第2節 穏やかな暮らし

 温かい太陽の光が木漏れ日を生み、静かに森がざわめいた。

 小鳥がさえずり、川がせせらぎ、風が静かに駆け抜ける中。

 枝葉を踏む誰かの足音が近づいてきた。


 私はまどろみから抜け出すと、ベッドから起き上がりリビングへ向かう。

 するとほぼ同時に入口のドアが開き、誰かが入ってきた。


「ただいま、ヤミ。食料を持ってきたよ。良い肉と野菜が手に入ったんだ」


 姿を見せたのは勇者ルクスだった。


 ◯


 魔王城で対峙したあの日、ルクスは私を殺すことができなかった。

 眼の前で死を懇願する私を見て、彼は剣を振るうことを諦めたのだ。


『今のお前を殺すことはできない』

『どうして……?』

『僕にはどうしても、お前が戦乱の元凶だと思えない』

『私が同情を引いてあなたを殺そうとしていたらどうするの』

『僕は生まれつき相手の悪意が見えるんだ。騙し討ちをしようとする魔族と対峙したことも少なくないが、いずれも殺意を隠し切ることはできていなかった』

『私は魔王だよ。普通の魔族と違う。殺意を消してあなたを殺せるかもしれない』

『もしこれが罠だったとしたら、自分の甘さを呪って死ぬだけだ』


 ルクスは魔王城に旗を立て、魔王を討ち取ったことを高らかに宣言した。

 そして魔王が完全に姿を消したことで彼の報告は真実とされた。


 元より勇者と魔王の戦いである。

 苛烈な戦いの中で魔王の遺体が失われたと告げれば、その報告を疑う者はいなかった。


 私はルクスの手引きの元魔族国を離れ、人里離れた場所で彼と暮らし始めた。


 ◯


 国境沿いにある山小屋で私たちは暮らしていた。

 元々は人間が戦時中の拠点として用いていた場所らしい。


 山小屋と言ってもそれなりに広さはあり、私とルクスの部屋もあるしリビングも存在する。

 暮らすには十分な建物だった。

 山を降りて三十分も歩けば人間の住む小さな村があるが、ここに誰かが訪ねてくることは基本的にない。


 ルクスは毎日のように出かけては、こうして食材を調達してくれていた。

 彼は嫌な顔一つ見せないで私の面倒を見てくれる。

 その理由が私には分からない。


「何を作っているの」

「スープだよ。あまり贅沢はできないからね」

「いい匂いだね」


 幼い子どものようにワクワクした顔で鍋を覗き込んでいると、ルクスがどこか優しい表情を浮かべていた。


「どうしたの?」

「君が魔王だなんて、ちょっと信じられなくてね」

「外見とか人間と違うと思うけど」

「確かに見た目は魔族だし、魔王と言うには若すぎるけれど、そういう意味じゃないよ」


 いまいち何を言わんとしているのかが分からず、私は首を傾げた。

 ただ、穏やかな顔でルクスに見つめられるのは嫌な気がしない。

 むしろ妙に心が落ち着いた。

 自分が魔王であることを、時折忘れそうになる。


「できたよ。食事にしよう」


 テーブルに置かれる温かなスープを口にする。

 お肉や野菜を味付けして煮込んだスープには旨味が溶けており、心まで満たされた。


「美味しい……。やっぱりルクス、料理が上手だね」


 人間と魔族の味覚は違うと思っていたけれども、意外と好みは同じらしい。

 彼が作ってくれる料理は美味しく、そしてどこか優しい味がした。


 私の言葉にルクスは「ありがとう」と微笑む。


「実家でよく作っていたからね。でも、以前食べたヤミの料理も美味しかったよ。お城でずっと暮らしていたって言ってたから、料理できるのは意外だったな」

「私は、身の回りのことは自分でするようにしていたから……」


 思えばこうして誰かと食事をするのも、魔王だった頃にはなかった時間だ。


「ねぇ、ルクス。一つ聞いて良い?」

「何だい」

「どうして私と暮らしてくれるの? 毎日食事まで用意してくれて……」


 私が尋ねると彼は手を止めた。


「魔王を生かしてしまったのは僕だ。僕には君を見張る義務と責任がある」

「義務と責任……」


