第4話 昏い湖のほとりで、光る




(どうして……)


 あの後――居間を出た伊織はタオルで顔を拭き、――しかし拭いても拭いても顔が濡れるものだから、耐えきれずに家を飛び出した。

 外出許可は尋ねない。

 伊織は裏山に背を向けて、街の方へと駆けていった。

 羊垣内家は街のはずれの高いところ――山の入り口に大きな敷地を構えている。

 

「…………」


 本当は、このあと裏山で水を汲みたかった。井戸水より綺麗な水を手に入れて、それで呪符を早く書けるようにしようと思った。


 けれど。


(無意味……なんだ)



(梨々子が結婚したら、わたしは家を追い出されてしまう。……そうなると、わたしはどうなるんだろう……)

 

 伊織は走りながら考えた。


 能力が低いわたしは、他の十二支の家からも求められないだろう。庶民と結婚させられるのか、あるいは――文字通り家から追い出して、そのまま、か――……。

 

「……っ」


 ……ありえそうで、嫌になった。

 伊織は目をつぶった。

 

(どうしてわたしばっかり……)


 妹は、望まれた姿で生まれてきた。父に似た髪色、継母に似た顔立ち。父と同じ能力を持ち、――父より強い能力になると言われている。華やかな容姿で、縁談も上手くいっている。


(一方わたしは……)


 死んだ母に似た容姿。それが一層、継母の不興を買う。父と同じ能力をもつこともできず、家も継ぐことはできない。



 最初は、妹と同じように訓練を受けていた。しかし、伊織の呪符は光らなくて――父と、同じ能力は授かっていないと分かるや、見限られて――そのままだ。


(家族が並んでいるのを見て、――わたし抜きで、三人だけで家族として完成されてて……――わたしは、この家にいらないんだって、……ようやく気づいたの……。……でも、気付きたくなんかなかった……)




 ――考えがまとまらずぐるぐるしていると、


「きゃ……っ」


 ずっ。と膝が地面にこすれて、

 伊織は膝から転んだことに気がついた。


「あ……」


 履いていた下駄の鼻緒がちぎれたのだ。それは草藪に転がっていった。


「……もう片方は……? どこ……?」


 探しても見つけられない。

 伊織は、鼻緒のちぎれた片方の下駄だけを持って、足袋で歩き出した。





 街を目指していたはずなのに、いつしか闇雲に走っていたようだ。


(ここ、どうだろう……)


 どうも見知らぬ土地に立っていて、伊織は道に迷ってしまったようだった。


 なんだか無性に泣きたくなって、


(道で誰かに見られるのは、恥ずかしい……)


 伊織は木立に入る。木の陰にうずくまって、体を震わせた。


 そうして気が付けば、――夜になっていた。


「あ……」


 辺りが暗くなったことに気付いた伊織は、慌てて立ち上がった。


(さすがに、帰らないと……。……)


 勝手に家を飛び出して、なにをされるか分からないが――しかし、それでも、伊織には他の選択肢が思い浮かばなかった。


(……こんなにされても。結局は、家に帰っちゃうのが、嫌だな……)


 伊織は拳を握ったが、すぐに力なくぶらりとさせた。

 道のすぐそばの木立に入ったはずだ。少し歩いてみれば、道に出るだろう。

 伊織は歩いてみることにする。


「暗くて、何も見えない…………」


 夜の森は暗く、ここは森の中で、木々しかない。

 何の虫だか分からない虫の声が合唱している。

 歩く度に枝などが足袋を貫通し、


「痛っ……」


 伊織は顔をしかめながら進んでいった。





 しばらく歩いてみても、道には出なかった。


(……迷っちゃったみたい……)


 森の道に慣れていないこともあり、伊織は擦り傷を増やしながら歩いていた。


 しかし、


(……もう、いっそ。このままでいいのかも……)


 森を抜けると、違う街に出られるような気がして。――実際は頭京内のままのはずだが――伊織はそのまま森を歩いていった。

 しばらく歩いていくと、ふと木々がはっきりとわかる方角があり、


「あっち、なんだか明るい……」


 伊織はそちらに向けて歩き出した。






「わぁ……」


 やがて、森は開け――湖に出た。背の高い木々に囲まれた、まあるい湖。その水面は、夜なので黒く光っている。

 こんな夜にお月様は満月で、煌々と明るく輝きながら、湖にその姿を映している。


「綺麗……」


 伊織は、湖の縁に近付いた。

 さきほどまであんなに鳴いていたはずの虫の声は聞こえない。妙にシンとした静けさの中で、伊織は立っていた。





 ふと見ると少し先――湖の傍には、なにやら立て看板があり、近付いてみる。


「……『水深深し。立ち入るべからず』………………」

 伊織は、看板の文字を読み上げながら、つぅ――と指でなぞった。

「…………」

 なんだか、魅力的な呪文のようだった。

 伊織は、昏く光る湖をもう一度見る。

 幻想的だった。




 母はいない。父は自分に厳しく、無関心。継母にはいじめられ、腹違いの妹には馬鹿にされて、使用人のように働かせられて……。


(こんな綺麗な場所で、――死ねたなら)


