結城編 第三章「恋と欲望」
【結城】09 神の鳥ワキンヤン
槻本山の中腹に、目指す場所はあった。
県内の「走り屋」の聖地である峠道が通っている側とは、山頂を挟んで逆側の山中である。
対向車とすれ違うことが到底不可能な狭い山道を、結城の軽自動車がのろのろと上がっていく。道の端は苔がびっしり生えている。ガードレールが所々途切れているので、もしハンドルを切り損ねたらそのまま谷底へ滑り落ちることになりそうだった。
「安全運転でいきましょう」
北村が不安げに窓の外を眺めている。
結城はハンドルを握る手に汗をかきながら、見通しの悪いカーブが連続する登りをなんとか越えていく。
頭上は生い茂る樹木の枝に覆われて、昼だというのに薄暗かった。
緊張感の漂う山道のドライブは時間にすると十分かそこらだったはずだが、体感だと小一時間は走ったような気分だった。
唐突にうねった山道は終わり、開けた場所に出た。陽光が差し込む。
山の中腹を切り開いた土地に一軒の家があった。
家の前に停めてあった青いジムニーの隣に、結城は自分の車を停めた。
ドアを開けて外に出ると、鮮烈な森の香りが鼻をくすぐった。フィトンチッドを含んだ清涼な空気が満ちていた。
「わあ! 古民家カフェみたいですね!」
「いや、リアル古民家そのものだよね」
結城と北村の目の前にある家は、平屋の日本家屋だった。外観は小綺麗にされていたが、築年数は下手をすれば百年近くになるのではないだろうか。そんな歴史の威厳まで感じさせる佇まいだった。
家の前庭は畑になっていて、キュウリやトマトが実っていた。庭の隅には鶏小屋らしきものがあり、コッコッと鶏の鳴き声も聞こえる。
「ごめんくださーい」
呼び鈴が見当たらなかったので、北村が玄関のガラス戸をガラガラと開けて中に呼びかけた。
家の中は薄暗かった。
玄関を上がってすぐの畳の部屋には、来客用の大きな木製のテーブルがあったが、それもかなり年季が入ったもののように見える。
妖怪でも住んでいそうだなと結城は思った。
「すみませーん」
中に人の気配はない。
「どうしますか、結城さん」
「……上がってみようか」
仕方がないので二人で家の中に上がることにした。玄関の土間に靴を並べて、畳に上がる。
湿気た木と線香の薫りが入り混じった、古い家特有の匂いがした。
畳の部屋の奥は、また同じような畳の部屋だった。そこから右の襖を開けると板張りの部屋に出た。部屋の北側が窓になっていて、すぐそこまで山肌が来ていた。部屋の隅を見ると作業机が置かれていて、そこに工具や画材が並んでいた。アトリエめいた雰囲気のある部屋だった。
「わ」
北村が何かに驚いたような声をあげた。
声につられて結城も北村が見ている方を見た。
部屋の南側の壁に、大きな絵が飾られていた。
畳二枚分はあろうかというキャンバスに描かれた、見たこともない鳥の絵だった。
どことなく民族調のタッチで描かれたその鳥は、極彩色の巨大な鷲のように見えた。鋭い嘴と爪。そして、燃えるような赤い眼。
それが大きく羽を広げて、こちらに向かって飛び掛かろうとしている。
結城はその迫力に息を呑んだ。
そこに。
「おお、いらっしゃい」
二人の背後から声がして、家の主らしき男が現れた。
「あ、すみません。勝手に上がってしまって」
北村がスッと男の前に出て会釈をした。
「いや、いいですよ。奥にいると玄関から声をかけられても全然分からないので。約束していた役場の方ですよね?」
その男――猟師兼料理人らしい――は、結城が想像していたよりも若かった。恐らく、年齢は結城とそう変わらないだろう。下手をすれば結城よりも若いかもしれない。
白のタンクトップにオリーブ色のカーゴパンツというラフな格好だったが、引き締まった身体と鋭い眼光が只者ではない雰囲気を醸し出している。
