【ナオキ】05 神代の獣
「ついに辿り着きましたね」
よかったですねと鼻声で清水が言った。ナオキはうんともああともつかない返事を口にする。元恋人を利用して自分の目的を叶えようとする男には、目の前で涙する彼女に「ごめんな」とささやくことさえできない。ナオキが都合よく「二人の冷却期間」だと思っていた十年は「自分がただ逃げ回っていた時間」へと変貌していた。
エレベーターの扉が開くと、そこはこれまでとは打って変わって地下然とした薄暗い通路になっていた。二人が荷室から出ると、エレベーターの扉は音もなく閉まった。通路の天井は低く、ぼんやりとした赤い照明が点々と進行方向に延びていた。
無言で二人は歩き出す。
足元には一センチほど水が溜まっていた。おそらく塩水だろうが、舐めて確かめる勇気はない。ナオキのアーミーブーツはじゃばじゃばとそれをはね散らかした。
突然、清水が「はーーーー」と長い長い溜息を吐いた。ナオキは小声でなんだよと呟いて清水を見た。
半眼になった彼女はただ。
「……さっきのナシで。どこででも好きに野垂れ死んでください」
と言った。
それはねえだろ――とナオキは思った。
だが、気持ちを切り替えるポイントにはなった。少なくとも清水は妙な空気をこれ以上ひきずりたくないようだった。再び表情を整えて、水先案内人の仮面を被り直している。
過去の関係を利用して無理矢理ねじ込んだものとはいえ、ナオキの「研究施設と研究対象物を見せてほしい」という依頼が公の立場からのものである以上、それを私情で突っぱねるという選択肢は所長である清水にはないのだった。
そもそもこうなることだって織り込み済みだっただろうが、とナオキは自分で自分を嘲る。いつでも訪れることができたこの『アルゲニブ』を後回しにし続けてきたのは、こうやって未熟だった過去の自分と向き合うのが怖く、情けなかったからなのは間違いのないことだった。
今はそれよりも目的のものに集中しなければならない。何のためにここの来たのかをもう一度自分自身に問い直す。
研究拠点U-169『アルゲニブ』にいるUMAをその目で見る。
それがナオキの目的だった。
薄暗く湿っぽい通路を50メートルは歩いただろうか。二人が辿り着いたのは、禍々しい雰囲気すら放つ防爆扉だった。大きな金属製のその扉には、二人が所属する組織の紋章と立ち入り禁止を示す文言が刻まれている。
「ここは裏口みたいなものです。私のパスでしか開きません」
言うが早いか清水は扉を解錠した。金属音が狭い通路に響く。
ナオキは息をのんだ。
ついに目的のUMAとの対面だった。
重たい扉をナオキと清水は二人で開けた。
まず、目に入ったのは――と表現しようとして、ナオキの脳はそこで機能を停止した。眼球から入った情報の処理が追い付かず、ナオキはただ茫然とそこに立ち尽くした。
清水にとっては日常的に見ているものなのだろう。ナオキに比べればまだ平然としているように見えたが、無意識に伸ばした手がナオキのコートの袖を掴んでいた。
二人が立ってる場所からは、その部屋の正確な広さはわからなかった。しかし、それが先ほどのエレベーターホールなどとは比較にならないほど巨大であることはわかった。光源が限定されているからというのもあるが、向こう側の壁が見えないのである。
天井にある青白いライトで照らされているのは巨大な氷塊のようなものだった。
ナオキはそれを見上げる。20メートルはあるのではないだろうか。
その白く透明な物体は、氷ではなく岩塩の塊だった。
その中にそれはいた。
両前足を振り上げ、
灰色の体色。
そして、その額から伸びる一本の角。
「これが私たち『アルゲニブ』の研究対象物――正真正銘のユニコーンです」
