈っておく。祈るだけなら体力は減らない。
◇
夕食の準備が始まるくらいに、リビングへ降りる。
俺がいてもやることはないのだが、どうせ待つなら一階のほうがいい。「ごはんできたよー」と二階まで呼びに来させることの申し訳なさは異常。
テレビのニュースを聞き流しながら、手の中のスマホをいじる。イマドキ大学生の常識に反し、SNSは一つもやっていない。見ているのは、くだらない掲示板やまとめサイトばかりだ。
ぱちぱちと油の跳ねる幸福の音。
やはり肉。肉はすべてを解決する……!
そろそろ完成かという頃合いに、玄関が開く音。ちらっと古河へ視線を向けると、頷きが返ってきた。立ち上がってキッチンに向かう。
「俺が見とくから」
「お願い。取り出すのはまだいいから」
「ういっす」
菜箸を受け取ると、古河は早歩きで廊下に出て――
「あたっ」
なにやら痛そうな声がした。転んだような音ではないけど、無事だろうか。
フライパンの加熱を止め、リビングを出る。
廊下には恥ずかしそうに頭を掻く古河。それを階段の上から呆れたように見つめる七瀬さん。
「ごめんごめん。ちょっと引っかかっただけだから、大丈夫」
気にしないでいいよと言う古河。軽くつまずいただけらしい。痛みはなさそうだ。
そんな彼女の足下に、黒光りするものが落ちていた。
「ならよかった。で、これは…………ボタンか」
「あっ、エプロンの!」
手すりに引っかかった拍子に、引っ張って千切れたのだろう。
「うわぁ。取れちゃったかー。まあしょうがないね。結構使ってたし、寿命だよ」
「見せてください」
すっと声を挟んだのは、いつの間にか降りてきた七瀬さん。古河の後ろに回り込んで、布地の状態を確認する。
「ボタンだけ取れた感じですね。……貸してください」
ツインテールの幼げな少女は、真剣な表情でエプロンを受け取る。突っ立っている俺は、たぶんキッチンへ戻るタイミングを失った。
「直せると思いますけど」
「え、できるの?」
「はい。……裁縫くらいなら」
小さな声で、俯きがちに七瀬さんは言う。
「じゃあ、お願いしてもいい?」
「いいですよ」
「お礼に今日、ご飯食べてよ。からあげなんだ」
「…………いえ、遠慮します」
七瀬さんはちらっと俺のほうを――警戒する猫のように見て、目が合うとぴくっと肩を動かして逸らした。
「俺、部屋で食べようか」
「え、戸村くんが? なんで?」
「気まずいかと思ってさ。別に、どこで食べても美味いものは美味いし」
「ちょっ――そういうわけじゃ」
慌てる七瀬さんに、首を傾げる古河。
そういえば古河、俺と七瀬さんのファーストコンタクトを見てないんだっけ。
「大丈夫! 大丈夫ですから!」
わたわたする少女に、場の空気は混沌を極める。
沈黙が続き、誰かが破らねばならない状況。さすがに俺がやるしかないか、と腹をくくって、控えめに一言。
「……じゃあ、三人で?」
こくんと七瀬さんが頷いて、そういう運びになった。
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