そんな男に対して物怖じもせず、北村は笑顔で名刺を渡していた。意外なことに男もカーゴパンツのポケットから名刺を取り出して北村に渡した。
「――新渡戸、キリンジ――さん。芸名みたいな感じですか?」
「いや、本名です」
「失礼しました。でも、一度聞いたら絶対に忘れられない名前ですね」
「よく言われます」
男――キリンジ――は微笑した。
結城も北村に続いてキリンジと名刺を交換した。キリンジの名刺には『ジビエ&アート工房KIRINJI 代表 新渡戸キリンジ』とあった。
「それにしてもすごい絵ですね。新渡戸さんが描かれたんですか」
北村が壁の絵を示して尋ねた。
「ええ、趣味程度ですが描かせてもらってます」
「ちなみにこれは何の絵なんですか?」
質問を聞いたキリンジは一瞬考え込むような仕草を見せたが、すぐに答えた。
「これはネイティブ・アメリカンの神様です。スー族という部族の伝承にある、ワキンヤンという伝説の鳥ですね」
へーと北村が感心したように目を丸くする。
「よくトーテムポールとかインディアン・ジュエリーなんかになってるやつですよね」
結城が付け加えると、キリンジがニヤリと笑った。
「よくご存知で」
「いや、大学時代、アメカジファッションに凝ってたことがあって。なかなかインディアン・ジュエリーなんて高くて買えなかったですけど」
実際、結城は大学時代にアメリカン・カジュアルのファッションにハマっていた時期があった。ヴィンテージのデニムやゴツい革製のブーツを愛用していたが、地元に帰ってくる時に引っ越し代を捻出するため全て手放してしまったのだった。
インディアン・ジュエリーは銀製の本体とターコイズなどの宝石を使って作られるアクセサリーで、その名の通りネイティブ・アメリカンの職人が一つ一つ手作りで作製するものだ。
「アメカジ好きでもなかなかそんなことは知りませんよ。では、このワキンヤンの別名もご存知でしょう」
キリンジは少し嬉しそうだった。もしかすると、キリンジもアメカジファッションが好きなのかもしれない。そう思うと、キリンジの穿いているカーゴパンツも、米軍のヴィンテージ品のように見えてきた。
「ワキンヤンの別名――サンダーバードですか」
「そうです」
キリンジは満足そうに頷いた。
「えー、結城さんがそういうの好きなんて意外ですね」
「大学時代の話だよ。もう全部売っちゃったし、こっちだとそういう系のお店もないから今はまったくだけどね」
それにマニアックなアメカジは女子ウケが悪いんだよ、と脳内で結城は付け加えた。北村も彼氏が50年前の色褪せたジーパンを穿いてきたら嫌がるに違いない。
その後の『にくにくフェスティバル』の打ち合わせはスムーズに進んだ。
「ここで獲物を解体します」
キリンジが案内してくれたのは、家の隣に増築するように作ってあるスペースだった。
使い込まれたステンレスの流し台と血を洗い流すためのゴムホースが妙に生々しかった。消毒のために使われているのだろうが、強烈な塩素の臭いが漂っている。
「解体もお一人でするんですか?」
北村が役場の広報資料に載せるための写真を撮りながら言った。
「ええ、まあ。慣れれば誰でもできますよ」
「いやあ、私は無理かも」
北村が肩をすくめる。
結城も恐らくは無理だろう。血や内臓を見たら力が抜けてしまう気がした。
「家の裏にある檻にイノシシがいるので見てみますか?」
「あ!ぜひ!」
キリンジに案内されて、家の裏手に回る。山肌と家屋の間にある裏庭のようなスペースに、入口に格子がはめられた掘っ立て小屋が建っていて、その中に一頭のイノシシが入れられていた。
「うわー、でっかいイノシシですね。何キロぐらいですか?」
北村が写真を撮りながら尋ねる。
「こいつだと80キロぐらいですね。道路脇の側溝にハマって動けなくなってたのを生け捕りにして連れて帰ってきました」
