第7話 エプロンのボタン

 住み始めて一週間が経つ頃には、だいぶ生活に馴染んできた。それと同じように、なんとなくそれぞれの生活リズムも見えてくる。


 会社員をやっているマヤさんは、毎朝早くに家を出て、夜遅くに帰ってくる。お酒が好きらしく、けっこうな頻度で酔っている。共用スペースでの酒盛りはしないらしい。未成年の前では自制しているのだろうか。


 古河水希とは夕食を一緒に食べる。そこそこ仲良く、ただ他の時間はまったく別行動。バイトでケーキ屋に通っているらしく、余り物がリビングに置かれていたりする。春休みということもあり、家にいる時間が長いが、なにをしているかはわからない。


 七瀬柚子は中学校に通っているようで、基本的に夕方までその姿を見ることはない。リビングにいる時間は短いらしく、廊下でもほぼ見かけない。深夜にリビングにいたら、入ってきてお菓子を持って出ていった。少し恥ずかしそうだったので、声はかけなかった。







 俺の部屋をノックするのは、今のところ古河水希だけである。その日も、廊下に立っていたのは明るい髪色の女子だった。


「どうした古河」

「戸村くん! 今日の買い出し、一緒に行ってくれない?」


「忙しいなら俺が行っとくけど」

「違うの。今日はお一人様一パック限定の卵が安いの」


「了解した。いつ出る? 俺は今でもいいけど」

「じゃあ、今から」


「ん。財布取ってくる」


 お互いに下心がゼロのため、彼女との会話はストレスがない。距離がこれ以上近づくことも、遠ざかることもない。年齢が近いから、話題もなんだかんだ噛み合うし。


 部屋から荷物を取り出して、家を出る。


 女子と一緒に家を出て、スーパーで買い物か。しかもこんなに気楽に。

 人生なにがあるかわからんな。おもしろ。


「今日はなにを作るんだ?」

「からあげかなぁ。お肉も安いし」


「おおっ。それはテンション上がる」

「でしょでしょ?」


 ぴんと立てた人差し指を振りながら、楽しそうにする古河。

 いや君ね、それは可愛いんよ。


 そういう無邪気なところ、非モテ理系男子にはぶっささるぞ。俺じゃなきゃ落ちてたね。


「からあげだと、ゆずちゃんも食べるかなぁ」

「七瀬さん?」


「そうそう。けっこうしつこく誘ってるけど、『遠慮します』って言われてるんだよね。あ、戸村くんが来る前からだから、心配しなくていいよ」

「補足助かる。罪悪感でミジンコに転生するところだった」


「だけどたまーに、『じゃあ……今日だけ』って来てくれるんだよ」

「なるほどなぁ」


 好きな料理ってことなのだろうか。


「古河としては、もっと一緒に食べたいみたいな感じか」

「そうだね。理想はみんな一緒に。まあ、それは無理なんだけどね」


 軽やかに笑い飛ばす姿に、寂しさは感じられない。深刻には考えていないらしい。

 叶えばいいな、と心の中で祈っておく。祈るだけなら体力は減らない。







 夕食の準備が始まるくらいに、リビングへ降りる。

 俺がいてもやることはないのだが、どうせ待つなら一階のほうがいい。「ごはんできたよー」と二階まで呼びに来させることの申し訳なさは異常。


 テレビのニュースを聞き流しながら、手の中のスマホをいじる。イマドキ大学生の常識に反し、SNSは一つもやっていない。見ているのは、くだらない掲示板やまとめサイトばかりだ。


 ぱちぱちと油の跳ねる幸福の音。

 やはり肉。肉はすべてを解決する……!


 そろそろ完成かという頃合いに、玄関が開く音。ちらっと古河へ視線を向けると、頷きが返ってきた。立ち上がってキッチンに向かう。


「俺が見とくから」

「お願い。取り出すのはまだいいから」


「ういっす」


 菜箸を受け取ると、古河は早歩きで廊下に出て――


「あたっ」


 なにやら痛そうな声がした。転んだような音ではないけど、無事だろうか。


 フライパンの加熱を止め、リビングを出る。

 廊下には恥ずかしそうに頭を掻く古河。それを階段の上から呆れたように見つめる七瀬さん。


「ごめんごめん。ちょっと引っかかっただけだから、大丈夫」


 気にしないでいいよと言う古河。軽くつまずいただけらしい。痛みはなさそうだ。

 そんな彼女の足下に、黒光りするものが落ちていた。


「ならよかった。で、これは…………ボタンか」

「あっ、エプロンの!」


 手すりに引っかかった拍子に、引っ張って千切れたのだろう。


「うわぁ。取れちゃったかー。まあしょうがないね。結構使ってたし、寿命だよ」

「見せてください」


 すっと声を挟んだのは、いつの間にか降りてきた七瀬さん。古河の後ろに回り込んで、布地の状態を確認する。


「ボタンだけ取れた感じですね。……貸してください」


 ツインテールの幼げな少女は、真剣な表情でエプロンを受け取る。突っ立っている俺は、たぶんキッチンへ戻るタイミングを失った。


「直せると思いますけど」

「え、できるの?」


「はい。……裁縫くらいなら」


 小さな声で、俯きがちに七瀬さんは言う。


「じゃあ、お願いしてもいい?」

「いいですよ」


「お礼に今日、ご飯食べてよ。からあげなんだ」

「…………いえ、遠慮します」


 七瀬さんはちらっと俺のほうを――警戒する猫のように見て、目が合うとぴくっと肩を動かして逸らした。


「俺、部屋で食べようか」

「え、戸村くんが? なんで?」


「気まずいかと思ってさ。別に、どこで食べても美味いものは美味いし」

「ちょっ――そういうわけじゃ」


 慌てる七瀬さんに、首を傾げる古河。

 そういえば古河、俺と七瀬さんのファーストコンタクトを見てないんだっけ。


「大丈夫! 大丈夫ですから!」


 わたわたする少女に、場の空気は混沌を極める。


 沈黙が続き、誰かが破らねばならない状況。さすがに俺がやるしかないか、と腹をくくって、控えめに一言。


「……じゃあ、三人で?」


 こくんと七瀬さんが頷いて、そういう運びになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る