 伊織はゆっくりと湖の中に足を踏み入れた。




 ちゃぷん、と足を水に入れる。

 服は着たままだ。脱ぐと、なんだか寒いような気がしたのだ。これから水に入ろうというのに、おかしな話だ。足袋の中に水がじゅわりと染みこんだ。三月の夜の水は冷たく、足がじんじんと痛む。


 ちゃぷん、もう一歩、進む。

 夜風がビュウと吹いて、伊織の長い髪を揺らした。


「…………」



 人生は、なるようにしかならない。

 伊織は常々そう思って生きてきた。

 自分の力でどうにか出来ることは少なすぎて、手の届く範囲はあまりにも狭い。反論や反抗をしたところで、敵わないし、叶わない。

 決定事項の事柄を、今さら自分がなにか動いたからといって、どう変わるでもない。いつもそうだった。

 台風がすぎさるのを待つ雑草のように、日々を過ごしていくしかなくて。

 でも、それさえ、もう耐えられないのなら。



(そう、だから、もうどうにもならない……。家に帰ったところで、またわたしは……どうせ、……。…………)



 だから、これで、いい。


 ざぶりざぶりと、伊織は足を進める。

 この先の水深は看板の通り、深そうだ。

 伊織は下半身まで水に浸かった。





 その時だった。


「何をしている!」


「……っ!?」


 背後から声をかけられて、伊織の心臓はドキリと跳ねた。こわごわと、後ろを振り返る。


 湖を囲む木々の間――岩肌の崖のようになっている箇所が一部あり、その上に人がひとり、立っていた。


(男の……人……?)


 夜空に輝く満月のもとに立つ人の姿は、――なんだか神々しく見えた。

 月明かりを背にしたその姿は、


「今助けに行く!」


 と叫ぶと、俊敏な足取りで岩肌を降りる。

 そしてそのまま躊躇もなく湖の中へザブザブと入ってきた。勢いよく、水しぶきがあがる。


 それは、端整な顔立ちの青年だった。歳は二十代前半、艶やかな黒髪は夜の中でも美しく、青い瞳は宝石のようだ。


「…………っ」


 伊織はびくりとして、一歩後ずさる。

 真剣なまなざしとともに水に入った青年の姿は美しく、月明かりに照らされた白い肌、すっと通った鼻筋、キリとした眉、顔に散った水しぶき、そのすべてが鮮烈で、そのすべてから伊織は目が離せなかった。



 そのまま彼がどんどんどんどん伊織に近付いてきて、そうしてついには伊織の体を抱き上げたものだから――体が持ち上がってはじめて伊織は我に返り、目を丸くした。


「ひゃ……っ」

「大丈夫か?」

「…………っ」


 青年の顔が近く――その顔があまりにかっこよかったものだから、伊織ぽうっとすることしかできない。

 がっしりとした腕に、温かな体温を感じる。彼の手に触れられている肩は、妙に熱い。



「……とにかく、岸へ」


 青年は伊織を抱き上げたまま、岸へと戻った。






 湖は、また元の水のさざめきを取り戻していた。虫の声も再び聞こえる。


「こんな夜に、なぜ湖なんかに入っていたんだ」

「え……あ……」


 地面に下ろされた伊織は、そう聞かれて返答に詰まる。


「………………えっと……。……わ、わたし……。…………」


 湖の魔力はもう、ない。自らの意志で入水したことを思い出し、伊織は体をぶるりと震わせた。


(わたし、自分で……死ぬことを考えちゃったんだ……。……今湖を見ると、もう、怖い……)



 湖は昏い水をたたえたまま、たゆたっている。

 ここで彼に話をすることはすなわち、羊垣内の評判に影響するかもしれない……。

「えっと…………」


 伊織は言葉に詰まり、もごもごとなにかを言いかけてはやめた。




 ……こんなに返事が遅ければ、もう彼は自分を見限って置いていってしまうだろう――皆のように。伊織はそう思ったが、しかし彼は伊織を見たままずっと黙って、次の言葉を待っていた。


(…………)


 伊織はちらりと彼の顔を仰ぎ見た。

 青年は、伊織の言葉を待っていた。


(もし、全部話してしまえたら……)



「わたし……その……」


 しかし、伊織はぐっと言葉を飲み込んだ。


(ううん。初対面の方に、なにを言おうとして……。わたしが、羊垣内の人間とは言わないようにしなきゃ――)


 仮にも、羊垣内は十二支の家の一員で、国内での地位がある。

 自分が話してしまうことで、羊垣内の評判が落ちるかもしれない。

 ……自分の言葉によって、世間が動いてしまうことはなんだか怖い。


 だから、 

「…………あの、わたしは……その……み、水浴びしてて……」

「…………」

 伊織の明らかな嘘に、青年は眉をひそめた。


(あ、あ――。や、やっぱり、無理が、あった……)


 いたたまれなくなって、伊織はうつむいた。



 しかし、次に彼からでた言葉は、意外なものだった。


「羊垣内が、お前をそうさせているのか?」

「……へっ……?」


 彼の顔を――見る。

 彼のまなざしは真剣な色をしていて、伊織の心はドキリと跳ねた。


(今――なんて……?)


「俺はりゆうとお。さあ、立て。行くぞ」


(……え?)


「く……くずりゅう……」

「そうだ」

「あ、あなたが……」


 青年は――九頭竜家次期当主・九頭竜十夜は伊織の手を引き、歩き出した。


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