第4話 昏い湖のほとりで、光る


 もう、なにもわからなくなって。伊織は、家を飛び出していた。

 昼間なのに、天気はどんよりと暗い。

 羊垣内家は、街のはずれの高いところ――、 山の麓に広い敷地を持っている。街へ歩きで向かったことはないが、おおよその方角はわかるはずだ。


(とにかく、家から遠いところへ――……)


 気付けば、伊織は走って いた。

 あの後、――梨々子にお茶をかけられた後、伊織はふらふらと立ち上がって居間を出た。顔にかかったお茶を、タオルで拭こうと思ったのだ。けれど、もう何度も拭いたのに、 ――それでも顔が濡れるものだから、そこでやっと自分が泣いていることに気がついた。


「今までしてきたこと……全部、無意味……なんだ……」


 なにもかも、空虚だ。家のためにしてきた様々なことが、思い出される。

 先ほどの妹の宣誓が、耳の中でぐわんぐわんと反芻される。

 能力が低いわたしは、他の十二支の家からも求められないだろう。庶民と結婚させられるのか、あるいは――文字通り家から追い出して、そのまま、か――。


「わたしは、必要ないんだ……。どうして、わたしばっかり……。う、うぅ……っ」


 そうして、伊織は家を飛び出した。

 雨はまだ降っていないはずなのに、袖で拭っても拭っても、伊織の顔は濡れてしまうのだった。



 泣きながら走って、頭の中もぐちゃぐちゃなものだから――伊織がふと気が付いた時には、辺りは暗く日は落ちて、見知らぬ土地にひとり立っていた。

 どうやら、……道に迷ってしまったようだった。山に囲まれた田舎道だ。前方には森があって、街を目指していたはずなのに、家の明かりのひとつも見えない。


(ここ、どこだろう……)


 きょろきょろしながら歩いていると、


「きゃ……っ」


 ずっ、と膝が地面にこすれて、伊織は膝から転んだことに気がついた。鈍い痛みに、思わず顔をしかめる。着物ごと膝を擦り剥いたのだ。

 ゆっくり、立ち上がる。と、ふらついた。


「あ……」


 片方の草履の鼻緒が切れ、ぷらんと ぶら下がっていたのだ。――もう片方は、履いていない。その場を探すも、見つけられなかった。――弾みで、森の草むらにでも転がっていったのだろうか……。

 鼻緒のちぎれた草履を手に持って、伊織は足袋 姿で歩き出した。


 地面を手探りで探してみたが、夜の森は暗く、草履は見つからなかった。


「……もう、出よう……」


 道のすぐそばの木立に入ったはずだ。少し歩いてみれば、道に出るだろう。

 伊織は歩いてみることにする。森の道に慣れていないこともあり、歩く度に枝などが足袋を貫通し、そのたびに「痛っ……」と、伊織は顔をしかめながら進んでいった。

 森の中は蒸し暑く、汗で髪が喉に張り付いた。何の虫だかわからない虫が合唱しており、羽音が近付く度に、伊織はビクッとして小さくなった。


 しばらく擦り傷を増やしてみても、道には出なかった。本当に、森の中で迷ってしまったようだった。


 しかし、ここから出たところで、どうだというのだ。

 家に戻る? ……居場所のない家に……?


(……もう、いっそのこと、このままでもいいのかも……)


 森を抜けると、違う街に出られるような気がして。伊織はそのまま、森の奥へと進んでいった。


 しばらく歩いた頃だった。


「……? あっち、なんだか明るい……」


 前方の木々の隙間から、うっすらと光が差し込んでいるように見えた。

 伊織は、そちらに向けて歩き出した。




「わぁ……」


 やがて、森は開け――、 湖に出た。

 背の高い木々に囲まれた、まあるい湖の水面が、昏(くら)い夜の色で揺れている。

 湖の周囲は、木々が茂る場所と、地面より高い岩肌の崖で囲まれている。

 崖の真上の空には、月が昇っていた。こんな夜にお月さまは満月で、煌々と明るく輝きながら、湖にもその姿を映している。夜の水面に月の光が反射して、またたくようにチカチカと揺れた。


