八百屋のおかみの胸の内
@Chikoro
思いつき
八百屋に嫁いで二十年、仕事が終わりいつものように帳簿をつける。
築八十年の薄暗い十畳ほどの居間、ちょうど沈みかけた夕日のように、この時間になると私の気分もどこまでも落ちていくように感じていた。
「今月も赤字・・・・・・」
――もう何か月続いているんだろう。危機感を感じはするものの、すぐノートを閉じ、現実から目を背けるように習慣となっている報道番組を見始めた。
私が嫁いだのは田舎というほど田舎ではないが栄えてもいない、特に自慢できるところもないような町の商店街の八百屋だ。
嫁いだ当初から商店街に活気はなかったものの、常連のお客さんや取引先との関わりも多く忙しい日々を過ごしていた。
しかし、人は利便性を求めるものであり商店街を利用していたお客さんは近所の大型スーパーに鞍替えし、下ろしたシャッターで連なる長い通路は風の通り道となっていた。
私は嫁ぐ前から買い物はスーパー派だしこれは仕方ない。
「今回はふんだんにゆずが使われた大浴場に来ております、いや~疲れがふきとびますね」
冬の銭湯特集ということで、テレビには中年のリポーターが湯船からあふれんばかりのゆず風呂に浸かり利用客と談笑する様子が映し出されていた。
「こんなに賑わうことはなかったんだけどね、ほんと、ここまでしてくれて感謝ですよ」
年配の利用客がアップで映り、インタビューに答えている。目頭が熱くなっているのが伝わり、心の底から喜んでいるのがわかった。
「これなら・・・・・・」
私は溢れそうになった言葉を飲み込み、商店街の銭湯へと向かうことにした。
玄関の扉を開けようとした矢先、家の奥から聞くだけで心がずしっと重たくなる声が響く。
「出かけるなら酒買ってきてくれよ」
八百屋のお客さんが減るにつれ、夫は日が落ちる前から毎日酒を飲むようになった。酒癖は悪くはないが、今まで貯めてきた貯金を吐き出して酒を飲む夫に嫌悪感を抱かない人はいないだろう。
いつかは前のように戻ってくれると、普段なら愛想よく返事し酒を買って帰るのだが、今日の私にはその気はなかった。
私は何も言わず胸を張り玄関を出た。
薄暗い商店街のなか、銭湯までの道をゆっくりと歩く。地元よりも長く過ごしたこの場所を、嫁いだ日と今も変わらず私の心の奥底に根付く感情がある。
ーー私はこの商店街が嫌いだ。
日は落ち、商店街の古びた街灯がぼんやり照らす銭湯の前。時代を感じる屋敷のような外観は商店街のシンボルであり、屋上からは夜でもわかるほど錆びついた煙突が高々とそびえ立っている。
「久ぶりですね八百屋のおかみさん、いい湯が入ってますよ!」
ほうきで掃除をする銭湯の亭主はえらくご機嫌で私に問いかける。
20年前から知るその底なしの明るい性格は、街灯や年々拡大している額よりも輝いている。銭湯も流行ってないだろうになぜそんなに陽気でいられるのか。
「お風呂は結構です、少し相談事がありましてお邪魔させていただきました、それにしても何かいいことありましたか?」
「さっきテレビで銭湯の特集をやってたんで、それを見たお客さんが飛んでくるだろうと掃除をしていたんだ、八百屋のおかみさんが一番目だよ!」
「だから入らないですよ、テレビを見てきたのは本当ですけど」
興奮する銭湯の亭主には嫌気が差すが、話を進めるために気合を入れることにした。
「この銭湯でも同じように特別なことをやれないかと思うんです!このままじゃ商店街もなくなりそうですし」
私は前のめりになり、できる限り目を輝かせ訴えた。
「八百屋のおかみさんがそこまで言ってくれるのは嬉しいね!あーそれで柚子風呂かい?」
腕を組み満面の笑みで答える銭湯の亭主。さらに興奮してきたようで、血圧が上がり過ぎていないか心配だが耐えてくれよ。
「そうなんです、でも色々考えてることもあって私に任せてくれませんか、この銭湯で商店街を変えれると思うんです!」
無理に声を荒らげダメ押しの熱意を伝える。
「わかったよ、もうやっちまうか、うちはいつでも大歓迎よ」
「ありがとうございます、その気持ちはやまやまなのですが、商店街のみんなと協力するのも必要だと思うんです」
乗り気になった銭湯の亭主を見て、心の中に引っかかるものを感じたが、今の私には気にする余裕はなかった。
「商店街のためってことだもんな、それなら明日の組合会で話しをしてみよう」
「ありがとうございます、よろしくお願いします」
銭湯の亭主に別れを告げ昼も夜もさほど変わらない静けさの商店街を歩く。
一番肝心な銭湯の亭主が協力してくれるのだ。私は緩んだ頬を軽く手で抑え、嫁いで初めて明日が待ち遠しいと感じていた。
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