分析道と魔術

榊 薫

第1話 分析と工程

 芥川龍之介の短編小説「魔術」の中に登場する婆羅門(ばらもん)の秘法を学んだインド魔術師ミスラ君は、「魔術は誰にでも造作なく使えます。」と言いかけて、真面目まじめな口調になって、「ただ、欲のある人間には使えません。」と言っています。

 現役時代に、水質汚濁防止法という環境規制ができて、規制値を守らない工場では排水停止、改善命令が出されることになったことから、各種工場の排水を分析する依頼が次々と数多く舞い込んできて、私はそれらを処理しなければならなくなりました。

 そこで、魔術のような分析を目指して、欲張って一度にたくさんの数を分析する方法を編み出すため、数多く失敗した苦い経験がありました。その中には、当時、計算するのも電卓が高価な時代で、計算尺を使っていましたので、桁違いの値を出してしまったこともあり、その時は、平謝りに誤ったことなどの思い出もあります。

 退職後、排水を分析する必要が起こり、やるからには、失敗しにくい方法を見つけなければならなくなって、ミスラ君の言葉をヒントに取り組むことにしました。

 昔やっていた分析方法は、今では高額な分析装置を使う方法に変わったため、JIS規格からほとんど外されており、使われていません。

 しかし、作業が煩雑なだけで、結果に問題はないことから、昔の作業を思い出しながら、今はパソコンで計算できることもあり、入力さえ間違えなければ計算は問題なくなるので、やってみることにしました。

 作業が煩雑であっても何が影響して失敗するのか、気づきにくいミスを見つける方法はどうしたらよいか、どうしたらミスを減らせるか、光明を見出すため失敗やミスの原因を解明することにしました。


 分析方法の一つである、吸光分析法という、溶液に光を当てその濃さから濃度を測る方法を使うことにしました。なぜ“分析が魔術”なのかというと、測ろうとする水の中にはいろいろな成分が含まれています。その中から、測ろうとする目的の成分だけ拾い出して、それだけピンポイント攻撃で反応して色を付ける「魔法の薬」を使うためです。 

 分析において「魔法の薬」を効かすためには、異世界で通用する魔術として、最初に透視術のような「予測」を立てることが欠かせません。吸光度分析では精度良く測れる濃度範囲が決まっています。その範囲に入るように、「仮の値を想定」して試料を採取しなければなりません。もし、予測値がその範囲に入らないともう一度やり直すことになってしまいます。無駄な作業をしないためには予測を的中させることが重要になります。

 分析項目が決まると、試料外観の濁り、沈殿、浮上部、色、臭いを確認し、簡易測定でpH、導電率を調べます。

 現役時代に数多くの処理実験を手掛けてきたことを思い出します。政府の規制基準値だとほとんど沈殿が見えず、重金属が100から500 ppmあるとちょうど良い沈殿ができることから、大まかに判別することができます。

 例えば、pHが低くて濁りがあると、有機物やすずの濃度が高い可能性があり、浮遊しているものがあれば油分があります。pHが高くてふわふわした沈殿の量が多ければ重金属濃度が高く、褐色系なら鉄、白色系なら亜鉛やすず、緑色系ならニッケル、白青色系ならクロムや銅濃度が高く、薄く濁った程度なら、金属キレートの濃度が高い可能性があります。酸化剤、還元剤特有の臭いがあれば、前処理で妨害除去する必要があります。

 実際の沈殿は、これらが多かったり少なかったり入り混じり、淡褐色や淡緑青色といったものになっていて単純ではありませんが、おおよそ、測ろうとする項目の「濃度が高そうなのか、そうでないのか」見当を付けます。その結果と導電率とを比べて予測値を立てます。予測する中には、測ろうとする魔術を「隠蔽」妨害するものがあるのかも予測してから分析を始めます。

 このことが、分析をミスしていた時には、予測値とは異なる結果となることで役立ちます。

 庭師や植木職人が、庭木の剪定前に、木の種類と枝の伸び方、日の当たり方など、しげしげと眺めるのと同様です。


 残念なことに、昔から予測できる分析者はほとんどいなくて、例えば、高い値が出て「原因は自分で考えてください」というように、結果の出た理由を説明することができない、単なる機器のオペレーターばかりです。測定が間違っていたのか正しかったのかも判断できません。我国の技術力が衰退してしまう訳です。


魔術をかけるため、一つの分析で結果を得るためには、採取する液の種類として、会社名、日時の確認から始まって、予測から決めた採取量の確認と発色させる容器を確認し、容器に添加した量を確認します。

 ピンポイント攻撃に使う妨害抑制剤、抑制促進剤、発色増強剤、安定剤、発色剤などの各種添加液の調合作業とその添加する量を確かめた上で添加ごとに撹拌を行います。魔術を「隠蔽」妨害するものが入っている可能性があると妨害抑制剤の添加量を増やします。

 同様の手順で、あらかじめ濃度の分かっている標準液についても行って吸光度を測定して、結果をパソコン入力して検量線から分析値を求めます。分析値を得るまで、測定項目によりますが、合計約100~200工程を確認することになります。


 最初は注意深く進めていても、魔術工程が延々続いて来ると、次第に集中力が低下し、ミスしやすくなります。まるで、異世界の「悪役令嬢」ポカやスリープが降りてきて、魔法にかけられてしまうようなできごとが起こります。

 そのまま作業すると50工程で1回ミスすると言われています。しかし、電車の車掌さんのように一つの作業ごとに指差呼称すると、めでたく「悪役令嬢」達の魔法を払いのけてミスが250工程に1回に減ると言われています。

 一目で分かる簡略手順をパソコンに入れておき、それを見ながら作業しますが、ミスが起こります。ミスした工程をメモしてまとめていると、どういうときに「悪役令嬢」達に取り付かれるのか、その対応の仕方が少しずつ見えてきました。

 



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