2020年【光】04 浅倉流

 まただ。


 


 光。シュウ。撫子。そして他のクラスメイトたち。全員がぴたりと動きを止めていた。教室内の空気は、一気に氷点下のそれと化す。


 ――こいつは何を言ってるんだ?


 クラスメイトたちの視線は光に集中している。シュウもあんぐりと口を開けて、隣にいる光を見ている。


 撫子は――先程と同じ虫けらを見る表情に戻っていた。


 全員が停止していた時間は十秒にも満たなかっただろうが、それは恐ろしく長く感じられた。その長い長い凍結が解除されると、全員がゆっくりと活動を再開する。


 女子たちは「えっ今のなに?」「撫子ちゃんとどういう関係なの?」「てか最低じゃない?」「キモすぎ」「マジありえない」「こいつ撫子ちゃんの何なの」「マジ最低」「きっしょ」「ねーねーぱ○ぱんってなにー?」「もあちゃんは向こうで私たちとお話しようねー」「気持ち悪」「最悪」と小声で口々に光を罵り始めた。もあちゃんらしき一際背の低いツインテールの女子が三人の女子に囲まれて廊下に連れて行かれる。


 シュウもフォローする方法が見つからないらしく沈黙を守っていた。ただ、心配そうな表情で光を見つめてくれていた。


 撫子はというと、他の女子の言葉には特に反応を示さず、マイナス273度の瞳でこちらを見ている。


 ――これはまずい。


 ごくりと唾を呑み込んで、意を決した光は口を開いた。


「ええと、ちょっと説明させて欲しい。にわかには信じられないかもしれないんだけど、実は僕の中にはもう一人の『僕』みたいなものがいて――二重人格っていうよりは、こう、肩のあたりにそいつが乗っかってる感じなんだけど――そいつがときどきこういう風に、その場の空気を読めないこととか、絶対言ってはいけない一言みたいなのを、僕の口を借りて言うんだよ。もちろんこれは僕の意思じゃないし、どっちかっていうと僕も被害者のほうで、本当に困ってるんだけど、えーっと、あの、でも言ってはいけないことを言ったのは事実だし、その、君がそういう風だってことを、たとえ知ってても言うべきじゃなかったし、本当に、あの、本当に傷つけてごめんっていうか、本当に、えっと、本当に――ごめんなさい」


 撫子はそれを表情一つ変えずに聞き、


「言いたいことはそれだけ?」


 とだけ言った。さっきのヤンキーと同じ抹殺シークエンスに突入していた。光の脳内に処刑用BGMが流れ始める。


 撫子が一歩前に出る。


 光は一歩後ろに下がる。


 撫子が一歩前に出る。


 光は一歩後ろに下がる。


 それを何度か繰り返して、光は窓際にまで追い詰められていた。観衆――クラスメイトに加えて他のクラスから来た野次馬も混ざっているようだ――は二人をぐるりと取り囲むように移動する。


 撫子は光から目を離さず言った。


「みんな彼がさっき言ったことは忘れてね。どうやらとんでもない妄想に取り憑かれてるみたいだから」


 生えてなかったのは事実だろう。


「――今から起こることも、できれば見たらすぐ忘れてね」


「ちょ、ちょ、ちょ、」


 ――ちょっと待ってよ。と言おうとした次の瞬間だった。


「お待ちくだされ浅倉殿ーーーー!!」


 教室の後ろにある掃除道具入れが勢いよく開いて、中からグリコのポーズを決めながらやたらガタイのいい男子生徒が飛び出してきた。


 吹き飛ばされて高々と舞い上がった掃除道具入れの扉が教室の床に付くよりも先に、そのガタイのいい男子は高速の前転を五回ほど繰り返して光と撫子の間に割って入る形で止まった。掃除道具入れの扉は存外軽い音を立てて床に落ちる。


 観衆はあっけにとられていた。


「またお前か」


 ぼそりと撫子が呟く。


「おおおお! 浅倉殿! 今日もお美しいでござるな! まさに女神!」


 目を輝かせながらその男子が立ち上がる。


 大きい男だった。


 190センチ近くあるだろう。白い開襟シャツも黒いズボンもピチピチで、まるで大人が子供の服を着ているようだった。肩も胸も太腿も、筋肉が隆々と盛り上がっているのかわかる。頭にはなぜか赤いペイズリー柄のバンダナを巻いていた。


 この男の身体が雄牛だとすれば、先程のヤンキーなどせいぜい子羊といったところだ。


 彫りの深い顔の造形は、この男子のルーツが海外にあることを想起させた。


 そして、その妙にギラギラした瞳が光を捉えた。


「お、これはこれは転校生殿! 失礼致したでござる。拙者の名は斎藤忍さいとうしのぶ。お隣の二年二組の生徒にして、岩田屋高校アイドル研究部の部長を務めている者でござる!」


