to other world【トゥ・アダ―・ワールト】

高松シア

プロローグ:まだ起きてない

【■/■■■/■■■/■■■/■■■■】



 ただ登り続ける。

 どこまでも続きそうな山路やまみちを。

 脚を撫でた雑草も、鼻先をかすめる羽虫も、波打つ木の根も、きつい勾配も、全てが歩く速度を緩める理由足り得ない。

 手に引っ提げた酒瓶が、苦しそうにたぱたぱと音を立てる。液面に泡ができているが、気にも留めずに先を急ぐ。どうせ、神に味なぞ分かりはしない。

 時刻は太陽が頭頂部を覗かせた程度で、まだまだ辺りはくぐもった薄暗さを保ったままだ。地面は湿り気を帯びていて、時たま足が枯葉に引っ張られる。爽やかだった草本の青い香りも、今では肺を冷やし体を動かすためだけの物にしか感じられない。汗をぬぐう代わりに腕を振る。転ぶ前に足を前に。足と横腹が痛むのは、思考をトバして登るためだ。

 その痛みに甘んじて、他の痛みは忘れとけ。

 何も考えるな。全て忘れたふりをしろ。

 考えてしまったら、きっと足が止まってしまうから。

 思い出してしまったら、きっと座り込んでしまうから。

 きっと、さきへ進めなくなるから。

 背中で朝日を受け止めながら、立ち止まらず、振り返らずに進んだ果てに、


「——あった」


 果たしてそこには、祠があった。

 目的地頂上だ。太陽の位置も、おそらくは良い感じ。

 辿り着いた安心感と無視し続けていた限界が、一緒に一気に覆い被さって膝を折ろうとしてくる。

 だが、まだだ。やるべきことは、遂げてない。

 何度も大きく息を吸って、動ける程度にまで体を慣らしていく。

 祠、それを中心としたくるぶし程度の草原くさはらが、暁闇の中、そよぐ風に揺れている。そしてそのすぐ上では、瑠璃から琥珀への交ざりの空が際限なく広がっていて、その上に零れた昏い雲の群れが所々に散らばって、端の方を掠れさせながら一方向へと流されていく。

 ――何故だろう。この、目の前に広がる世界に、懐かしさを覚えるのは。

 両腕を大きく開いて、冷たい風を胸いっぱいに吸い込みながら、そんな事をふと思った。

 草むらを踏み均しながら、祠へと近づいていく。

 徐々に顕な全貌は、靡く草葉の内に一つ、堅く揺るぎない印象を与えた。

 目の先ほどの高さで、見た目は石造り。裾から伸びた植物の蔦が、幾筋かふちを装飾のように屋根まで伝わって、申し訳なさげに軒先から若芽を垂れ下げている。

 頂部に彫刻の雄々しき狗がなさっており、豪奢な御扉みとびらから底部に届くまで、鬼おろしの如き鱗の龍が祠に巻き付く形で彫られている。

 日の光が、辺りに眩しい色を加え始めた。

 振り向いてみれば、市街地の先にある海の端を朱く灼きながら、太陽がその全身を晒しつつある。


 影が、迫っている——が、まだ猶予はある。


 丁寧にいこう。

 重厚な観音開きの扉に手を掛け、慎重に開いていく。

 鍵は付いていなかった。

 そこには、黒曜石の代わりにエメラルドで作られた打製石器のような物が、それも指先から肘ほどの丈の物が、怪しげに薄明りを散らしながら、紅い盃のただ上に悠々と浮かんでいた。向こうの壁が翠玉の色を伴って、さまざまな角度で透けて見えている。

 この物体が何なのかは知らない。ただ、書かれていた事を遂行するだけだ。

 日の光が石をとおるよう扉を大きく開いたままにして跪き、大盃に酒を注ぐ。

 石に対して、傅くように。

 黙想し、精神を整えたのちに、祈りを捧げる。

 祈るのは……何だろう。何を祈れば良かったんだったか、忘れてしまった。

 それでも何か、救いを求めるような気持ちで、肚の中に蟠っている気持ちを、みんなみんなぶち撒けて、ひたすらに祈った。

 ――否、どちらかといえばこれは懺悔だろうか。何に侵された訳でもないのに、ただ、救いを求めた弱い自分を、殺したかった。そのために、ただ願った。

 その次の瞬間には、影が、世界を包み込んでいた——周囲一帯をの影にが覆いつくした、ただそれだけの話だが、この場所にいると尚更、包み込まれる感覚がいやに強調されるようだった。


