第4話哀愁の冷やし中華

幹事長室を後にし、ふと腕時計に目をやると、時刻は正午を差していた。


そういえば、今日はまだ食事をしていなかった。あんな大声を出した後なので、よっぽど腹が空いていたらしい……私の腹の虫がグウと音を立てていた。


昼食はいつも外食である。私はあまり食べ物に執着が無いので、目に付いた店にふらりと入って食事を採る事が多い。


今日もそんな気分で建物の外に出ると、この近所にある食べ物屋をきょろきょろと物色し始めたのだ。


すると……


「あ……」


あんなやり取りをした直後だからだろう……ある一軒の店先に立ててあったに、思わず目が向いてしまった。



『冷やし中華はじめました』


「また、ずいぶんと早いな……まだ五月なのに」


しかし、今年の夏は涼しいのだ。


その事実を知っている私にしてみれば、冷やし中華を始めるのが五月だろうが八月だろうが、大した違いを感じられないのも確かだ。



          *     *     *



結局、その店に入った。


「いらっしゃいませぇ」


あまり混んでいないその店は、年配の夫婦が営んでいる店のようだった。


ほどなく、お盆に水とおしぼりを載せて、愛想の良さそうな顔でおばさんがこちらにやって来た。


「いらっしゃい。何になさいますか?」


何を注文しようかと壁にあるメニューに目を移すと、再びあの文字が私の目に入った。


『冷やし中華はじめました』


「もう、冷やし中華始めたんですね」


「うちは、GWが終わったらもう冷やし中華始めるんですよ。でも、ちょっと早いかもしれないねぇ」


そんな事を言って、私に向かってにっこりと微笑むおばさん。


「それじゃ、その冷やし中華を一つ下さい」


「はい~ちょっと待っててね」


なんとなく、その時の気分で冷やし中華を注文してしまった。


数分位待っただろうか……おばさんがあの笑顔と共に、冷やし中華を持ってやって来た。


「はい~お待ちどうさま、ごゆっくりどうぞ」


私は、おばさんに軽く会釈をすると、届けられた冷やし中華に目を移した。


「うん、冷やし中華だ」


なんとなく、そんな独り言をぽつりと呟いた。


そして私は、割り箸を手に取り、黙々とその冷やし中華を食べ始めた。


冷たい黄色みがかった麺。そして細切りにされた玉子とキュウリとチャーシュー。そして紅生姜。


私は、あまり食べ物に執着が無い。


この冷やし中華も、決して不味いとは思わなかった。


けれども……


無表情のまま冷やし中華を食べる私の様子を見て、カウンターの向こうからおばさんが話し掛けて来た。


「やっぱりかもしれないわねぇ」


冷やし中華は暑い夏の方が美味しいか……


だけど、そんな夏はもうやって来ないのだ。


「うん、これは冷やし中華だ」


私は、それを自分自身に言い聞かせるように、再び呟いた。








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