僕はあの子に蹴られて
たぬき85
プロローグ「荒野と再会」
【ナオキ】01 荒野
そこは砂と岩ばかりの荒野だった。
その荒野の真ん中を突っ切る道路はもちろん未舗装で、荷物を満載にしてひた走る古い四駆の乗り心地は最悪だった。
市ノ瀬ナオキはその四駆――黄土色に塗られた古い型のランドクルーザーの後部座席で身体を縮こめている。中肉中背で体格に目立った点は無いが、日焼けした肌と「切る暇が無いから伸ばしている」といった風情の長髪が、男の印象をどことなく粗野なものにしていた。身にまとっているのは、車外の風景に似つかわしくない黒いコートだった。
ナオキは砂でうっすら汚れた窓から外を見やった。象牙色の殺風景な土地とちょっと間抜けなほど青い空が目に飛び込んできた。それ以外は何も無いと言ってもよかった。
アジアの西端――ヨーロッパとの境にあるこの土地では、紀元前から人の営みが続いている。人々はこの荒野を渡り、この荒野に住み、この荒野に信仰を見出した。ナオキはガラス越しに、その乾いた空気を感じた。この土地の上には膨大な歴史が折り重なっているはずなのだが、砂と岩の景色はむしろ、人類未到の惑星のようだった。
ナオキは窓の外から車内に目をやった。隣にいるのはサングラスを掛けた、荒野と同じ色の上下に身を包んだ屈強な男だった。小粋なトークが期待できそうな感じには見えない。男は自動小銃を抱いてむっつりと黙ったまま進行方向を見ている。空港から六時間ほど走っているが、その姿勢が崩れたことはなかった。棒で突いても「任務遂行中」としか言わなそうではある。
運転席でハンドルを握っているのも同じような屈強な男だった。後部座席の男との違いは、顎髭が生えていることぐらいだ。兄弟なのかもしれない。
「もうすぐですよぉ」
なんとも力の抜けた声で言ったのは助手席に座っている女だった。ナオキと同じ東洋人で、黒縁の眼鏡を掛けている。豊かな黒髪を長く伸ばしており、後部座席からはそれが一番目についた。この女が着ているのは、どこかの実験室から飛び出してきたかのような白衣だった。女が空港に出迎えに来たとき、ナオキは「なんで白衣なんだよ」と突っ込みを入れたが、逆に「あなたこそなんで黒いコートなんですか」と突っ込み返されただけだった。
結局のところ、二人ともおかしい格好をしているのだ。
四駆はいつしか道を外れ、荒地の真ん中を走っていた。高低差を乗り越え、石を跳ね飛ばす度にナオキはシートから数センチ浮き上がった。それでもスピードを緩めずに四駆は進む。方向はまったくぶれない。何の目印もないが、運転手を務める顎髭ゴリラは、確信を持ってハンドルを握っている様子だった。
白衣女が「もうすぐですよぉ」と言ってから小一時間は走り、このままだとケツが四つに割れるかもしれんとナオキが思ったときに、シートから伝わってくる振動の質が変化した。ナオキが訝しんで外を見ると、四駆は氷の上を走っていた。いや、違う。氷ではない。真っ白な大地を氷原と誤認しただけだった。
そこは、巨大な塩湖が干上がってできた盆地だった。
四駆が停車したのは、塩が固まって出来た白い大地の上に設けられた、野営地のような場所だった。走ってきた荒野に輪を掛けて生命の気配など感じられない場所だったが、そこに地面と同じ色の軍用テントがいくつも張られており、なんとなく砂漠のオアシスのような雰囲気を醸し出していた。テント群の周囲には、ナオキ達が乗ってきたような古い四駆や、もっと物騒な装甲車が何台も停まっている。
ナオキは車から降りて伸びをした。背中がバキバキと音を立ててほぐれていった。見上げると、雲一つ無い青空が広がっている。真っ白な大地との対比はまるで絵画のようだった。気温は思ったほど高くなく、湿気のない空気は快適さすら感じさせた。
隣に座っていた自動小銃を抱えていた男と運転手を務めていた顎髭の男は白衣女に敬礼すると、いそいそとテントに消えていった。運ぶ物は運んだ、ということだろう。ナオキには興味が無いようだった。
白衣女が塩の平原を見ながらしみじみと言う。
「遠かったですねぇ」
「もうすぐですよ、と言ってからが長いんだよ。ケツが四つに割れるかと思ったわ」
「ケツが四つ? 面白いこと言いますね。日本ではそういうの流行ってるんですか?」
ナオキも白衣女の隣に立って塩で出来た大地に目をやった。
美しいと言えば美しい光景ではあった。
ただそれは、死の世界が持つ美しさである。
ここには何の生命の循環も無い。吹き抜ける風と、時折降るであろう雨が、塩の大地を削り続けるだけの場所だった。そんな緩慢な変化だけがある世界。
ナオキはなんとなく深海を連想した。巨大なクジラの白骨が、ただただ粛然と佇む暗い海の底。ここはそんな場所なのかもしれない。
「――もっとも、深海は死の世界じゃなくて豊かな生命が育まれる場所だと分かってから随分経つけどな」
「そうですよ。ダイオウグソクムシとかいますし。で、何の話ですか。日本ではそういうの流行ってるんですか?」
白衣女が両手にチョキをして何かを挟むような動きを繰り返す。ダイオウグソクムシの真似をしているのかもしれないが、ナオキはダイオウグソクムシにハサミがあったのか思い出せなかった。
「お前は変わらないな、清水」
ナオキは白衣女の名前を改めて呼んだ。
「どうしたんですか急に」
「いや、なんか二十年ぶりぐらいに会ったような気がしてな。不思議なことに」
「私がここに配属されて長いですけど、一応二年ぐらい前に会ってますよ。本部であった会議で。というか、我々まだ二十代なのに二十年ぶりって。小学校以来の再会ですか」
「まあ、精神的なものだ。気にするな」
清水はそれでも訝しむようにナオキの横顔をちらっと見る。
ナオキと清水が同じ組織で働き始めてから十年以上になる。最初に配属されたのが同じ部署だった。ナオキは現場に赴くことを好むタイプで、清水は研究室で長い時間を過ごすタイプだったが、なんとなく気が合って、それぞれが別の部署に配属されても定期的に連絡を取り合う仲だった。
(――本当にただ、それだけだったらな)
とナオキは内心で独り言ちる。
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