【光】22 世界が終わる夜に
【オオトリサマ】昔々ひとりの旅人が槻本山の峠を越えようとしたときのことです。ちょうど峠を上がりきったところで空がにわかにかき曇り、雨が降りだしました。旅人は木の下で雨宿りをしましたが、いつまで待っても雨が止まないので途方に暮れておりました。しばらくすると遠くから雷の音が近づいてきました。これはいかんと旅人が思ったその時、地響きとともに目の前がぱっと明るくなり、雷が落ちる音がとどろきました。その後も稲光と雷鳴と地響きが、まったくおかしな順番で続くので、旅人は血相を変えて峠道をかけ下りました。ふもとの寺の住職に聞いたところ、それはオオトリサマがいらっしゃるからだろうということでした。オオトリサマが山にいるときは、雷の音と光がばらばらになるということです。(『岩田屋町の民話』より)
◇◆◇◆◇◆◇◆
ぬるい雨と汗が混ざり合い、自転車を漕ぐ光の身体はもはやドロドロになっていた。忍が貼ってくれた絆創膏も、ふやけて剥がれ落ちそうになっている。
ペダルをぶん回し続けた太ももはパンパンになっていた。濡れたズボンで無理矢理漕いだせいで、布で擦れた内ももがヒリヒリした。
喘ぎ喘ぎ進行方向を見ると、
店の前の道は街灯がまだ生きていた。だから、歩道に立っているその影ははっきりと見えた。
誰かが黒い傘を差して立っている。
光はそれを
そしてそれが、見知った人間だと気付いた。
「立花さん」
立花澄乃だった。
キッとブレーキを掛けて、人影の後ろで自転車を止める。
振り返った澄乃は光の姿を見て「あっ」という表情をした。
「ちょっとタンマ!」
いや、タンマって――と光は思う。
澄乃は手にぶらさげた中身が詰まったレジ袋と、ぼけっと突っ立っている光の顔を交互に見て、困ったような顔をした。
「あのあのあのあのあのね」
「慌てないで立花さん」
なだめるように言うと、澄乃はコンビニの方を見て、ぶんぶんと首を横に振った。
「万引きはしてないから! あの、ちゃんとお金は置いてきたから!」
見れば、コンビニの入口の自動ドアが叩き割られていた。
澄乃が侵入して中の商品をかっぱらってきた――いや、購入してきたということなのだろう。随分大胆なことをするんだなと思うと同時に、光の胸にある感慨が湧き起こった。
「いや、なんというか――やっぱり立花さんって撫子の幼馴染だね」
「しみじみ言わないで! どういう意味か分かるけど、そういうことじゃないから!」
傘を持った手を振って、力強く否定する澄乃。暗くてよく顔は見えないが、あからさまに狼狽しているのは分かった。
「これは、なでなでのだから」
澄乃がレジ袋を大事そうに持ち上げる。
「撫子の?」
「うん」
中身が何かは分からないが、それは撫子のためのものらしい。ということは、澄乃は撫子がどこにいて、何をしているのかを知っているということだ。
「撫子は神社にいるの?」
光が確認すると澄乃はまいったなという表情をした。
「うん、稲妻禽観神社にいるよ。浜岡君は、有沢君の家にいたはずだよね?」
澄乃には忍かシュウがLINEで連絡したのだろう。
「そうだけど、撫子のことほっとけなくて」
光は説明を省略して、端的に言った。忍とのあれこれは、別に伝えなくてもいいだろう。
「立花さんはなんで撫子が神社にいるってわかったの?」
「そりゃわかるよ」
澄乃が微笑む。その微笑みには、
「本当は私がなでなでの『
澄乃が口にした言葉が、光の脳を揺さぶった。『縁』。撫子や例の改造人間達も口にしていた単語だ。それを知っているということは、澄乃もまた、普通の人間ではないということなのだろう。
シュウ、普通じゃないのは三人じゃなくて四人だったよ――と、頭の中で報告する。
「なでなでが神様に連れて行かれないようにするのが私の役割だったんだ。でも、それはもう浜岡君に移っちゃったね。ねえ、浜岡君、なでなでとの繋がりを感じる?」
神様に連れて行かれないようにするってどういうことなんだろうと思いながら、光はおずおずと頷いた。撫子との奇妙な精神的な結びつきは、ずっと感じている。視覚を共有したり、過去の記憶を覗き見るような夢を見たり、そんなことが何度もあった。