「綺麗……」


 あんなに鳴いていたはずの虫の声は、今は不思議と聞こえない。妙にシンとした静けさの中で、伊織は、湖の縁に近付いた。すると、立て看板があることに気がつき、近付いてみる。


 伊織は、看板の文字を読み上げながら、つぅ――と指でなぞった。


「……『水深深し。立ち入るべからず』………… 」


 なんだか、魅力的な呪文のようだった。

 伊織は、昏く光る湖をもう一度見る。

 幻想的だった。



 母はいない。父は自分に厳しく、無関心。継母にはいじめられ、腹違いの妹には馬鹿にされて、使用人のように働かされる……。


(こんな綺麗な場所で、――死ねたなら)


 伊織はゆっくりと、湖の中に足を踏み入れた。



 妹は、望まれた姿で生まれてきた。父と同じ能力を持ち、継母に似た容姿で縁談も上手くいっている。父と継母どちらにも似た、まさにふたりの子であった。


(なのに、 わたしは……)


 死んだ母に似た容姿。父と同じ能力をもつこともできず、家も継ぐことはできない……。

 最初は、妹と同じように能力の訓練を受けていた。

 しかし、伊織の呪符は光らなくて――能力は顕現せず、父に見限られた。


(家族が――わたし抜きで、三人だけで家族として完成されていて……。わたしは、あの家に本当にいらないんだって、……ようやく気づいたの……。……ううん。本当は、ずっとわかっていた。でも、気付きたくなんてなかった……)


 ちゃぷん、ちゃぷん。

 一歩足を進めるごとに、水音がする。でも、それはまるで、どこか遠い場所から聞こえるみたいだった。夜の水は冷たく、足袋の中に遠慮なく染みこんだ。

 痺れそうな足で川底の石を踏むと、じんじんと痛んだ。

 ――伊織は、服は着たままだった。脱ぐと、なんだか寒いような気がしたのだ。

 ……おかしな話だ。濡れた着物が体に張り付いて、余計に寒かった。


(でも、そんなことはもう、どうでもいいの)


 ちゃぷん、もう一歩、進む。

 夜風がビュウと吹いて、伊織の長い髪を揺らした。


「…………」


 今まで、わたしのやってきたことって、きっとどうでもよかったんだ。

 わたしって、なんだったんだろう……。

 ずっと、考えないようにしていた。

 台風がすぎさるのを待つ雑草のように、日々を過ごしていくしかなくて。

 でも、それさえ、もう耐えられないのなら。


(そう、だから……これで、いい……)


 ぼんやりした瞳で、伊織は歩を進める。

 頬が濡れるけれど――涙なのか、水しぶきなのか、もう、わからない。

 水深が深くなってきて、足を進める水音は、ざぶりざぶりと波を打った。

 そして伊織は、腰まで水に浸かった。


 ――その時だった。


「何をしている!」

「……っ!?」


 突然、青年の声がして――伊織の心臓はドキリと跳ねた。

 急に、まるで夢から覚めたみたいに視界がはっきりと戻ってきて、ぱちぱちとまばたきを繰り返す。

 伊織はこわごわと、後ろを振り返った。

 夜空に輝く満月の下。湖を囲む崖の上に、人がひとり、立っていた。月明かりを背にしたその姿は、逆光で顔がよく見えなかったが――それが却(かえ)って神々しく見えた。


「今、助けに行く!」


 青年はそう叫ぶと、俊敏な足取りで岩肌に降り立つ。そしてそのまま躊躇もなく、湖の中へザブザブと入ってきた。勢いよく、水しぶきがあがる。

 それは、端整な顔立ちの青年だった。歳は、二十代前半だろうか。艶やかな黒髪は夜の中でも美しく、真剣なまなざしをたたえた青い瞳は宝石のようだ。すっと通った鼻筋と、キリリとした眉をしている。月明かりに照らされた彼のそのすべてが鮮烈で、そのすべてから伊織は目が離せなかった。


