風よ、私を消してくれ

リー・ヒロ

ルーディと怖い夢

名前を呼ぶ声がする。

いやその声は、「呼ぶ」というより「叫ぶ」と言う方がふさわしかった。黒ずんだシャツを着た男が、掴んだ肩を荒々しく揺らしながら、私の名前を叫んでいる。耳鳴りがしそうなほどの大声を出しながら、ひたすらに私を揺さぶっているのだ。

その男は、必死に何かを伝えようとしているようだった。顔には焦りが浮かんでおり、目を見開いて、私に何かを言い聞かそうとしている。

「……父さん?」

首にかけられている逆さ十字型のチャームを見て、目の前で名前を叫ぶ男が、私の父親であることを思い出した。

そしてこれから数秒の内に、決して思い返してはならない悲痛な瞬間が待ち受けていることを、私は何故か確信した。

父が何を伝えようとしているのかは検討もつかない。だがとにかく彼は、表情を歪ませながら、さらに強い声で私の名前を叫び続ける。

何をそんなに叫んでいるの?

そう口を開こうとした瞬間、突然響いた銃声に、私の思考は遮られた。

乾いた音とともに火薬の匂いが広がる。どこから誰が撃ったのかはわからない。だが銃弾が何を撃ち抜いたのかは明白であり、一瞬のうちに父の表情は静止し、石像と化したかのように動かなくなった。

父の腕から力が失われていくのを感じる。何かをつぶやくように唇を動かしたかと思うと、父は真っ黒い血を吹き出しながら、胸元を抑えてうずくまった。私は依然として、何の言葉も放つことができない。ただ、苦悶の表情に変貌する父の姿を見ているだけだ。

木の床を黒く染めながら、父は崩れ落ちる。

私は後ずさっていた。ここから逃げたい。逃げないと。そんな気持ちに駆られていた。

父が震えた手を伸ばす。何かを言おうとしているようでもあった。だが、わずかな言葉にすることもできないまま、ただただインクのような血を吐き出すだけだった。

どうして?何があったの?誰が、こんなことを……

助けなくてはと焦る心情とは裏腹に、私の足は父から離れていく。どれだけ近づこうとしても、体はいばらにでも縛られたかのようで、手を伸ばすことすらできなかった。

不意に、父の体の震えが、ぴったりと止まった。

私は、彼の身に何が起きたかを悟った。ようやく金縛りが解け、父の元に駆け寄る。床に倒れ込んだ体を起こそうと、彼の体に触れた。

すると、まるで砂山にスコップを突き刺したかのように、父の体は、灰となって一斉に崩れ始めた。粗い感触が、私の右手を飲み込む。体は炭色に変色し、バサバサと音を立てながら崩壊していく。

目の前には、黒い灰の山だけが残った。

私は震えた。わずかな温度も感じられない灰の塊を前にして、言葉にならない叫びが喉からこみ上げてくる。視界がチカチカと点滅し、体のあちこちが、パニックを起こしたように痙攣した。

いやだ、いやだ、いやだ。

発狂するような叫び声が響く。私の意識は、どこかに吸い込まれていった。

「うああああああ!」

 少年ルーディはベッドから飛び起き、またしても悪夢に落ちていたことにようやく気が付いた。

 呼吸は荒く、汗でシーツはぐっしょり濡れている。涙さえしていたのか部屋の中が歪んで見えた。鏡に写る自分を見てみると、ブロンドの長髪はボサボサでフライドチキンのようになり、色白な肌は一層青白くなってしまっていた。

 ルーディは袖で涙を拭き、今のは夢だ、ただの夢なんだと、何度も自分に言い聞かせる。

 ベッドの横に視線を移すと、逆さ十字の形をし、青いネモフィラの装飾がついたチャームが目に入った。その横には、正装姿の父と彼が写った古い写真も置かれていた。何となくチャームを手に取り、ベッドの上で重たい体を倒す。