「これはなでなでの心が無意識に決めたことなの。だから私は何も言えないけど――」
「あの、立花さん」
光の言葉を遮るように、澄乃は一歩前に出る。
「きっとこれが運命ってことなんだと思う。だから、なでなでのことお願いします」
澄乃はぺこりと頭を下げると、レジ袋を光に差し出した。澄乃の手首には、黄色いミサンガが揺れていた。受け取ると、レジ袋は想像以上にずっしりとしていた。中に入っているのはジュースとお菓子のようだった。
「なでなでは拝殿にいるから、行ってあげて。私じゃなくて、浜岡君が行ったほうがなでなでも喜ぶよ」
「そんな――」
いいからいいからと澄乃が背中を押す。
親友の澄乃ではなく、光が行ったほうが喜ぶ。撫子がそんなタイプとは思えなかった。「なんで光がここにいるの? 澄乃は?」と眉をひそめる撫子の姿が容易に想像できる。
そんな困惑が表情から伝わったからか、澄乃は苦笑した。
「大丈夫、なでなでは浜岡君が想像してるより何倍も、浜岡君のことが好きだから」
息が止まりそうになる。そんな風に他人から言われると、もっともらしく聞こえるから不思議だ。光は澄乃の言葉に何と返せばいいか分からず、曖昧な笑みを浮かべた。
「ありがとう、立花さん」
なんとかお礼だけを口にした。
光は馬頭観音の前で出会った女性のことを思い出していた。彼女の「浅倉撫子をよろしくね」という言葉。そして光を見送る忍が言った「浅倉殿を頼んだでござるよ」。
そして今、澄乃は「なでなでのことをお願いします」と言ってくれた。
様々な人間の思いが、光の背中を押してくれているようだった。
光は澄乃に頭を下げると、受け取ったレジ袋を提げたまま、再び自転車を漕ぎ始めた。その背中に澄乃が「ふぁいとー」と声を掛ける。油断すると体勢が崩れそうになるぐらい中身の詰まったレジ袋の重さが、そのまま澄乃の思いだと光は思った。光は振り返らずに稲妻禽観神社までの残り少ない道のりを急いだ。
見慣れた駐車場と、見慣れた石段。それでもなんとなくいつもと違うと感じるのは、久我家にまったく人の気配がないからだろう。全ての灯りが消えている。避難しているのかもしれない。
光はいつものように自転車を石段の前に止めた。お菓子とジュースが入ったレジ袋を片手に鳥居をくぐって石段を駆け上がる。
境内は完全に闇に包まれていた。
境内の御神木の枝が揺れる音だけが、ざあざあと川の流れのように響いている。木々が遮るためか、雨が身体を濡らすことはなくなった。境内はまさに境内――境の内側だった。まるで別の世界に迷い込んだような、そんな雰囲気を光は感じた。
光は石畳を踏み、拝殿までの暗闇を歩いた。
拝殿の中も灯りは点いていない。だが、正面の扉は開いていた。光は中を覗うが、真っ暗で何も見えない。靴を脱ぎ、そろりそろりと拝殿に入る。
拝殿の床の真ん中に、一際闇が濃い部分があった。
ゆっくり近づくと、それは人影だと分かった。人間が横たわっている。
「――撫子?」
光は呼びかけながら人影の
次の瞬間、光の指に、影が食いついた。
文字通り、食いついたのだ。光の人差し指の付け根に痛みが走った。続いてやわらかくてふわふわした温かいものに、指が包まれる。それが舌の感触だと気付いたときには、光は叫びながら指を引き抜いていた。
光は動転してその場に座り込む。すると、声が聞こえた。
「――――おなか、すいた……」
消え入りそうな声だったが、間違いなく撫子の声だった。光は立ち上がり、当てずっぽうに壁を触りまくった。そして電灯のスイッチを発見する。オンにすると暖色の頼りない灯りが拝殿の中を照らした。
薄目を開けた撫子が、黒髪を扇のように広げて床に転がっていた。
「撫子!」
光は飛びつくように撫子の横にしゃがみ込んだ。
「おなかすいた……」
撫子が繰り返す。漫画のような、ぐーという腹の音が響く。
光はレジ袋をひっくり返した。ポカリスエット、ミルクティー、堅焼きプリン、カスタードとホイップのダブルシュークリーム、まるごとバナナ、豆大福、みたらし団子、スニッカーズ、その他もろもろ……と、総カロリーにしたらどれだけになるのかわからない程の、大量の甘いものが床に転がった。