人類の歴史にユニコーンが現れたのは紀元前400年の昔にまで遡る。ギリシアの歴史家クテシアスが『インド誌』にその姿を記してから現代に至るまで、その獣はもっとも有名な伝説の生き物として、その名を轟かせてきた。ライオンの尾、ヤギの顎鬚、二つに割れた蹄、そして額の中央に一本の長い角を持つその獣は、世界中にその名とその姿を知られながら、同時に誰も実物を見たことがないとされているUMAだった。
「ノアの方舟に乗らない訳だ」
ナオキはユニコーンのその威容が放つ、圧倒的な力のようなものを感じていた。
「……はい。そして伝説の通りなかなか凶暴ですよ。いや、生き物に対してその表現は正しくないですね。ちょっと……気が強いぐらいです」
目覚めたら世界を滅ぼしかねないぐらいにな――とナオキは胸中で付け加えた。
「見ての通り特注の
「……この施設ごと吹き飛ばしてでも止めるしかないってことか」
塩の中のユニコーンは身じろぎ一つしない。清水の言葉通り、その体には七本の鉄柱のようなものが貫通していた。その中の二本によってユニコーンは両目が潰されている。心臓にあたる部分には三本、後ろ脚にも一本ずつそれは突き立っていた。岩塩の外側から叩き込んだのだろうが、いったいどうやったのかはナオキには見当もつかなかった。
ナオキは自分が震えていることに気が付いた。
自分がユニコーンを見ているのか、ユニコーンが自分を見ているのか――その潰された両目で――それもわからない。
この施設そのものも、人間がユニコーンを捕獲しているのではなく、ユニコーンが自らを守るために人間に作らせた要塞のようにも思えてきた。
神話の獣が持つ圧倒的な存在感がナオキを包んでいた。この生物には見るものを隷属させるような威厳が備わっていた。塩の柱の中に閉じ込められ、変わり果てた姿になったとしても――
「なんで」
ナオキの袖を掴んでいた清水が言う。
「なんで、これを見たいと思ったんですか」
こんな恐ろしいものを、と清水の目が訴えてくる。 この、いつ目覚めるとも知れぬ悪魔の面前で、清水はその職責を全うし続けているのだ。
「俺は……見たんだよ」
ナオキはユニコーンに縛り付けられそうになる心をなんとか引き剥がして、清水の問いに答えようとする。もがくように言葉を繋げる。
「いや、正確には見てはいないのか。後始末……いや、後始末さえできてないな。俺は何にもできやしなかったんだ。ただ、全てが終わったあとにそこに行っただけで」
「……ナオキ?」
再会してから初めてナオキは清水に名を呼ばれた気がした。
「ユニコーンが、いや、正確にはユニコーンの偽物が戦ったんだ」
「ユニコーンが……戦った?」
ナオキはここに来るきっかけになった出来事を思い出していた。
UMAについて調査する中で出会った事件だった。
それはあまりにも残酷と言えば残酷な物語だったが、同時に喜劇のようでもあった。登場人物たちの誰も彼もが混乱して右往左往しているうちに、全ての幕が下りた。いや、下ろされた。ナオキはその最後の最後に、くすぶった残り火、あるいは残骸のようなものを看取っただけだ。
「ああ、こいつの偽物が戦ったんだ。もう一体の神の獣と。日本の……岩田屋町で」
ナオキは袖を掴んでいた清水の手を取った。十年ぶりに触れた彼女の手はひんやりとしていて汗で湿っていた。言葉にできない懐かしさがナオキの胸中に蘇った。清水はそれをふりほどくことなく、静かにナオキを見つめていた。黒縁眼鏡の奥の目はもう泣いてはいなかった。ナオキは十年の歳月が溶けていくのを感じていた。
「――2020年の、夏にな」
誰もが思っていることだ。
未確認生物が確認されたとき、それは何になるのだろう。
ただの生物に堕するのか。
それとも――
ナオキはUMAという言葉が持つ、本当の意味を知らない。
巨大な一角獣は潰された目で、小さな二人を見下ろしていた。
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