【光】15 わたしをかたちづくるもの
「うーん、やはり表情が硬いでござる浅倉殿」
「――ぐっ」
忍に指摘された撫子は、喉の奥から短い呻き声を上げた。
アイドル研究部の面々は、タブレットで撮影した自分たちのダンスを確認していた。忍が持つタブレットを覗き込むように、光、シュウ、撫子、澄乃が円になっている。
「シュウの笑顔を見るでござる。こんな馬鹿面、人前でなかなかできないでござるよ」
「そういうお前はどっかのシリアルキラーみたいな笑顔だろうが」
画面の中のシュウと忍はとびきりの笑顔だった。プライドを捨て、弾けきった男達の姿がそこにはあった。ダンスのキレと合わせて、清々しさすら感じさせる。
「楽しいから自然と笑顔になるでござるよ。立花殿も自然な笑顔が素晴らしいでござる」
澄乃も一生懸命歌って踊りながら、顔をほころばせている。本物のアイドル顔負けだ。
「僕はちょっと必死すぎるね」
光は踊ることに夢中になりすぎて、表情にまで意識が向けられていない。時々余裕を失って真顔になっているのが動画で見るとよく分かった。
「それでも頑張って笑顔を見せようとしているだけいいと思うでござる」
忍は最後まで再生し終わった動画を、また最初から再生し直し始めた。
画面の中の撫子は無表情のまま、素晴らしい動きを披露している。まるでダンスをプログラミングされたロボットのようだった。あえてやっている演出ならいいのかもしれないが、今取り組んでいる『走れ!』はそういうタイプの楽曲ではない。
「浅倉殿はまだ恥じらいが捨て切れておらぬ様子。ここは恥ずかしさの限界を突破する必要があるでござるよ。歌い出しの歌詞を思い出すでござる『笑顔が止まらない』でござる」
「どうすれば恥ずかしさを捨てられるっていうのよ」
撫子は口を尖らせた。
「これをすれば確実に羞恥心を捨てられる、なんて方法はないと思うでござるよ。ただ、何が恥ずかしさの根源にあるのかを考えることと、楽曲と自分自身をシンクロさせることでござる。突破口はその二点にあるでござる」
忍は指を二本立てて撫子に示した。
「浅倉殿はダンスも歌も、十分仕上がってるでござる。あとは笑顔だけでござるよ」
光も忍と同じ考えだった。ダンスと歌は申し分ない。あとは表情さえ伴えば、撫子は本当にアイドルになれる気がした。
撫子は口を真一文字に結んで腰に手を当てていた。
「なでなではさ、素直にもっと楽しいって気持ちを出したらいいんだよ」
幼馴染がアドバイスする。
「わかってはいるのよ」
撫子は髪をかきあげて溜め息を吐いた。楽しくもなんともない――という訳ではないことは、一緒に練習をしているメンバーなら分かっている。それぞれの振り付けについて、あーでもないこーでもないと一番こだわっているのが撫子なのだ。皆でわいわい練習している間は笑顔が見られるのに、なぜか通しでやると表情がなくなってしまうのだ。
本番まであと二日となったこの日の練習も、動画チェックの終了と同時にお開きとなった。いよいよ明後日が本番の『岩田屋にくにくフェスティバル』である。
帰り際の石段の下で、撫子は光のTシャツの裾を摘んで小声で言った。
「――ちょっと練習するから付き合ってよ」
シュウは『にくフェス』の設営のバイトがあるからと早々に去っていたし、忍と澄乃はそれぞれ男子用と女子用の衣装の仕上げをするからと言って帰るところだった。
「いいけど――」
光の胸に去来したのは昨日の浅倉家での出来事だった。思い出すだけで、あの気まずい空気がよみがえってくる。光は耳が熱くなるのを自覚した。撫子は撫子で、同じように昨日のことを思い出したのか、顔を赤らめている。
「何よ―― あれは、なんていうかノーカウントでしょ」
いったい何にカウントすべき事象なのかも分からなかったが、撫子の中ではそういうことになっているらしい。結局夜のLINEもスタンプを一個ずつ送りあっただけで、何の話もできていない。
お互い墓穴を掘りたくないので、昨日のことにはもう触れなかった。