「撫子、どれがいい――ってうわ!」
這い寄ってきた撫子はシュークリームの袋を破るや
光は完全に固まっていた。
いくら空腹だからと言ってこれは――
人差し指は、まだ撫子の唾液で濡れていた。光は一秒だけ考えた後、それをズボンの尻で
「――――はあ」
とろんとした目で、撫子は溜息を吐いた。
やっと落ち着いたらしい。
「大丈夫、撫子?」
ぺたんと足を広げて床に座っている撫子の隣に、光も腰を下ろした。撫子は「らいじょーぶよ」と呂律の回らない声で言う。一瞬、酔っ払っているのかと思うが、そういうことではないらしい。
とろんとした目の撫子は、光の本能のひだをねっとりと刺激していった。
非常時だぞ――と自分に言い聞かせる。
光が煩悩と戦っている間に、撫子の目の焦点は定まっていた。
半眼になって光を一瞥する。
「――――なんで?」
ぽつりと撫子が呟く。
なんでって言われてもなと光が頭をかいてるうちに、撫子の顔はみるみる赤くなっていった。目を見開いて、身体をわなわなと震わせ始める。そして。
「この世の終わりよ!!!!」
「うわあ!!」
撫子がぶん投げたポカリスエットのペットボトルを、光は間一髪でかわした。
「ちょっと待ってなしなしなしなしなしなしなしさっきのなし! なんでよ! なんで光がここにいるのよ! 澄乃が買いに行ってくれたんじゃないの!? 最悪! 最悪の最悪だわ! 人生最後の日よ! 世界の終わりよ! あーもう!! 馬鹿!!」
めちゃくちゃなことを言っている。
さっきの痴態――と言っていいのだろうか――を光に見られたのが、よほど恥ずかしいらしい。
「もう、最悪――――」
撫子はばたんとその場に仰向けに倒れた。駄々っ子のような顔で、天井を睨みつけている。目には涙がにじんでいた。
「――UMAの力を使いすぎると、代償として甘いものが食べたくなるのよ。そんなことになるなんて私も全然知らなかったんだけど」
「そうだったんだ……」
UMAの力とは、エメラ・ントゥカを倒した時の電撃のことだろう。
「代償の種類には個人差があるって聞いてたんだけど、まさかこんなことになるなんて――これはもう浅倉撫子人生最大の不覚だわ」
「そこまで?」
と言った光を、撫子が寝転んだまま睨んだ。
「ほんと、光には見られたくないものばかり見られるのね」
「僕だって見たくて見てるわけじゃないよ」
光も撫子の隣に寝転んだ。
天井を見上げると、例の天井画が広がっている。
黒雲を裂いて飛ぶ大きな猛禽類。その周囲には無数の稲光が閃いている。
光の脳裏に撫子の兄――
この天井画に描かれている鳥が、稲妻禽観神社の祭神だと有は言っていた。そして、海外に生息するとされている、あるUMAと近しい存在だとも。
――うん、北米のサンダーバードっていうUMA。ネイティブアメリカンの間で信仰されている神様のような存在でね。またの名をワキンヤン。雷の精霊で、自由自在に雷を落とすことができるんだって。今でも目撃談が定期的に上がってくるんだよ。姿形も特性も、この神社の神様とほぼ同じだ――
サンダーバード。
あるいはワキンヤン。
「この鳥が、撫子に力を貸してくれたってこと?」
「そうね」
撫子の声は落ち着きを取り戻していた。
「私は『巫女』なの、この岩田屋の『主』と交信するための」
「『巫女』とか、『縁』とか、結局何なの?」
「神様みたいなUMAは『巫女』と繋がりを持つことで、本当の力を使えるようになる。同時に『巫女』と繋がりを持つことで、その力を人間が制御できるようにもなる。あのユニコーンみたいな力を持ったUMAが突然暴れ出したりしないようにするために、私みたいな『巫女』が必要なのよ」
「それって、誰が選んだの?」
どうしても撫子に疑問をぶつけるばかりになってしまう。
撫子は顔を横に向けてこちらを見た。光も同じようにして撫子と目を合わせる。
「さあ? 気がついたら、私だったのよ」
撫子の澄んだ黒翡翠のような瞳に、自分の姿が映っていた。
びっくりするほど近いところに撫子の顔がある。
