恋聲の蝶
国樹田 樹
第1話 声の出会い
「もしもし」
頭につけたヘッドセットマイクという、オペレーターが使う専用の電話機から、お客様の声が聞こえる。
低く、落ち着いた心地の良い声。男性のお客様なんて珍しいなと思いながら、良い声を持つ人だな、と思った。
「お電話、ありがとうございます。アリア化粧品、ご注文受付センターの
パソコンを前に、頭にはヘッドセットマイクをつけたオベレーターが何十人と並ぶオフィスで、私は今日も見えないお客様に向かって笑顔で対応する。
ここは私の勤めるアリア化粧品のコールセンターだ。主に取り扱い化粧品の電話注文を請け負っている。
私の仕事は、お客様からの注文を受付け、その内容をパソコンに打ち込み受注データを送信すること。
一日に何十ものお客様と話をする、繰り返しだけど大好きな声のお仕事。
専門学校を卒業して、二十歳でこの会社に就職してから早7年。
もう立派な古参のオペレーター社員となった。
「あ……えーと、注文お願いします。」
慣れていないのだろう声の主は、少々ぎこちない雰囲気だった。
化粧品の受付をするセンターなので、男性からの電話は珍しい。
ほとんどが女性からの入電で、たまにあるのは奥さんなどに依頼されてかけてくるパターンだ。
「ご注文、ありがとうございます。それでは、ご登録のお電話番号をお願いいたします」
私は見えない相手に向かって、にっこりと笑顔を作りながら、続きを促した。
実際、私の目の前にあるのはパソコンの画面で、お客様の顔ではないけれど、この仕事が好きな私としては、電話越しでも相手には笑顔が伝わると思っている。
「あ、はい。……登録の電話番号は〇〇〇で、名前は
声の調子が、なんだか困っているみたい。
頼まれたはいいけど、勝手がわからないから戸惑ってる……みたいな感じかな。
声は優しく落ち着いていて、それでいてとても丁寧な口調。
まれに、男性からの電話を受けると、横柄な態度をとられたりすることもあるけれど、このお客様は他人への礼儀をわきまえた人みたいだ。
最初の声の印象通り、良い人なんだろう。
「高村様でいらっしゃいますね。少々お待ちください」
そう返しつつ、言われた電話番号をパソコンの検索画面に入力する。
するとお客様の登録画面がぱっと表示された。
―――あら?
表示されたお客様情報を見た私は、あることに気がついた。
「高村様、申し訳ありません。ご登録いただいているお電話番号でお調べしたところ、ご登録のお名前に少々違いがあるようですが……。奥様のお名前でご登録ではございませんか?」
そう。パソコンの画面に表示されたのは「
「あっ。すまない。高村浩二は私の名前です。母から注文するように頼まれてしまって……母の名前で登録していると思いますので、高村遼子になっていませんか?」
なんだ、奥さんや付き合っている人に頼まれたんじゃなかったんだ。
そう思って、少しほっとしてしまった。顔も知らない男性に相手がいるかどうかなんて、考えたって仕方が無いのだけど。
「はい。高村遼子様でご登録いただいております。いつもご注文ありがとうございます」
私は登録を確認し、軽く礼を取りながら感謝を述べた。
お客様情報の画面を見ると、この高村様のお母様はアリア化粧品創業当初からご利用を頂いている所謂『ロイヤル顧客』というお客様だった。
あら……でもおかしいわね。
ロイヤルのお客様は、専用窓口の電話番号があるんだけど。
今日は忙しい日なので、一般のお客様回線の方はパンクしそうなくらい電話が鳴っていて、多くの人が保留中になってしまうくらいだった。
たぶんこの高村様も、待たされた筈。
このコールセンターには、一般回線とロイヤル回線がある。
ロイヤルとは、アリア化粧品創業当時からのお客様を総じた呼称で、昔からのお付き合いのお客様を大事にしたい、という社長の要望で創られたものだ。
ロイヤル回線は、一般回線に比べて、その利用数に対して多めにオペレーターが割り振られている。なので電話が集中する時でも待たずに注文することができる。
普段なら古参オペレータの私は、ロイヤル顧客の対応に当たっているが、今日は一般回線に電話が集中する日で忙しいため、こちらへと駆り出されていた。