二人で下りてきた石段をもう一度上り、いつもの場所で練習を再開する。交代で踊って、お互いの動きをチェックし合おうということになった。忍のタブレットがないので、光のスマホで音源を再生する。
「――どう?」
一曲通しで踊った後、撫子が光の顔を覗き込むようにして訊いた。息切れ一つしていない。
「いやー、やっぱりめちゃくちゃ上手いね」
踊っている撫子は、ある種の芸術品だった。例の『浅倉流兵術』を修めているからだろうか、撫子は小指の先まで自分の肉体をコントロールできているかのようだった。まったく指摘すべき点が見つからない。だが。
「違うわよ。表情よ表情」
撫子が半眼で溜め息を吐いた。さっきの話を聞いていなかったのか、と目で訴えてくる。
「え、今の笑顔だったの?」
光が素直な感想を漏らすと、撫子はその場にしゃがみこんで
「わーごめん! ごめん撫子!」
「いいのよ、別に。光の目にはそういう風に見えたってことですもんね。どうせ私は笑顔のない女ですよ、はいはい」
顔を上げた撫子はいじけるように言った。撫子のこんな態度はなかなか見られないので、光はちょっとかわいいなと思ってしまった。
「まずは、恥ずかしさの根源を考える、だっけ」
光は忍が言っていた、羞恥心に打ち克つ方法を思い出していた。
撫子が感じている恥ずかしさの根源にあるものは――
「そんなの決まってるじゃない。今まで自分がしてきたことと、真逆のことをしてるんだから」
自分がしてきたことというのは、中学時代の撫子の所業だろう。詳しくは聞いていないが、町中の不良から恐れられる程なのだから、相当派手にやらかしてきたに違いない。泣く子も黙る女番長だったかつての撫子と、アイドルコンテストに出る今の撫子。確かにそこにはとんでもないギャップがあると言えた。
「そこの考え方を変えようってことなんじゃない? 自分らしくないって考えるんじゃなくて、これが今まで隠してた本当の自分だって考えるとか」
「本当の自分……」
撫子は考え込むように口元に手をやった。
実際、楽しそうに練習をしていたのは間違いないのだ。決してそれは偽りの姿などではないだろう。喧嘩相手を無慈悲に叩き伏せる撫子ではなく、仲間と溌剌とダンスしている撫子のほうが、光には本当の姿のように思われた。
「次は、楽曲と自分自身をシンクロさせる、か」
忍が言っていたことの二つ目だった。
「歌詞はもう覚えてるわよ」
撫子がひらひらと手を振る。撫子だけではなくメンバー全員が、もはや何も見ずに歌いながら踊っていた。光も、たとえどこから曲が始まったとしても最後まで歌える自信があった。歌詞の文言は脳に焼き付いている。
「あとは、その内容に感情移入できるかどうかじゃない?」
「感情移入ねぇ……」
『走れ!』の歌詞を素直に受け取るなら「電車の中でたまたま一緒になった女の子に片思いしていた男の子が、『君が好き』という気持ちを伝えるために走り出す」というものだ。アイドルソングとしては、王道の歌詞だろう。忍はいつだったかの練習の時に、似たような趣向の楽曲としてAKB48の『大声ダイヤモンド』を挙げていた。その時一緒に忍が語っていたアイドルソングにおける一人称がどうたらこうたらという話は忘れてしまったが。
「撫子にはないの? 過去にそういう気持ちになった経験って」
「ないわよ」
即答かよ――と思ったが
「じゃあ現在進行形で、そういう気持ちになる相手っていうか――」
なぜか光の脳裏にフラッシュバックしたのは、今朝出会った男子生徒の姿だった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
浅倉撫子の兄。
目の前に立っている
「撫子の……お兄さんなんですか」
光は衝撃のあまり、今聞いた内容をオウム返しすることしかできなかった。シュウの『撫子の兄はやべえやつだ』という言葉と、新美の『三組のソラノのこと知ってんの』という言葉、そして撫子の『兄は旅行中なの』という言葉が渾然一体となって、光を混乱させていた。
いったい何がどういうことなのだろう。
やべえ兄が急に旅行から帰ってきて――それが実は三組のソラノだった?