「ごめん、撫子がそんなに大変な役割をしてるなんて、知らなかった」
「光が謝ることじゃないわ。それに、私こそ光のことを勝手に『縁』にしてるんだし、謝らなきゃいけない」
「立花さんも言ってたけど、その『縁』って何? 立花さんは……撫子が神様に連れて行かれないようにするためのものだって言ってたけど」
「ああ、そうか。そうよね。澄乃と話したからここにいるのよね――うん、そう。『縁』っていうのは、
恐ろしい話をどうということもなく撫子は語った。UMAに飲み込まれる――
「責任重大じゃないか」
「そうよ。だから、ごめんなさい」
撫子が目を伏せる。
「なんで? 僕はむしろ嬉しいよ。そんな重要な役割を僕が果たせるなら」
それは本音だった。重責を担う撫子を少しでもサポートできるなら、光はどんなことでも喜んでやりたかった。撫子から――無意識であったにしろ――選ばれたということも、光にとっては誇らしいことだった。澄乃から奪い取ってしまった役割ではあったが。
撫子は少し顔を赤らめて、潤んだ目で光を見た。
「ありがとう」
光はその五文字の言葉に脳天を撃ち抜かれたような気持ちになった。
そして、撫子に伝えなければならない言葉を思い出す。光は意を決するように、ごくりと唾を呑み込んだ。光のそんな様子を見たからか、撫子は慌てふためいて床を蹴ると、床をゴロゴロ転がって光から離れた。
「ごめんなさい――前も言ったけど、その、私、無理だから!」
「いやいやいやいやいやいやちょっと待ってよ。違うよ。そうじゃない」
「絶っっっ対、光の前で裸になんかなれない! 恥ずかしすぎる!」
「話を聞いてよ!」
一人でじたばたしていた撫子がぴたりと止まる。
「何の話よ!!」
「何で僕がキレられてるの!?」
二人で床に座って向かい合う。撫子は、唇を尖らせてこちらを見ている。
「僕はただ――撫子が、大事な人だってことを伝えたかっただけだよ」
思い切り気持ちをくじかれてしまったが、光は思いを口にした。
「――――」
それを聞いた撫子は、トマトみたいに真っ赤になって
「迷惑かな」
「そんなことないわ」
撫子はぷいっと横を向く。視線の先には開けっ放しの扉と、そこから続く暗闇がある。
「人生で一番嬉しい――朱美ちゃんに、私の髪がお母さんにそっくりだって言われた時ぐらい」
光はぐっと喉元を掴まれたような気持ちになった。外に広がった闇よりもなお暗い、撫子の長い黒髪に目を奪われる。きっとそれは、撫子の中では母親から貰った贈り物なのだろう。
「綺麗だもんね、撫子の髪――あ、いや、髪だけじゃなくて、その――全体的に綺麗だけど」
なによそれ、と撫子がこちらを流し見て苦笑する。
「私がお母さんからもらったのは、この髪と――浅倉の血」
撫子はそう言うと四つん這いで移動して、拝殿の入口に腰掛けた。光は立ち上がると、撫子の隣に座った。二人の間に空いた腕一本分の隙間。光はそれを今すぐ埋めてしまいたくもあったし、この距離を今は大事にしたいとも思った。
二人で並んで外を見る。
賽銭箱の向こう側は真っ暗な境内で、さらにその向こう側には石の鳥居が立っている。風が山の樹木を揺らし続ける騒がしい音だけが耳に届く。それ以外、何の気配もない。
まるで、自分達だけを残して、この世界が終わってしまったかのようだった。
「――きっと、里菜さん達が戦ってる」
ぽつりと撫子が呟いた。
「あのユニコーンと?」
撫子はこくんと頷いた。
「――なんか、すごく申し訳ない気持ちでいっぱいだよ」
光は唇を噛んだ。あの化け物は、間違いなく自分の父親が生み出したものだ。それも、母親を蘇らせたいというエゴのためだけに。
「どうして? 光が責任を感じるようなことじゃないでしょ?」
撫子が眉をひそめる。
「自分の親がやったことだからね――」
自分の親――と口にした瞬間、光の胸には墨がにじむように黒く冷たい感情が広がった。自分を不要だと言った父。それでも、親は親だ。その親が残していったものは世界を滅ぼしかねない魔獣が一匹。どう始末をつけろというのだろう。