結城が檻の中を覗き込むと、茶色い毛に覆われた巨大なイノシシが佇んでいた。その尻や背中の筋肉の盛り上がりは野生の圧倒的なパワーを感じさせるが、閉じ込められているからか、どこか物悲しい雰囲気だった。
結城は先日競馬場で見た競走馬を思い出していた。
満員の大観衆の前で走りを披露する競走馬と、解体されて燻製になるのを待つイノシシ。
同じ動物――と言っていいのかは分からないが、競走馬もイノシシも、どちらも動物だけが持つ美しさを備えているのは間違いなかった。
同じように人間に利用される動物でも、その関わり方が違えばこれだけ境遇が違うのだ。
結城は檻の前にしゃがみこんで複雑な気分でイノシシを眺める。
せめて美味い燻製になってほしい。
こいつはそんなこと望んではいないだろうが。
だが結局、望んだ通りの人生なんて誰も送れないのだ。
「あんまり近づくと噛まれますよ。人間の指ぐらいなら噛みちぎりますから」
キリンジから言われて結城は檻から飛び退いた。
その後、台所で実際に加工されたイノシシの肉を試食させてもらうことになった。その肉はもちろん豚肉に似ているのだが、どこか野性味を感じさせるものだった。
燻製されたイノシシの肉は滋味が滲み出るような、深みすら感じさせる美味しさだった。
「すごーい! スモーキーですね!」
北村が目を輝かせて言った。どんなお酒が合うかなぁと顎に手を当てて考えている。北村は結構飲めるクチだった。
「猟期に獲って冷凍してあった肉です。猟師仲間にも頼んで、約束の数は揃えられるようにしますよ」
岩田屋町でのイノシシの猟期は11月から2月と定められている。キリンジ曰く、イノシシの旬は秋以降らしい。ドングリや栗をたらふく食べたイノシシの肉はとても甘いそうだ。
「次の肉フェスは秋に開催しますよ」
と北村が笑うとキリンジも、
「その時は軽トラにイノシシを山積みにして下山します」
と笑った。
その後、二人が世間話を始めたので、結城はトイレを借りることにした。トイレは離れのように家の裏にあると聞いたので、一度靴を履いて外に出る。
木々の枝や葉がこすれあう音と、ギャギャギャギャギャーッという聞いたこともない甲高い鳥の声。ここには人の営みから放たれる音はまったくなかった。
結城は落葉を踏みしめながらトイレを目指す。イノシシの檻から少し離れるようにして、コンクリートで出来た小さな建屋があった。どうやらそれがトイレらしい。中にはぼっとんの和式便所があって、永遠の闇のような穴が黄ばんだ便器の真ん中で待ち受けていた。
用を足して外に出ると、結城は家の裏手からさらに山の方に続いている獣道のようなものを発見した。
ざわざわと緑の葉が揺れる。
結城はなんとはなしにその道を歩き始めた。
ちょっとした好奇心だった。
まさか道に迷うことなどあるまい。
しばらく進むと、現れたのは滝だった。
そんなに水量がある滝ではなかった。二階ほどの高さから、スーパー銭湯の水風呂ぐらいの大きさの滝壺に向かって音を立てて水が落ちていた。滝壺の水は結城の足元の道を迂回するようにして、そのまま谷に向かって流れ出している。
結城は足元に木製の桶が転がっているのを発見した。誰かがここで滝行でもしているのだろうか。
結城は桶を拾い上げた。するとその下に何か白い布製のものがあるのを発見した。
なんだろうと思って摘み上げると、女性用のショーツだった。
「うわ!」
思わず結城はそれを放り投げた。
可愛らしいリボンのついたショーツはぱさりと滝壺の水面に落ちた。
結城の心臓が早鐘を打つ。
こんな山奥だ。
拾って持って帰っても誰もわかるまい。
突然降って湧いた下着泥棒の誘惑に結城は唾を飲み込んだ。
だが、持ち主がどんな人間かもわからない。
それに女性用下着をポケットに忍ばせたまま北村と一緒の車に乗るのは危険すぎる気がした。