「あ、敬語じゃなくていいよ、同級生だから。僕は二年三組なんだ」
どうやら有は、本当に新美が言う『三組のソラノ』らしい。光はとりあえず一つずつ疑問を解消していくことにした。
「撫子のお兄さんは旅行中だって聞いたけど……」
「ああ、
撫子には兄が二人いるということらしい。おそらく、浅倉家の玄関にあった写真に写っていたのが『隼人』だろう。そして二人目の兄が、この空野有ということだ。しかし、同級生ということは撫子と双子なのだろうか。有が留年しているという可能性もある。それに、浅倉と空野。名字が違うのは何故なのだろうか。
一つの疑問が解けたところで、さらなる謎が浮かび上がってくるだけだった。
光は有の顔を改めてじっくりと見つめ返した。
端正な顔立ちだが、撫子には似ていない。まったく別の系統の顔だった。話しぶりや髪色から連想されたのはむしろ――
「もしかしてお姉さんもいる?」
馬頭観音の前で出会った、あの女性だった。彼女は浅倉家の玄関の写真にも写っていた。撫子にとって関係の深い人物に違いないのだ。
「いるよ」
ビンゴだったらしく、有はあっさりと認めた。
「その人って金髪だよね?」
光は女性のルックスを思い出しながら尋ねた。美しい金髪と、知的な瞳が深く印象に残っていた。
「そうだね。今は長い金髪だよ。もしかして会ったことあるの?」
有は意外そうな顔をした。
「うん、たまたま道端で。その時は撫子にお姉さんがいるなんて知らなかったんだけどね。その人に『浅倉撫子をよろしく』って言われたんだ」
あの言葉も、彼女が撫子の姉なら納得がいく。妹をよろしく頼むと言い残して、この町を去ったのだ。なぜ、光にそれを言ったのかは、よく分からないが。
「へえ、そうなんだ。何もされなかった?」
「…‥え?」
有は気まずそうに笑うと、銀髪をくしゃくしゃとかき乱しながら言った。
「何もされなかったならいいんだ。なんていうか、姉は少年をからかうのがライフワークみたいなところがあるから」
「そうなの?」
とてもそんな人には見えなかったが。あの真面目そうな雰囲気の彼女が、人をからかうなんて光には想像できなかった。いや、あの馬頭観音前でのやりとりが、実はそういうことだったのだろうか。からかい方が上品すぎて、光はそれに気づかなかったのかもしれない。
「ごめんよ、いろいろ混乱させちゃって。今日は撫子の忘れ物を届けに来たんだけど、本人より早く着いちゃったみたいで。――これ、君の手から撫子に渡しておいてくれないかな」
◇◆◇◆◇◆◇◆
「――あ、そういえば」
光は空野有から預かっていたものがあったことを、すっかり忘れていた。
「何よ」
撫子は訝しげな表情で光の横顔を眺めていた。
「撫子のお兄さんから預かっていたものがあったんだった」
「隼人から!?」
目を丸くする撫子。
「いや、空野有って子から」
「有と会ったの!? っていうか有は兄って名乗ったの? 誕生日がちょっと早いからって調子に乗ってるわね」
撫子は腰に手をやって眉をひそめた。
「いや、一般的に先に産まれてれば兄だと思うけど――って彼がお兄ちゃんであることは間違いないんだね」
空野有は本当に浅倉撫子の兄だったらしい。
撫子はしばらく無言で宙に視線を彷徨わせると、ぽつりと言った。
「――ちょっと複雑なのよ」
光は有から預かっていたアディダスのジムサックを撫子に渡した。中には何か布でできたものが入っているようだが、さすがに中身を覗き見る勇気は光にはなかった。恐らく着替えなのだろう。撫子も中身を確認することなく、自分のトートバッグの中にそのままジムサックを押し込んだ。
二人は神社の拝殿の鍵を開けて中に入った。拝殿は練習初日以来、アイドル研究部のロッカールーム兼休憩所として使われていた。それぞれ荷物を床に転がし、二人は床に敷かれたござの上に座り込む。
薄暗い拝殿に壁の隙間から幾筋もの光が差し込み、舞い上がった埃をキラキラと反射させた。
撫子は拝殿の入口に向かって体育座りの姿勢を取ると、うーんと一声唸ってから話し始めた。その表情は光の側からは陰になってよく見えない。
「去年、私の父が再婚したの。相手は有のお母さん。だから、私と有は血の繋がらない
初手からとんでもない事実をぶっ込んできたので、光は呼吸が止まりそうになった。
撫子と有は、血の繋がらない姉弟?