だが、あのユニコーンがただの大怪獣ではないと本当の意味で理解できるのも、自分だけだろうと光は思った。あのユニコーンは、父にとっては希望そのものだったのだ。それを知っているからこそ、ユニコーンから目を背けたくないと感じるのだろう。
「親がやったことに子供が責任を負うなら、私なんか、何百回死んだって責任を取れないわよ。うちのお父さん、どれだけ恨みを買ってるかわからないもの」
ぎょっとするようなことを撫子が口にした。
撫子の父親――どんな人なのだろうか。撫子がこんな感じなのだから、相当腕っぷしが強い人に違いない。いつか『ご挨拶』しなければならないのだろうが、その時はどんな顔で対面すればいいのか。出会い頭にぶっとばされたりしないだろうか。
そんな妄想を振り払って光は言った。
「それでも――あれは、あの黒いユニコーンは、僕の問題だ――って思う」
あの獣がどうなるのかを見届けなければならない。それは残された子供の使命だと光は感じていた。
もしかするとこれはシンパシーなのかもしれない――あの獣に対する。
撫子はじっと光の目を見て、深く頷いた。
「――あのユニコーンの力は、正直、私が何をやったってどうしようもないと思う」
撫子は悔しさをにじませるでもなく淡々としていた。
それも当然か。
撫子はUMAの力を借りて、あのエメラ・ントゥカを倒した。ヤツだって普通の人間から見れば相当な化け物だ。そんなエメラ・ントゥカが愛玩動物に思えるほど、黒いユニコーンは巨大で禍々しい存在だった。
六原尚之の言葉を思い出す。彼は、撫子が彼らを相手にしなかったように、撫子をまるで相手にしない暴力がこの世界にはあるかもしれないと言っていた。今それは現実となって、撫子の前を塞いでいた。撫子がUMAの力を借りて立ち回ったとしても、あの巨獣には傷一つ付けられない気がした。自然そのものと戦うようなものだ。
撫子はそれを理解している。
故に、彼女は言った。
「だから、私じゃなくて――神様を呼び出して、あいつと戦わせる」
撫子がそう口にした瞬間、拝殿の床がゆらりと動いた。地震? いや、違うだろう。
あのユニコーンが暴れ始めたのだ。
鳥居の向こうの黒い空に、虹色の光の柱が現れ――消えた。
揺れは何度か続いた。この神社からダムまでは、相当離れているはずだが。
里菜達が戦っているのだろうか。
それとも里菜達を
光は撫子が口にした言葉をそのまま繰り返した。
「神様を呼び出してあいつと戦わせる――?」
「一応、そのための修行をずっとしてきたつもりよ」
胸を張る撫子を、光はどんな気持ちで見ればいいのかよく分からなかった。
『巫女』としての力を使えばそれが可能ということなのだろうが、もう一匹あのユニコーンのような怪物を呼び出したとして、本当に撫子がそれを
二頭のUMAが揃って暴れ回る最悪の事態さえあり得るのではないか。
それになにより――光の脳裏をよぎるのは、ユニコーンに飲み込まれて消えた結城の恋人だった。撫子がああならないという保証はない。いや、ならないために自分が何をすべきかということなのか――
光の不安など知らず、撫子は立ち上がった。
「光、ちょっとそのまま前を見てて」
光がうんともああとも言えないうちに、撫子は拝殿の奥に言ってしまった。振り向いちゃ駄目だからねと声がするので眼前の闇を見つめ続ける。
しばらくすると「あったあった」という声の後、衣擦れの音が聞こえてきた。
しゅるしゅる。ぱさり。
そんな音が繰り返される。
もしかすると。
いや、もしかしなくても。
撫子は着替えているのか。
さっきの「裸になんかなれない」って、なんだったんだよと光は思う。いや、光が振り返らないと信じているからこそ着替えられるのか。見えない以上想像するしかないが――別に想像しなくていいのだが――撫子の身体はきっと、野生のヒョウかチーターのような美しさがあるのだろうなと思った。無駄を削ぎ落とした白い裸体。その肌触りを想像して、光は震えた。
もういいわよなんて言わずに、着替え終わった撫子はただ光の前に回り込んだ。
拝殿から降りて、くるっと回転して見せる。黒髪がひらりとなびく。
「どう? 似合う?」
白い
「――本物みたい」