「また、あの夢か」

「また、あの夢らしいな」

不意にドアの方から別の誰かの声がすると、ルーディはまたしても飛び起きた。

ドアの縁のところに立っていたのは、紺色のレザージャケットを着た青年だった。手には2つのティーカップを持っており、しばらくルーディの様子を伺っていたようである。

「見てたんだな、ドグ」

ルーディに名を呼ばれたドグは、やれやれとつぶやきながらベッドに近づき、側にカップを置いた。

「俺の朝は早いからな。坊ちゃん」

そう言いながらもドグは眠たそうにまぶたをこすった。窓の外はまだ薄暗い。朝にはなったばかりなようだ。

ドグはどこか落ち着かない様子のルーディを見ると、笑みを作りながらルーディの寝癖だらけの髪をかき乱した。

「ちょっ、おい、やめろ!」

「じゃあお前も、朝っぱらからそんな面見せんのはやめるんだな」

 からかうようにドグに言われると、ルーディは頷いて返す。カップを手に取り、注がれていたバナナのお茶を飲んだ。

 渋い香りの中に溶け込んでくるような甘さに、ようやく意識がはっきりとしてくる。

「すまない。またやってしまった」

ルーディは部屋を見回しながらつぶやいた。

部屋の中は荒れ放題になっていた。木製の棚はおかしな形にへこみ、スーツケースは破れて、グラスにはヒビが入っている。夜食として作っておいたパイは破裂してしており、ついには電灯までプツンと消えてしまった。

このメチャクチャは、ルーディが眠る前に引き起こしたわけではない。眠っている間の彼、というより彼のとある『力』が、部屋をここまでの惨状に荒らしてしまったのである。

「気にすんなよ、慣れっこだ」

ドグはそう言うと、皿の上で破裂したパイの残骸をフォークも持たずにかじる。小さいテーブルにはブルーベリーのクリームが広がっていたが、後で犬でも連れてくるぜ、とつぶやいて笑った。

「自分で片づける」

「いやいやいや、お前はもうちょい寝てろ。俺はどの道仕事があるから起きてんだ。まだ朝の4時だぜ?」

ドグはねじ曲がった針の時計を指す。悪夢にどっぷり浸かっていたためか夜が随分とゆっくり進んでいたように感じられ、ルーディは少し怖くなった。

「だがもし、またあの悪夢を見てしまったら……」

依然として不安気なルーディを見て、ドグはもう一度髪をかき乱してやった。

「だからって寝もしなかったら、頭がもっとまいっちまうだろうが。安心しろよ、このキャビンには俺しかいねえからよ」

ドグは無理やりルーディをベッドに寝かせて、最後のパイの一切れを口に入れた。ルーディが怖がっていることもわかっていたが、いつもと変わらない調子で彼を落ち着かせる。

「お前だって知ってるだろ?お前の力じゃ、クリームをごちゃごちゃにするくらいのことしかできねえ」

テーブルについたクリームをナプキンで拭きながら、ドグは声をかける。ルーディはまだ不安そうにしながらも頷き、枕に頭を押し付けた。

「でも、さっきはパイを爆発させてしまった」

「き、気のせいだろ」

ドグは首を左右に振りながら、ブルーベリー色に染まったテーブルをとっとと片付けた。これ以上思い悩んでも仕方ないと開き直ることにしたルーディは、ドグに声をかけてから体をベッドに預けた。

「ありがとう。じゃあ、おやすみ」

「ああ、とっととおやすんでろ」

 ドグがキャビンから出たのを見送ると、ルーディはブランケットを頭まで被り、再びまぶたを閉ざした。

 彼には奇妙な力があった。だがその力がどこから湧いてくるものなのかは、彼にもドグにもわからない。ルーディは、記憶のほとんどを失ってしまっているのだ。

綺麗に切り抜かれてしまったかのように、自分の生まれや育ち、今まで過ごしてきたであろう10年余りの年月、好きなアイスクリームの味すらも、彼は全く覚えていない。

だが数奇なことに、自分の父親の顔、そして、その父親が何者かに射殺された瞬間という記憶の断片だけは、彼の頭の中に残っている。毎晩のように見る悪夢は、残された記憶のフラッシュバックなのである。

彼はどこから来た何者なのか。何故奇妙な力を持っているのか。何故毎晩のように、父親が殺される夢しか見ることがないのか。全てはまだ、彼にとっては謎なままだ。

数分としないうちにルーディは、眠りの世界へと戻っていく。カップにわずかに残っているお茶の水面には、どこからともなく波紋が浮かんでいた。

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