 朗らかに自己紹介をした。


 部長って言っても部員自分だけじゃん、と観衆の誰かがボソリとツッコミを入れるのが聞こえた。


「部員はいつでも募集してるでござる!」


 忍は声の方向に笑顔でサムズアップした。そしてまた光の方に向き直る。


「浜岡殿も、もしアイドルに興味があれば……うん?」


 忍は突然目を細めると、グッと光の顔に自分の顔を近付けた。何かを確かめるように凝視している。突然の『圧』に光は息が止まりそうになる。


「浜岡殿……どこかでお会いしたことはござらんか?」


「いや、ないと思うけど」


 こんな濃い奴と一度でも会っていれば忘れるはずがない。確実に初対面のはずだ。


「拙者の勘違いだったようでござるな」


「たぶんそうだよ」


 それで光への用事は済んだのか、忍は撫子のほうにすっと近づいた。迂闊に近寄らないほうがいい気がするのだが、忍は平気なようだ。一方の撫子も平然としている。


「先ほどの一連の技……まさに疾風迅雷とはこのことでござるな。殴りかかってくる相手に半身で踏み込んで、左の掌底で顎をかちあげ、崩れた相手の顎に、さらに右の掌底を打ち下ろす……ノートから手を離してまた受け止める間にそれをするのだから、全く本当に恐れ入るでござる」


 忍の今の解説を聞く限り、光の目に見えた部分は最後の右の掌底だけだったということになる。撫子の恐ろしい技術の一端を感じると同時に、それを正確に捉えている忍の眼力も只者ではないと感じさせた。


 褒められた撫子は特にリアクションもなく忍を見ている。さっさと忍とのやりとりを終えて、光を葬りたいのだという気持ちがありありと伝わってくる。


「浅倉殿にはやはりこれを渡すより他ないでござる」


 忍はズボンのポケットから綺麗に折りたたまれた一枚の紙を取り出した。学校のプリントのように見える。忍はそれを几帳面に開くと、両手で撫子に向かって差し出した。


「入部届でござる! 浅倉殿にはぜひ我がアイドル研究部の一員となってもらいたい! 入部した暁には、拙者がプロデューサーとして浅倉殿のアイドルデビューを全力でプロデュースしていく所存でござる! 文化祭のステージを二人の武道館に!!」


「ごめんなさい。何度も言うようだけど、私アイドルとか興味ないの」


 ええええええええっと頭を抱えて忍はその場に崩れ落ちた。何度目だよこれと観衆の中の誰かがつぶやいた。どうやらこんなやりとりを何度も繰り返しているらしい。


 めげない忍は跳ね上がるようにまた立ち上がる。


「では、これはどうでござるか」


 と言って忍が取り出しのは、何の冗談か婚姻届だった。新しいパターンだったらしく、観衆がどよめいた。


「浅倉殿の浅倉流兵術と、拙者のアメリカ東海岸流忍術。この二つが合わされば、最強の格闘技が生まれると思わぬでござるか? 是非とも拙者と結婚して、この地球上で最強のマーシャルアーツを誕生させて欲しいでござる! 二人の共同作業で最強を目指そうではござらぬか!!」


「それはもっと興味ないわ」


 ぬあああああああああああああああっと忍はまたその場に崩れ落ちた。


 ここでシュウがニヤニヤと笑いながら茶々を入れた。


「浅倉はなぁ、自分より弱い男とは絶対に付き合わないってよ」


 ちょっと有沢!と女子から抗議の声が飛ぶ。シュウは口をとがらせて口笛を吹き、知らんぷりだ。


 忍がぬっと立ち上がる。その目は少し涙目になっていた。


「浅倉殿。今のは事実でござるか」


「――ああ、まあ、そうかもしれないわね」


 撫子は宙に視線をさまよわせながら、曖昧な返事をした。だが、返事のあと「いや、そうでもないか、うううんそれは関係ないか」とブツブツ言っている。だが忍には届かなかったようだ。


「ではこの場で組手をして、拙者の腕前を確かめてほしいでござる」


 忍が物騒なことを口にしたので、また観衆が騒ぎ始めた。


「いかがか?」


 真剣な眼差しの忍が念押しするように言う。


「――浅倉流には」


 ぼそりと撫子が呟く。その声を聞き取れたのは、近くにいた忍と光だけだっただろう。


「『始め』の合図はないの」


 次の瞬間、空気が爆発するような音と共に、撫子は忍の懐に踏み込んだ。


 あっというまの出来事である。不意打ちのような形で忍の襟首を掴んだ撫子は、そのまま自分の右足で忍の両足を刈るように跳ね上げ――


 あろうことか忍の巨体をそのまま光に向かって投げつけた。


 嘘だろ。


 と思ったその刹那、光の身体は跳ね飛ぶバネのように動いて、吹っ飛んでくる忍の身体をかわしていた。


「――!?」


 だって当たったら痛いじゃん!と胸中で叫びながら光は教室の床転がった。


 忍がなぜか幸せそうな顔で伸びているのを確認した光は、脱兎の如くそこから駆け出した。


「待て!」


 刺すように制止する撫子の声と共に、追いかけっこが始まった。

 


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