 毅然としたルクスの返答に半ば気落ちしていると、「と言うのは建前で」と彼は少年のようないたずらっぽい表情を浮かべた。

 普段大人びた彼が時折見せる砕けた顔は、何故か私の胸をキュッと締め付ける。


「本当は放っておけなかったんだ。君のこと」

「どうして?」

「殺して欲しいと言った君の顔は、あまりにも嬉しそうだった。やっと苦しみから解放される……そんな表情に思えたんだ」


 人間にとって魔王は諸悪の根源であり、存在自体が災厄でもある。

 そんな存在が普通の人間や魔族と大差ないことを知り、ルクスはためらったのかもしれない。


 ルクスの笑顔は、私の人生に無かった安寧をもたらしてくれる。

 ルクスの言葉は、私の心を解きほぐしてくれる。

 ルクスとの生活は、私の人生に訪れた不意の凪だった。


 ◯


「ヤミ、今度王都に行ってみないか」


 ある日ルクスが口にした言葉に、最初は聞き間違いかと思った。


「明日は王都で建国祭があるんだ。他の国からも多数の人が集まる。変装していけば、そんなに目立たないはずだよ」


 どうやら聞き間違いではないらしい。

 勇者の提案ではないなと思う。


「本気で言ってるの? 私は魔王だよ。人の、それも王国の中心とも言える場所に行けるはずない」

「魔王城から出た時と同じだよ。魔法で外見を人に寄せれば良い。僕ですら君に会うまで君の名前や顔を知らなかった。魔法で変えてしまえば、誰も君が魔王だと気づきはしない」

「でも、普段村にも降りないのに……」

「こう言うのは、人の目が行き届いてる小さな村より、王都の方が安全なんだ。特に建国祭は人が多いからね。人混みに紛れ込める」

「私が言いたいのはそうじゃなくて――」


 私はルクスを見つめる。

 自分で指摘するのははばかられるが、ルクスに救われている立場上、言わないわけにはいかない。


「不安じゃないの? 私が人間を殺したりしないか」

「君が人間を喜んで殺せるのなら、そんなことわざわざ尋ねたりしないだろ?」

「それはそうだけど……」

「君は食事前に感謝の祈りを捧げ、朝晩の挨拶やお礼も欠かさない。一緒に暮らしていて、魔族特有の悪意も感じ無かった。大量殺戮をするとは思えないから提案したんだ」


「それに」と彼は言葉を続ける。


「君がもし明確に殺意を持って人を殺そうとするなら、その時は必ず僕が止める」


 ルクスは本気だ。

 故に分からなくなる。


「どうしてそこまでして私を王都に連れて行くの?」


 ルクスの提案はあまりにリスクしかないように思えた。


「戦争が終わった今、これからはきっと人間と魔族が共存する時代に入っていく。人間と魔族の関係が変わっていくと思うんだ」

「人間と魔族が共存する時代……」


 父がかつて抱いた夢。

 私が戦時中に無理だと悟った世界をルクスは見ている。


 先代魔王が抱いた夢と、全く同じ未来を。


「そんな時代、本当に来るのかな……」

「実際、魔族である君と人間の僕は一緒に暮らせているだろ?」

「私たちは状況が状況だから」

「確かにきっかけはそうだね。でも、もし僕と別々に暮らせたとしても、君は今の生活を望むんじゃないのかい?」


 その質問は、正直ズルい。

 こちらの反応を読んでいたのか、ルクスはニッと笑った。


「これからは人間と魔族の関係が変わっていく。そして君もいずれ、人と生きなければならなくなるはずだ」

「だからその前に慣れさせるっていうこと?」

「ずっとこんな山小屋で暮らしてるだけだと君も気が滅入るだろ?」

「魔王城に暮らしてた時からほとんど城で過ごしてた。別にこのままでも気にならない。それに私はルクス以外の人間と暮らす気はない」


 私の言葉を聞いたルクスは、何故か少し寂しそうな顔をした。


「僕がずっと傍にいられるとは限らないからね」


 どういう意味だろう。

 その時の私には、彼の言葉の意味が分からなかった。

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