「もともと有とは小学生の頃からの幼馴染だったから、急に姉弟って言われても実感湧かないけどね」
しかも二人は幼馴染。
光のこめかみに汗が一筋伝っていった。
「今は浅倉の家じゃなくて父さんが新しく建てた家に、私と父とお母さんと有の四人で住んでるの。で、血の繋がってる兄だけが浅倉の家に残って暮らしてるんだけど」
撫子と有は一つ屋根の下で同居している。
新美の言葉が光の耳によみがえった。
――あの子はね、あんたが思ってるような子じゃないわよ。
――変態とビッチならお似合いかもね。
それが新美の妄言に過ぎないことは分かっている。
幼馴染の血の繋がらない兄と同居しているから、なんだというのだ。
妙な邪推はよせ。撫子はそんな人間ではない。
撫子は。
撫子は――
――撫子は一体どんな気持ちなんだろう。
どっどっどっと心臓が跳ねる音が、耳の奥で響いていた。
光は心を落ち着かせるために、全く別のことを質問した。
「――お、お姉さんもいるよね?」
「ああ、里菜さんのこと? 里菜さんは里菜さんで別に住んでるの。町内にいるから時々顔は合わせるんだけどね」
あの金髪の女性は里菜というらしい。町内にいるからと撫子は言っているが、あの時の彼女は、今にもどこか遠くに行くかのような雰囲気だった。あれは気のせいだったのだろうか。
「父さんも一度仕事に出たらなかなか帰ってこないから、今は実質、私と空野親子で住んでるって感じかな。だから――わかるでしょ?」
わかりません!と光は心の中で絶叫したかったが、実際のところ撫子の言わんとしていることは、なんとなく理解できた。それは丁度、光が伯父の家で感じているものと同質のものだろう。
ようは気まずいのだ、空野親子と一緒にいることが。
急に今日から家族ですと言われても、赤の他人だった人間と、そう簡単に距離を縮められるものではない。
撫子だってまだ17歳だ。何もかも飲み込めるほど大人ではない。亡き母への想いも含めて、きっと言葉にはできないものを抱えて日々過ごしているに違いない。
光は、今まで自分が撫子に対してやってきたことの全てが恥ずかしく思えてきた。
撫子の唯一の理解者にでもなったつもりであれこれ振舞ってきたが、実際に彼女がどんな状況に置かれ、どんな悩みを抱えているかなんて、まったく考えてもいなかったのだと突き付けられていた。
挙句の果てに、撫子の側には彼女のことをよく知っているであろう、同い年の幼馴染の男の子がいたのだ。光が空席だと思っていた撫子の隣の椅子には、すでに大きすぎる存在が腰掛けていた。
自分はただの傲慢な勘違い野郎だったのではないか。
「――ま、父さんは、私が独りにならないから安心みたいだけどね」
光の胸中など知らず、撫子は話を続けた。
――随分舞い上がってるみたいだけど、三組のソラノのこと知ってんの?
新美の耳障りな声ばかりが、光の頭の中で反響していた。どうすればこれを黙らせることができるのか。光は自分の耳をつねってみたが、もちろん何の効果もない。
「どうしたの?」
気がつくと撫子の顔が目の前にあったので、光は今度こそ本当に呼吸が止まった。撫子の顔が、まつ毛の本数でも数えられそうな距離にある。漂う日焼け止めの匂いが光の鼻をくすぐった。
撫子は病人を気遣うような表情で光を見ていた。
「あっ、いや、別に」
光は馬鹿みたいにうろたえて撫子から視線を逸らした。その怪しすぎる態度を見るや、撫子はさらに身を乗り出して、覆いかぶさるように光の顔を覗き込んだ。
「有に何か言われた?」
「言われてないよ」
何か言われたわけではない。有の存在そのものが、光の胸をかき乱しているのだ。
撫子は訝しげな表情のまま光から顔を遠ざけて溜息を吐いた。
「ごめんなさい、私の家族の話なんて聞きたくなかったわよね」
撫子の自嘲するような口調が光を慌てさせた。反射的に叫ぶ。
「そんなことないよ!」
その声のトーンに驚いたのか、撫子は猫のように目を丸くした。
「――あ、その、ごめん。家族の話が聞けたことは、嬉しいんだ」
撫子が自分に対してここまで個人的な部分を明かしてくれたことは、光にとって驚きであり、喜びだった。それは間違いない。
ただ有という余りにも大きな魚の骨が喉に突き刺さってしまっているせいで、光は自分の考えを撫子に上手く伝えることができなくなっていた。光自身、これがただのヤキモチのような感情に過ぎないことは、漠然と理解していたが、消化し切るには一分や二分の時間では足りなすぎたのだ。
「僕は……父さんも母さんもいないから、たくさん家族がいることって素敵だなって思うよ」
光は代わりに自分の話をすることにした。自らの背景を撫子に伝えることで、彼女が話してくれたことに報いたかったのだ。