さっき、母から頼まれたと彼は言っていた。恐らく知らずに一般回線にかけてきたのだろう。
今指摘するのは、嫌味になってしまうかもしれない。かと言って、伝えないのは不親切だろう。
私はそう思い、ロイヤル専用窓口のことは電話の最後に伝えることにした。
とりあえず今は、注文を全部受けてしまおう。
「それでは、ご注文の商品をお願いいたします」
そう言って、私は高村様に注文を促した。
「――以上でよろしいでしょうか?それでは、二十日の午前中に商品をお届けいたします」
注文内容を復唱し、彼に確認を取る。
「はい。ありがとう」
彼は最後まで丁寧な口調で、オペレーターの私にお礼も言ってくれた。
そうだ、ロイヤル専用窓口のことを伝えないと。
「ご注文ありがとうございました。あの、高村様、もしよろしければ、次回はロイヤルのお客様専用窓口の方へお電話いただきますと、お待たせせずにご注文いただけますので……」
私がそう言うと、電話口で彼がふっと笑ったようながした。
「いや、いいんだ。長く買っていようが、高いものを買っていようが、他のお客さんと変わらないからね。でも、教えてくれてありがとう」
彼は柔らかく、また私にお礼を言ってくれた。
知っていたんだ……それじゃあ、私はただのおせっかいをしてしまったことになる。
それに、ロイヤル専用窓口については、昔から異論も唱えられていた。
お客様に区別をつけているようでおかしいと。昔からの顧客を大事にするのは良いが、差別意識があるように見えると、社内でも廃止してはどうかとの声もあるのだ。
ロイヤル専用窓口については、表向きはオープンにはされていないが、友人等からその窓口の存在を知らされる方もいる。そういった方々から、不平の声を頂いている事も事実なのだ。
私は突然、自分が恥ずかしくなった。
「さ、差し出がましいことを言って申し訳ありません……っ」
パソコンに向かって、頭を下げる。
隣のオペレーター社員が不思議そうな顔をしているみたいだけど、気にしていられなかった。
「いや、謝らなくていいよ。……こちらにも原因があるからね」
……え?
最後の方の、彼のセリフの意味がわからなかった。
戸惑う私に、彼がふいに声をかけた。
「少し聞いてもいいかな?」
若干緊張しながらも、咄嗟にはいと答えると、彼はこほん、と一つ咳をした。
心なしか電話越しの雰囲気が変わったような気がする。
少しの沈黙が流れた。
「あ、あの―――?」
フリーダイヤルなので、電話料金はかからないが、沈黙に耐えられなくなった私は声をかけた。
すると、彼は意を決したように、唐突に話し始めた。
「あ、いや……えーと、もしかすると、規則で答えられないかもしれないが……麻倉さん、かな。君の名前を教えてくれないかな? フルネームでという意味で」
そう言われて戸惑った。
彼の言う通り、オペレーターは通常、苗字のみ名乗り、他の個人情報については口にしてはいけない決まりになっている。
ストーカーまがいの電話や、オペレーター個人への言葉の攻撃を避けるためだ。
だけど……。
私はどうしても、このお客様が気になった。
何より、うっとりするような、優しくて落ち着いた声。
無意識に、心を穏やかにしてくれるようなその声に。
危ない人では無いと、直感で思ったから。
「あ、いや別に、クレームをつけるとかそういうわけでは無いんだ。ただ聞きたいだけで。やっぱり駄目……かな?」
彼は心底残念そうに、ほぼ諦めたような口調で言った。
大丈夫だろう。この人は。なんだか不思議だけど、そう思う。
「麻倉……夕子と申します。」
私は自分の名前を名乗っていた。
本来ならいけないこと。だけど、どうしてかそうしたくなったのだ。
「麻倉……夕子さん、か。ありがとう。教えてくれて。また君に電話が繋がってほしいな。それじゃあ、これで。本当にありがとう」
え?
一瞬、戸惑った瞬間に、電話はプツリと切れてしまった。
私は少し寂しい気持ちになりながら、また彼の、高村さんの声が聞けたらいいのに、と思った。
毎日何百とかかる電話の中で、彼とまた出会うのは奇跡に近いとわかりながら。
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