間抜けな感想を漏らした光を見た撫子は、ふふっと口元をゆるめた。
「褒め言葉として受け取っておくわ」
撫子は拝殿を出ると、石畳の上を進んでいった。光は慌ててスニーカーに足を突っ込み、撫子を追い掛けた。
「その、岩田屋の神様ってあの鳥だよね? 危なくないの?」
石段を上がりきったところにある二の鳥居の手前で撫子は止まった。
「大きさってどれぐらいなの?」
撫子はじっと夜闇に沈んだ風景に目をやっている。遠くの山の向こうで、遠雷のように虹色の光が何度も
「僕達食べられたりしないよね?」
「ちょっと集中させてよ」
光の質問攻めに、振り返った撫子は唇を尖らせた。
「岩田屋の神様――サンダーバードは、ちょっと前に別の強いUMAと戦って、それ以来全く姿を見せてないの」
「それって――大丈夫なの?」
別の強いUMAと戦ったというのも気になるが、それよりも全く姿を見せていないというのが気になった。もしかすると、姿を見せられないほど傷ついているということなのではないだろうか。
不安げな光に撫子が答える。
「大丈夫だと思う。光が私と繋がっているように、私も神様と繋がってるの。アイツ、あのユニコーンが出てきてからめちゃくちゃイライラしてるみたい。それもそうよね。自分の縄張りに突然あんなのが入ってきたんだから」
神様をアイツ呼ばわりする撫子は、まるで学校の友達のことでも話すかのように言った。光と撫子の繋がりがあるのだから、UMAと撫子の繋がりも存在するということらしい。ヒト以外の存在と繋がるというのはどんな気分なのだろう。そこは光には計り知れないものがある。
撫子はまた夜の闇の方に目を向けた。そしてぶつぶつと何かを呟きながら首をひねっている。呼び出す手順を思い出している様子だった。
「そう、
祝詞。神様を呼び出すのだから、そういったものはいかにも必要に思われた。
撫子は帯に挟んでいたスマホを手に取ると、画面をスクロールし始めた。画面の灯りがぼんやりと撫子の顔を照らしている。
「カンペありなの!?」
「まだ覚えてないのよ。こういう形式的なことは後回しにしろって言われてたから」
撫子は真顔でスマホの画面を見つめている。
「 祓え給え、清め給え、神ながら守り給え……ええっと」
光は本当にこんなやり方で大丈夫なのかと心配になってきた。撫子は今までどんな修行をしてきたのだろう。形式的ではない部分ということは、もっと精神的な部分なのだろうか。
撫子はスマホの画面をチラチラと見ながら、朗々と祝詞を唱える。
その姿だけ見れば――スマホに目をつむればだが――いかにも『巫女』らしい。
アイドル衣装も様になっていたが、巫女装束も恐ろしく似合っている。
だが。
「……来ないね」
光のつぶやきは、木々のざわめきにかき消される。
撫子は溜息を吐くと、光の方を振り返って前髪をかきあげた。そして、芸術的な首から顎のシルエットを見せつけるように上を向く。
暗くてよく見えないが、重なった枝の向こう側にあるであろう夜空を睨みつけているのだろう。
「もう! アンタね、ちょっとでっかい蛇にいじめられたぐらいでイジイジしてるんじゃないわよ! 自分に自信がないの!? 神様なんでしょ!?」
祝詞でもなんでもない暴言が撫子の口から飛び出した。
光は思わず咳き込みそうになる。そんな無茶苦茶な――と光が目を白黒させている間にも、撫子は岩田屋の神様をあれやこれやと罵倒し続けている。
「いい加減にしないと、唐揚げにして食べちゃうわよ!!」
それが一番逆鱗に触れたということなのだろう。
次の瞬間、身体が浮き上がるかと思う程の地響きと共に、視界全てを覆い尽くすように無数の稲光が走った。同時に鼓膜が裂けそうな程の大音量で雷鳴が轟く。
光は全身の毛穴から魂がジュースになって抜け出そうだった。
哀れなほどに縮み上がった光の前で、撫子は
「来たわね――サンダーバード!」
電車のブレーキ音を百万倍過激にしたような甲高い猛禽類の鳴き声が境内を震わせた。その声は怒りに満ちていた。
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