「…………っ」


 伊織は、一歩後ずさる。


 青年はどんどん伊織に近付いてきて、そうしてついには、


「大丈夫か?」

「……っ!」


 伊織の体を、水の中から抱き上げた。


 彼の腕から、温かな体温が伝わる。胸に抱き寄せられ、伊織は青年の顔を見上げた。青年の顔が近く――その顔があまりにかっこよかったものだから、伊織の顔は紅潮することしかできない。


「……とにかく、岸へ」

 青年は伊織を抱き上げたまま、岸へと戻った。



 湖は、また元の水のさざめきを取り戻していた。

 虫の声も再び聞こえるようになり、穏やかな夜の湖畔に戻っている。

 伊織を地面に下ろすと、青年は隣に屈んだまま、言った。


「こんな夜に、なぜ湖なんかに入っていたんだ」

「え……あ……」


 そう聞かれて、伊織は返答に詰まる。座ったまま、足をさすり、彼から目線を逸らした。


「……えっと……。……わ、わたし……。……」


 湖の魔力はもう、ない。

 自らの意志で入水 したことを思い出し、伊織はぶるりと体を震わせた。

 湖は昏い水をたたえたまま、たゆたっている。あんなに幻想的に見えたのに、今、湖を見ると、その黒さに飲み込まれてしまいそうだった。

 伊織は、そっと青年の顔を見た。彼の美しい髪から、ぽたぽたと水滴が落ちる。これまで見たどんな宝石よりも美しい瞳は、まっすぐに伊織を見ている。

 その気恥ずかしさに耐えられず、伊織はすぐにまた目を逸らしてしまった。


「えっと……」


 伊織は言葉に詰まり、口を開きかけてはやめた。


「…………。…………。…………」


 ……こんなに返事が遅ければ、もう彼は自分を見限って置いていってしまうだろう――皆のように。

 伊織はそう思ったが、しかし彼は伊織を見たままずっと黙って、次の言葉を待っているようだった。


「えっと、……」

「うん」


 想像より優しい声で相づちをうたれて、驚く。


(……。この人に、もし、全部話してしまえたなら……)


「わたし……その……。……っ」


 しかし、伊織はぐっと言葉を飲み込んだ。


(……ううん。初対面の方に、なにを言おうとして……。わたしが、羊垣内の人間とは言わないようにしなきゃ――)


 彼は近隣の住民かもしれない。ここで彼に身の上話をすることはすなわち、羊垣内家の評判に影響するかもしれないのだ。仮にも、羊垣内家は十二支の家の一員で、国内での地位がある。自分がなにかを話してしまうことで、もし世間が動いてしまうことがあったなら――そう思うと、どうしようもなく怖かった。


 だから、


「……あの、わたしは……その……み、水浴びしてて……」

「…………」


 伊織の明らかな嘘に、青年は眉をひそめた。


(あ、あ――。や、やっぱり、無理が、あった……)


 いたたまれなくなって、伊織はうつむいた。

 しかし、次に彼からでた言葉は、意外なものだった。


「羊垣内家が、お前をそうさせているのか?」

「……えっ……?」


 彼の顔を――見る。

 彼のまなざしは真剣な色をしていて、伊織の心はドキリと跳ねた。


(今――なんて……?)


 青年は立ち上がると、言った。


「俺はりゆうとお。――立てるか? 俺の屋敷へ行こう」


(……え?)


「く……くずりゅう……」

「そうだ」

「あ、あなたが……」


 伊織は呆然として、彼を見上げた。


 青年は――、十二支序列第一位の九頭竜家次期当主・九頭竜十夜は伊織を抱き上げ、歩き出した。



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これ以降の展開が、書籍用に加筆修正しており、展開に差があります。


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