煩悩が結城の脳内を駆け巡っているうちに、ショーツは谷の方に向かって流されていった。
今更拾いにも行けないだろう。
結城は滝壺を後にしてさらに獣道を進んだ。道の周りの木々の密度がさらに上がって、空気の温度が下がった気がした。
少し怖くなって振り返ると、まだ北村とキリンジがいる家が見えて安堵する。
獣道のどん詰まりにあったのは、切り立った斜面の手前に作られた広場のような空間だった。斜面のほうは木が伐られていて、岩田屋の町を眺められるようになっている。
その広場の真ん中には、板張りの床が一段高く設えられていた。
結城は能か何かの舞台のようだなと感じた。
もしかすると、何か儀式をするための施設なのかもしれない。
どこか神聖な空気を感じ取った結城は、あまりここに留まらにないほうがいい気がして踵を返した。
「――あ、帰ってきた! 遅いから心配したんですよ」
台所に帰ってきた結城に北村が言った。
「いや、ごめんごめん。ちょっとイノシシと今後の人生について話してたんだよ」
それを聞いて北村はぷっと笑った。
キリンジは二人に土産用の燻製セットを用意してくれていた。
「試食用ですので課の皆さんで召し上がってください」
銀色の簡易な保冷バッグに入れられたそれを北村が嬉しそうに受け取った。
山中は日が暮れるのが早い。
ではお暇しますと二人が家の外に出ると、既に辺りはうっすらと暗かった。
キリンジは車まで見送りに来てくれた。
「今日はありがとうございました」
北村が笑顔で言う。
「ありがとうございます」
結城も頭を下げる。
「いえいえ、こちらこそご足労いただいてありがとうございます。町を盛り上げるイベントに携われて光栄ですよ」
と、そこに。
ギャギャギャギャギャーッと甲高い鳥の声が響いた。
「さっきも聞こえましたけど、あれって何て鳥の声なんですか」
結城がキリンジに尋ねる。
が、キリンジは結城の声が聞こえていないのか、山の奥の方を見ていた。
真剣に何かを探るような視線だった。
まさに獲物を狙う猟師のような。
「――え、あ、すいません。なんですか」
声をかけられたことに気付いたキリンジが慌てて結城に向き直る。
「いや、大したことじゃないんで大丈夫です」
結城は苦笑いして言った。
「この山にも、あのサンダーバードみたいな鳥がいるんですかね」
と、北村が笑った。
それを聞いたキリンジは、
「いるって言ったらどうしますか」
とだけ言った。
来た道をまた恐る恐る辿って下山し、役場に向かって車を走らせるうちに辺りは夕闇に包まれ始めた。
西の山の端はまだ少し明るいが、東の空にはもはや夜が訪れようとしている。
「あのキリンジって人、かっこよかったね」
結城が言うと北村も乗ってきた。
「なんかワイルドだけど優しい感じで素敵な方でしたね!」
岩田屋にもああいう人いるんですねと続けた。
「でも、ああいう人ってだいたい地元の人間じゃないんだよな」
「ああ、なんか分かります。確かに外の人っぽかったですね」
『たのまち課』の課長である迫水もそうだが、この町でどこか魅力的な雰囲気を持つ人は外から来た人間が多い。
彼らは田舎で生まれて田舎で育った人間には持ち得ないものを持っているのだ。
「きゃっ」
車窓から外を眺めていた北村が突然悲鳴を上げた。
「どうしたの?」
結城はハンドルから手を離さずに訊く。もしかしたら、さっき乗り込むときに一緒に虫でも入ってきたのだろうか。
「いや、田んぼの脇に立ってたカカシにびっくりしちゃって」
「ああ」
確かに時々ギョッとするようなリアルなカカシが立っていることがある。あれは夜道で出会うとなかなか怖いものがある。
「でも――」
北村が不思議そうに言った。
「首のない馬のカカシなんてありますかね」
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