崖の上の猫

@ShiinaSekai

崖の上の猫

「ねえ、猫さん。君はサーカス団の象の話を知ってる?」


波がその体を岩に打ちつけ、水の足らない絵の具の青が白い泡に変わる境界線。40メートルを超える崖の上。磯の香りを運ぶ強い海風。崖の上は、私の身長くらいに伸びた草が風に揺れていた。その場所は巷で有名なであった。


「知らないの?あの灰色の象が出てくるやつ....。」


女子高生の彼女は、猫である私にそう話しかけた。


「灰色の象.......。知らないなあ〜。でも、象ってやつは全部灰色じゃないのかい?赤とか、ピンクとか、青とかの象がこの世にいるのかい?」


「いや、そこはあんまり重要じゃないの。まあ......でも、その象は赤とか、ピンクとか、青とかじゃなかった。ただの灰色の象だったの。自然じゃ肉食獣くらいしか興味を示さないし、動物園ではただの象として見られるだけのただの灰色の象ね。」


彼女はこちらに向けていた視線を、遠くまで広がる青色に向け、どこか寂しい口調で話し始めた。


「でね......その平凡で何もない象はある時地元で有名なサーカス団に拾われてね、ちょっとした芸をすることになったの。調教師が投げたリングを鼻に通す.......まあ。輪投げみたいなものね。その芸をするたびに観客はとても喜んで、そして、その象はそんな観客の喜ぶ姿を見て自分が誇らしくなったの。『平凡で何もない自分が褒められてる』ってね。でもそんな時間もすぐに過ぎてしまって、いつしかその芸も観客に飽きられて、誰も興味を示さなくなった。どこか神秘的で、内から湧き出てくる高揚感に口角を上げた観客は、もうどこにもいなくなったの。そんな観客を見て象はあることに気づくの。ねえ、猫さん。何だと思う?」


彼女は青色に移していた視線を急に私の方に向けた。彼女の黒い瞳と目が合う。


「そうだな......。まあ、観客はすぐに何かに飽きちゃうつまんないやつってこととか、所詮、芸なんてものは一過性のものに過ぎないってことかい?」


私はそう答えた。すると彼女は、少し微笑んで口を開いた。


「ブッブー。猫さん、不正解。正解は.....象が気づいたのは芸をする自分にしか観客は興味がない.....価値がないってことね。つまり芸ができる象なら、どんな象でもいいんだってことなのよ。その象よりも目つきが悪くても、体格が小さくても、鼻が短くても、どんな像でもいいの。」


彼女はそう微笑んで答えた。それから彼女はまた、遠くまで広がる青色に視線を向け、その象の話を続けた。


「でね.....その象は芸をする自分にしか価値がないって気づいて、今度は火のついた棒を飛び越える芸をするようになったの。70センチ、1メートル、1メートルと50センチ、最後は2メートルの丸いリングを飛び越えるのね。そのリングを飛び越えるたびに、彼は毎回、足とお腹に軽い火傷をして、でも観客はそんな象を見てとても喜んだ。象はまた、そんな観客の姿を見て自分が誇らしくなるの。輪投げで感じたあの感覚ね。誰かに認められたようで、世界の色が鮮明になる......そんな感覚ね。でも、運命は同じ線路を辿るようで、いつしか、また観客に飽きられて見向きもされなくなった。象はまた自分には価値がないって気付かされたの。結局その象は、誰かからの偽りの愛を求めるあまり、自分に嘘をつき続けていたのね。自分自身の価値を認めてほしいっていう本心に。その象が私だったの。」


彼女の髪が地面に広がる草と共鳴する。岩にぶつかる波の音が私たちを飲み込む。彼女は冷たい声でそう話した。永遠とも思える時間が過ぎた。それから、彼女はまたゆっくりと口を開いて言葉を発した。


「でも、所詮は絵本なのよ。絵本にはハッピーエンドは付き物なのね。その象はそんな状況が苦しくなって、サーカス団を抜け出しちゃうの。『もうどうにでもなれ』って。遠くへ.....遠くへ。そして町外れの小さな一軒家まで走ったの。暗い森に一つの明かり。そこで、運命的な出会いを果たすの.....。その一軒家に住む老夫婦と1人の少女はそんな彼の状態を見て、ご飯を用意して、寝床を用意して。そしていっぱい話しかけて........。でもまあ、1番は彼が求めていたのもを叶えたのね。」


彼女が続ける。


「物語は最後。微笑んでる象の上に少女が乗った一枚の絵で終わってるの。そしてそのページには『象はずっとずっと幸せに暮らしましたとさ』って書かれてるの。そこが私と象が違うところね。所詮は絵本なのよ。人生と違って、ハッピーエンドが保証されてるの。でも1番私と違うところは、象は1番大切なものを失わなかったの。」