 ……ふと。

 唐突に。

 石が発光したように感じて、思わずそちらに目を上げる。

 太陽光の反射ではもちろんない。電球のように確かな瞬きがあった。

 じっ…と石を覗き見る。

 石の表面に顔が写る。朝とかによく出遇う、よくよく見知ったえない顔。

 そのはずだ。

 だが。

 だが、そこには、生まれた時から、毎日いやというほど直面してきたモノとは異なるモノが、確かな異常がそこにはあった。

 前髪が違う。

 自分の髪型よりも、あからさまに長くなっている。整え方も少し雑か。

 鼻が違う。

 筋が少しシャープになっている。あと、ちょっと高いかも。

 口が違う。

 口元が少し緩く、唇は瑞々しい。よくケアされている。

 目が違う。目つきが違う。

 眉が細く、まつ毛が長い。

 目尻が柔らかで、それでも怜悧で強い意志を感じさせる目だ。

 自分で言うことでもないが、毎日は合わせたく無いような目の在るべき場所に、

別の——


 目が、あった


 確かに此方を見ている。そして、向こう側も目が合っていることに気が付いている。

 何故かはわからないが、確かな確信があった。

 顔をさらに近づける。

 もしも自分が女であったのならば、こんな顔だったろうな、と想像するような顔だった。

 いや、もしもじゃない。まさに、だ。

 まさに、女の自分。

 そう思いついたら、もう、絡めとられてしまう。

 身を乗り出して、見蕩れるように見つめ合った。

 どうしてか、どうしても、目を離すことができなかった。逸らすことができなかった。

 向こう側もおんなじように目を離さず、逸らさなかった。

 瞬きすらしなかったし、していなかった。

 なぜ?だなんて思わなかった。自分の姿が映らない事には、毛ほどの疑問も生じなかった。

 そうあってこそ、自然であるとさえ思えた。


 鏡を見ているのだと思った。


 …

 ……

 …………どれほどの時間が過ぎ去ったか。一分だろうか、一時間だろうか。時の流れを感じない刻を過ごした。影はまだ、辺りを覆っていた。

 不快な時間ではなかったが、愉快でもなかった。ただ不思議な感覚だった。

 非現実の誘惑が、非日常の訪れを予感させた。

 だが、それでも事件を起こすのは、確かな現実の積み重なりだった。

 まず、体勢が悪かった。

 きつい前傾姿勢で跪いていたため、あまり使わない筋肉を酷使する事になり、不安定な状況を作り出すことになった。

 そして、すぐ近くに酒瓶を立てて置いていた。

 蓋をせずに。

 阿呆が。

 もう少し遠くか、蓋をして横たえて置いておけばこうはならなかったはずだ。

 未来は違っていたはずだ。

 ただ、同時にこうも思う——何をした所で、結局はああなっていただろうと。

 結局は、同じ結果に収束していただろうと。

 もし運命というものがあるのならば、是非とも教えて欲しいものだ。


 俺は、どうすればよかったんだ?


 不安定な姿勢に耐えきれず、ほんのちょっぴり身を捩った。その時、ずれた脚に酒瓶が触れた。酒瓶はこちら側に倒れ込んできた。見つめ合うことに奪われていた意識が、電撃的に蓋をしていない事を思い出した。反射的に、そちらを向こうとして、体勢が崩れた。

 ——前方に向かって倒れこんだ。

 前方というのはつまり扉を開いていた祠のことで、中に浮いている石のことで、映っていた自分の姿に向かって、ということである。

 どんな抵抗も、思いつく時間すらなかった。

 そもそもの話が、石を見つめる体勢だったのだし、結果は言うまでもないだろう。


 つまり石と——それも唇に、接吻する形となった。

 ファーストキスは、血の味がした。


 もちろん、石を対象に加えるのなら、ファーストキッスなんぞゼロ歳で済ましている。

 それでもこんな言い方をしたのは——俺が童貞ガキだからか?

 未だ現れぬ運命に期待しているからか?

 だったら、勘違いすんなバーカって、そんな風に言われたとしても、仕方がない気もする。

 間違っているのはお前だって言われても、納得できる。

 錯覚めいた幻想に、都合よく運命を見出して、夢に似た現実を、妄想と勘違いしているのかもしれない。

 ——それでも、あの時触れた唇は、確かに柔らかかったのだ。

 童貞が勘違いしてしまうのも、無理はないと思わないか?

 どうせなら、幸せな方を選びたいじゃないか。


 石に接触した、石と接吻した後は、何に気が付く時間もないまま、そのまま気を失った。

 何も知らない少年は、何もできずにただ沈んだ。

 まるで、眠りに落ちるみたいに。

 血の味だけが、最後まで舌に絡んでいた。

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