「僕の母さんは僕を産んですぐに亡くなっちゃったんだ。だから僕は、アイドル時代の映像や写真でしか、母さんを知らない――」
撫子は唇を噛んで、じっと光の目を見た。撫子は光が発するものを注意深く、全てを受け止めようとしているように見えた。
「お父さんは?」
撫子の口調はまるで迷子の子供に話しかけるようだった。
「父さんとは……会ったこともない。母さんは独りで僕を産んだから。きっとどこかにはいるんだろうけど、生きてるのか死んでるのかも分からないんだ」
自分の父親について光は何一つ情報を持っていなかった。東京の伯母はもちろん、光が今世話になっている岩田屋の伯父も、光の父親のことについて全く母から知らされていなかったのだ。浜岡家の人間は、誰一人として光の父が誰なのかを知らない。
撫子は光が話した内容を噛みしめるようにこくりと頷いた。黒い翡翠のような撫子の瞳が、光の姿を映していた。
撫子の中で、ゆっくりと光という存在が像を結び直しているのかもしれない
「光はそうは思わないかもしれないけど――」
撫子は注意深く言葉を選んでいるようだった。
「私達はきっと、同じ何かを持っているんだと思う」
「同じ何か?」
「ええ、上手く言葉にできないけど——世界を捉えるときの手触りが、きっと同じなんじゃないかって今の話を聞いて思った」
撫子の言葉はいつになく抽象的だった。
世界を捉えるときの手触り。
光が思い出していたのは『もう一人の自分』の存在だった。
手触りも何も、自分は今すぐにでも世界を手放したがっていたのだ。
光の脳裏に、冬のビルの屋上から見た風景が広がった。
「私は、お母さんは亡くしたけど――本当にたくさんの人の愛情に囲まれて育ったんだと思う。今もたくさんの人が私の周りにいて、私を気にかけてくれてる」
父親。実の兄。そして、母親代わりだったという久我朱美。父親の再婚相手と、その子供である有と里菜。幼馴染の澄乃を筆頭に、もしかすると光たちアイドル研究部の面々もその、『たくさんの人』の中に含まれるのかもしれない。
撫子は胸の前で拳を握った。何か見えない物を掴んでいるような仕草だった。
「そんな私がこんなことを言ったらいけないのかもしれないけど――」
撫子はすっと目を細めて、言葉を絞り出した。
「本当は、私はいつも大きな声で寂しいって叫びたかったんだろうなって」
撫子の消え入りそうな声に、光は反射的に背筋を伸ばした。
浅倉撫子という少女の輪郭が、かすれて消えそうになっている――光にはそんな風に見えた。
「今のままの自分じゃないと、ここにいられないと思ってる――って言葉、覚えてる?」
それは光が撫子をステージに立つよう説得する時に口にした言葉だった。
心の奥底でここにはいたくないと思っている光。
ここにいるためには今の自分であり続けなければないと思っている撫子。
世界から弾き出されて、どうせ誰にも愛されないと思っている光。
誰かに愛されなくなることに怯えて、自分自身を小さな世界に閉じ込める撫子。
二人は背中合わせで同じ檻の中に入っているようなものなのかもしれない。
撫子が言った、世界を捉える時の手触りが同じとは、そういうことなのだ。
光は、撫子の身体が酷く近い場所にあることを今更ながら意識した。
体温すら感じられそうな距離に撫子の身体がある。薄暗い拝殿は、汗と日焼け止めの匂いが混じり合った空気で満たされていた。
光の頭の隅に、有の姿がちらついた――早い者勝ちという言葉と共に。そして忌々しい新美の言葉。
――変態とビッチならお似合いかもね。
自分は変態じゃないし、撫子もビッチじゃない。強く否定する。
絶対に違う。
――だが、光の中には、今ここで撫子に触れてみたいという気持ちも確かにあった。
「私は光に会えて、ちょっと自分のことがわかった気がするの。だから、光に会えてよかったって思う」
撫子の言葉が、光の中にある引き金に手をかけている。
ここで撫子に触れたらどうなるんだろう。
覗き込んだ撫子の瞳には、親愛の中に少しの怯えが見えた気がした。撫子は本能的に何かを――光の中にある欲望を――察しているのかもしれない。
少し触れれば止まることがないドミノの、最初のピースの前で光は立ち竦んでいた。
「ねぇ、撫子――」
渇いた口で言葉を紡ぐ。何を言うべきなのか、どこまで言うべきなのか、何を伝えて、何を伝えないほうがいいのか。
光の心の中で言葉が激しくぶつかりあった末に――
「セックスしようよ」
光の中にいるもう一人の自分が吐き出した『暴言』が、拝殿の暗がりに溶けていった。
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