彼女は冷たい口調で吐き捨てるように話した。彼女はずっと長い間、遠くまで広がる青色に目を向けている。

彼女は自分に嘘をつき続けていた。そして、そんな彼女の本心を知ってくれる人はいなかった.......。


「でもほら、君はまだ高校生なんじゃないか。象も悲しみのどん底にいる時は、ハッピーエンドが来るなんて思ってもないだろう。しかもこの世界には何億人と人がいるんだ。誰かが君を理解してくれなくても、他の誰かがきっと理解してくれるはずだ。それに、その象はは芸ができる素晴らしい象じゃないか。行動から言動、全てが自分を形作っているんだ。なんでそんなにも自分に嘘をついていたとか、自分には価値がないって象は思うのだろう。観客は象のその行動を喜んだんだ。そりゃ地元のサーカスなんてね........世界は広いんだ。象はそんな風に思わなかったのかい?私は不思議でね。」


私はそう言った。すると彼女はこちらに視線を移して、口を開いた。


「いや.....違うの。象はそんな風には考え付かなかったと思うの。苦しみどん底だもんね。私もそういう自分は自分であると言って励ました。誰かが愛してくれる瞬間は、自分が愛される瞬間でもあると。でも、象と私は似たもの同士で.....でも全然違う。象は芸ができる自分という存在から切り離した自分自身に対する愛を求めていたでしょ。でも.....それだけなの。私は自分自身に対する愛を求めるあまり、そしてそれを意識するあまり............できなくなったのよ。」


「何ができなくなったんだい?」


私がそう聞くと、彼女はゆっくりと微笑んで答えた。


「ほら、言霊ってあるじゃない。だから、私はその言葉を言い切れないの。私はまだ私を信じてるの。」


彼女は微笑んでそう答えた。

ああ、そうか。そういうことか。彼女はここに来た理由は、自分自身の価値を認めてくれる人がいなくて、彼女の中の一本の糸が切れたわけではないんだ。それはもっと大きなものなんだな。普段なら意識しないようなそんなことだ。きっとそれは彼女にとって、一生をかけても修復できない糸なんだな。

それから彼女は崖の方へと進んでいった。海風に煽られながらゆっくりと一歩ずつ。

黒い古びたローファーを脱いで、一面に広がる青色に投げ込んだ。それから靴下も脱いで同じように投げ込んだ。

「家族は元気にしてるかな........。うん元気にしてる。」彼女はポツリとそう呟いた。それからこちらに振り返って

「じゃあね猫さん。話を聞いてくれてありがとう。」

そう言った。

「私は何もしてない......。もし君の気持ちに整理がついたんだったらそれでいいんだ。」

私はそう返した。

彼女は崖の下を覗き込んだ。青と白の境界線が瞬間ごとに変わる......。強い海風が彼女の髪を揺らす。彼女は怖気付いているだろうか。いや、あの表情は違うな。ぼんやりとした多幸感だな。

でも私はそんな彼女の様子を見てどこか違和感を覚えた。ぼんやりとしたものだ。それがどうであっても私にはどうすることもできないし、やりたいとは思わないが...。


「最後に質問させてほしい。」


私はそう声をかけた。彼女は視線を崖の下からこちらに移した。私が尋ねる。


「君は本当に死にたいのかい?」


彼女はゆっくりと微笑んで、また視線を崖の下に移した。それから、崖の下をずっと長いこと見つめた。ずっと....。ずっと.....。

「猫さん。話を聞いてくれてありがとう」彼女はそう言った。

彼女は足からそっと落ちた。物理法則に従って。

彼女は最期まで自分に嘘をついていたんだな。1番の嘘を。

もし彼女が何かの間違いでこれからも自分に嘘をつき続けるとしたら今度は頭から落ちれるように。そして、もし彼女が何かに生まれ変わるのだったら、そうだな.......純粋なものがいいだろう。

自分に嘘をついてもいいんだ。どんな酷い嘘も。いつかその嘘はゆっくりと溶けて誰かが癒してくれるから。でも彼女は嘘をつき続けて.......できなくなったんだ。それがもう修復できないくらいに。

そうだな......だから、とびきり美しくて透き通った、決して気取らなくてありのままを愛してくれる、そしてありのままを........ありのままに愛せる、そんな純粋な何かに。


『誰もが何かを抱えている』


私もそうやって誰かに願われたのかもしれないな......。私がここにいるのは。












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