第9話 十夜の考えと伊織の悪夢
「失礼いたします」
スッと部屋の襖が開いて、サキが入ってきた。
「伊織さま、おはようございます――って、あらまあ! 若さまったら、伊織さまのお部屋でごいっしょに眠られたんですか? ご自分のお部屋ではなく? 一夜をともに?」
「……ちがう。うるさいぞ」
「違いませんでしょう! ではどうしてこちらに?」
「……サキ」
「こちらでお眠りになったんでしょう? 伊織さまのお布団で!」
「そうだが、そうじゃない!」
「まあ! やはり当主様にご報告を……!」
「やめろ!!」
「…………」
ふたりのやりとりを、伊織は目をぱちくりとさせて見ていた。
使用人と軽口を言う十夜は微笑ましく、伊織の心を和ませた。
「とにかく。お祖父さまには言うな」
十夜は、立ち上がると、伊織に向かって言った。
「……俺はこれから会社へ行くが、お前さえよければ、俺の屋敷でこのまま何日か休んでいってくれ」
「えっ? よ、よろしいのですか……?」
思わぬことを言われて、伊織は聞き返した。
一晩だけの保護だと思っていたので、少し驚いた。
……今日には羊垣内の家に帰るものだと思っていたのだ。
「えっと……。い、いえ、やっぱりそんなわけには……」
「なにか用事があるのか? なら家へ送っていこう」
「い、いえ、そういう、わけでも……。…………」
家に、帰りたいわけでも、ない。
しかし、ここへずっといるわけにも……。
そんなことを考えていると、十夜は続けて言った。
「使用人には話をつけておく。体が回復するまでいてくれていい」
「そ、そんな……! そんな、わたしにばかり、都合のいいことは……!」
「ははっ」
十夜は笑った。
「俺の屋敷にいるのは都合が良いのか? ではなおさら良い。ではな」
「あのっ、十夜さま……っ」
十夜は、ひらりと手を振ると部屋から出た。
その後をサキが「伊織さま、またすぐ戻ってまいりますからね」と言って続く。
「あ……」
行って、しまった。
(ここは……わたしの家とは大違い……)
綺麗で広い部屋、新しい着物、そしてなにより――優しい人たち。
伊織は、部屋にとどまった。
(ここは、温かくて。でも、ずっとはいられないだろうから。今だけは……十夜さま達と、いっしょにいさせて、ください……)
***
十夜とサキが、廊下を歩く。
「若さま。伊織さまのお怪我は……」
「ああ。羊垣内を少し調べさせてこい」
「はい。かしこまりました。……おかわいそうですねぇ」
「なにか、あるのだろう」
おどおどした態度、涙を流しながら眠っていたこと、体中にあるという古傷、そして――湖でのこと。
「……彼女が家に帰りたくないだろうことは分かった。しばらく俺の屋敷で保護する。客人として丁寧にもてなせ」
「かしこまりました。……ですが、客人扱いでよろしいのですか?」
「他になにがある」
十夜は自室へ入ると、仕事の資料に目を通す。
サキは入り口に控えたまま言った。
「なんだか、若さまの体調がよろしいようで、サキは嬉しゅうございます。……ところで、伊織さまとは一体どこでお会いになったんですか? 昨日は若さまがお部屋にお戻りにならなかったものですから、聞けずじまいでした」
「……見回りで、拾った」
「それはそうでしょうけれど。さっそくごいっしょに一晩お過ごしになるなんて、私どもも『リスト』をご用意した甲斐がありましたねぇ!」
そう言ってサキは嬉しそうに笑った。
「…………はぁ」
十夜は、ため息をつく。
――『リスト』。九頭竜家が用意した、十夜のためのお見合い候補リスト。十二支の家の未婚の令嬢が載っているものだ。
(……あれがあるから、俺は彼女が選択肢にあると思ってしまう。――あのリストは、九頭竜が用意した一方的なリストだ)
サキの声は弾んでいる。
「屋敷に置かれるということは、つまりはそういうことなんでしょう? ああ! ようやく若さまが女性に興味を持ってくださった! これでついに、ご当主になりますね!」
「いや、違う」
「え? なにがです? ”九頭竜家の次期当主は結婚すると当主を引き継ぐ”じゃあありませんか!」
「……それは、そうだが」
九頭竜家は、結婚することで一人前とされる。次期当主である十夜は、結婚すると当主を引き継ぐことになっていた。
皆、十夜の結婚には興味を持っていた。
しかし、十夜自身がなかなか結婚への興味を持てないでいたのだ。――今までは。
「ついに若さまが当主の代です!」
「……いや、違う。違うんだ、彼女は」
「はい?」
目を丸くするサキに、十夜は言った。
「あくまで、客人として……療養してもらう。それだけだ」
「若さま? それはどうしてですか?」
(これは、俺の都合であって……彼女の都合ではない。だが……)
眠る伊織を思い出す。
その寝顔を見たときに、胸がざわめいた――。
十夜は、頭を振った。
「……とにかく。彼女は客人として、丁重に扱え」
そうして十夜は、屋敷を出発した。
***
十夜が出勤してしまうと、伊織は再び布団に入った。
(…………こんなに体を休められるのは、いつぶりだろう……)
十夜ほどではないが、伊織も――折檻部屋のせいで――連日睡眠不足であった。
それに、客人として、客間からあまり出ないほうがいいだろう。
そんなことを考えているうちに、いつしか眠りに落ちていった。
(……これは、夢だ……)
いつの間にか、伊織は羊垣内家の庭に立っていた。
十八歳の伊織の周りを、小さな子どもの伊織が「きゃっきゃっ」と駆け回る。
気がつくとその駆ける姿はいなくなり、かと思うと自分の背が縮んでいる。
「…………」
伊織は、十歳ぐらいの姿になった。
「何をしている」
「あ……お父さま」
顔を上げると、父がいた。
伊織の口が、勝手に開く。
「お父さま、あの、羊の力が使えるようになりました」
「……見せてみろ」
「はい」
いつの間にか手のひらには、温かなイタチが乗っている。
小さな十歳の伊織は、その――眠っているイタチを差し出した。
縁側に立ったままの父と、庭に出たままの伊織。
つまりはイタチから父までは遠く、近付いてきてはくれなかった。
「……それはなんだ」
「眠らせたイタチです……」
「なに? 眠らせた、だと……」
父は眉をひそめる。
それから、
「嘘を吐くんじゃない。死体を拾ってきたのだろう?」
「ち、違います……!」
「ぐったりしているじゃないか」
「眠っています。本当です……!」
手のひらのイタチは、いつの間にか消えている。
「あ、あれ……っ?」
「ふん。では、」
父は庭をざっと眺めると、
「あそこにいるカラスを眠らせてみろ」
「え、……あ、はい……!」
背後を指さされ、伊織は慌てて振り向くと、塀にカラスがいるのが見えた。急いで腕を伸ばし、カラスへ手のひらを向けるが――上手くいかなかった。
「カア、カア」
カラスは元気に鳴きながら、塀の上に居座っている。
父はその様子を、腕組みをしながら眺めていた。
「…………」
「あの、お父さま……。そんな急には……できませんでした。申し訳ありません……」
「急にできんものが戦場で役に立つわけがないだろう」
「そ、それは……」
伊織に背を向けて、父は去って行く。
「お父さま……!」
はっ……と目を覚まし、伊織は起き上がった。
「夢……だ、よね」
妙な夢だった。まるで、家に帰って能力に目覚めた話をしても、歓迎されないみたいに。
実際の十歳の頃に、こんな出来事はない。能力は先ほど発現したのだから当然だ。
それでも、朝に芽生えた少しの希望の芽が萎れるには、充分だった。
思わず、布団を握りしめる。
「わたしは……役に立たないのね……」
伊織は小さく呟いた。
***
会社に向かう車の中で、運転席のモニターに通知が届く。
運転手の男はそれをちらりと確認すると、前を向いたまま十夜に報告した。
「若さま。連絡が。
「……他の家に任せられないのか?」
「『九頭竜だと早く終わる』とのことです」
「……はぁ。行くぞ。会社には連絡しておいてくれ」
「はい。かしこまりました」
次の信号で、車は進行方向を大きく変えた。
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