隣の奥さんは雉かもしれない

蛙鳴未明

隣の奥さんは雉かもしれない

 隣の奥さんは雉かもしれない。毎朝ごみ捨て場で会うときは、人のかたちをしているけれど、私に挨拶をするその口は、小さく尖って下を向く。嘴であることを隠しきれていない。二言三言天気の話をして別れるとき、彼女はいつも曖昧な足取りで、対照的に手はばたばたと忙しい。明らかに歩行より飛行になれている。極めつけは自宅に引っ込んだあとのこと。彼女が扉を閉じると、例外なくケーンと鋭い声が聞こえて、豪雨のような羽ばたきが私の身体を左右に揺らす。背後の森からヒワの大群が飛び立つのは、羽ばたく彼女に従っているのではないか。何せ雉は野鳥の王なのだから。


 「隣の奥さんは雉かもしれない」。この田舎町に引っ越してすぐに抱いた疑念だ。今では、彼女が雉であることにほとんど確信を持っている。しかし彼女の口から身の上を聞いたわけではない。実際に彼女が飛び立つところを見たわけでもない。眼の悪い私には、空飛ぶ彼女の影を見つけることすら難しい。確証がない以上、疑念を疑念のままくすぶらせておくほかない。それは疑う者として最低限のマナーであり、彼女への礼儀だ。しかし、そろそろこれを確定形に直すべきなのではないか。なにせ越してきてから三年も経っている。未だ進捗無し、では示しがつかない。誰に示しをつけなければならないかはうやむやにしておくとして、とにかく私は痺れを切らした。もう、いつ諸行無常の波に彼女や私が攫われてしまってもおかしくない。初対面の際、精悍なスポーツマンだった彼女の夫は、今や達磨だるまのようになって見る影もない。私の夫もそうやって死んだ。機を逸する前に彼女の正体を捉えねばならない。


 材料はステンレスの檻、バネ、麻紐。加えてナッツを少々――好物だといつか彼女が言っていたからだ――それらをちょいと組み合わせれば、即席の罠が完成する。翌朝早く、それを森の何ヶ所かに仕掛ける。奥さんが雉なら、変化したあと必ず森に行くはずだからだ。「雉は森で暮らす」と図鑑に書いてあったのだから間違いない。


 夕方、六つまでは空っぽだった。茂みを割り、最後の罠を覗き込む。果たして雉がそこにいた。赤の頭はもう一つの太陽のよう。暴れる翼が黄昏に撫でられ瑠璃るり瑪瑙めのうのように煌めく。細長い首はたおやかに揺れ動き、深海のユリを幻視した。ケーンと高い鳴き声は龍笛りゅうてきを思わせ、白目がちの無機質な眼に確かに宿った情の深さに私はよろめく。二度、三度尻餅を着きながら、檻をそろそろと茂みから引き出す途中、私は幾度もあたりを見回した。私以外のなにものかにこれを見られやしないかと、鼓動が苛立ってどうどうと響いた。草葉を払うや否や、檻を毛布で何重にも包み、神々しさを布目に封じる。ただでさえ低い身をさらに低くし、被さるように檻を抱えて運ぶ。端から見れば滑稽だろうが、この檻の中身から視線が外れるならそれでいい。


 玉の汗を流しながら玄関にそれを置き、隣の様子をうかがう。窓の内は暗く、人の気配がない。庭には洗濯物が干しっぱなしになっている。普段ならもう取り込まれているはずの布切れたちが、鯉のぼりのように揺れて、物干しからの脱出を試みている。当然だ。隣の男は仕事に出ている。奥さんはここにいる。あれへ手をかける者は誰もいない――思わず緩む頬を自由にさせて、私は戸を閉める。宵の暗がりにあっても、檻の包みは明るく光って見えた。雉が毛布の内側で輝いているのかもしれない。いてもたってもいられなくなり、毛布を裂いた。雉は光っていなかった。檻の隅に丸まったまま、気だるげにこちらへ視線をよこした。それは、隣の奥さんがゴミ捨て場の戸を閉めるとき奥のゴミが崩れないか確認するさまに似ていて、間違いなく雉は彼女であるようだった。


 どこかで車のドアが閉められた。我に返るともう玄関は闇に沈んでいて、脇の小窓から隣家の常夜灯がぼんやりと光っているのが見えた。あの達磨のような男が帰ってきたのだろうか。彼はすぐ、妻がいないことに気付くだろう。『世紀の大誘拐』という見出しと自分の顔写真が浮かんだ。さて、この檻をどうするか――ほのかに輪郭をとったそれの中で、微かに光る緑と青、そして闇を放つように赤い頭。唾が溢れだすのを感じた。そういえば図鑑に雉は旨いと書いてあった。


※※※


 翌朝、ゴミ捨て場に奥さんはいなかった。ああ、やはりとため息を吐く。罪悪感はない。ただ、そう、毎朝のやり取りで紡がれてきた「場」を消化したことに満足感を覚えている。あの美しさをわがものにしたという満足が、私の口角を突き上げる。くつくつと喉を震わせながら、晴れ晴れとした気分で、私は膨れ上がった生ごみの袋をコンクリートの上に置こうとした、その時。

若干元気のない声が鼓膜を叩く。びくりと震えた私の手から袋が落ちて、どさりと音を立てる。


 今日も暑いですね。


 笑いかける奥さんは、昨日と何ら変わっていないように見えた。なら、私が昨日捕らえたものは一体――動揺しながらも、当たり障りのない挨拶を返す。ゴミを置く奥さんの横顔は、少しやつれて見えた。


 ため息を吐いたりして、どうしたんです。


 聞くと、彼女はまたため息を吐いて手を頬に置いた。昨日の雉が見せた毛づくろいによく似ていて、もしやこれは夢ではないかと思う。しかし、ひそかにつねった手の甲は痺れるほど痛かった。


 出張に出た夫が帰ってこないんですよ。昨日には帰るはずだったんですけど。連絡もないし……


 それは心配ですね、と言いながら私は凄まじい吐き気を堪える。私は昨日、あの達磨のような男を――確かに脂は乗っていた。確かに弾力があった。しかし、断じてあれほど醜くなかったはずで――そういえば、色鮮やかな方がオスだと図鑑に書いてなかったか。耐え切れず、私は身体をの字に折った。身を支えてくれる奥さんの手のひら。それが私の冷えた肌を侵食していく感触に、二度、三度えずいて透明な液体を口から垂れ流す。コンクリートに跳ねたそれは瑠璃や瑪瑙のように朝日を反射した。


 おうい、と聞こえて目を上げる。あなた、と奥さんが飛び跳ねる。達磨のような男が歩いている。いよいよ意味が分からず、吐き気すら飛んで消えていった。こいつを食っていなかったのはよしとしよう。奥さんでなかったことはしとしよう。何を食べたか分からないこの状況をどう評価すればいいのか。あれは私と無関係な他の誰かだったのだろうか。もはや、人でも何でもない野生の雉だったのだろうか。たらたらと昨日摂取した油を口の端から垂らしながら、私は幸せそうな夫婦を見つめる。

 どこいってたのばか、と腹を叩かれながら、ごめんと笑う彼はカバーの掛かった黒い檻を抱えている。何かがうごいているのが見える。緑の目が私を見返した。


 前から欲しいと言ってたろう


 そう言って男は檻の蓋に手をかける。その拍子に留め金が外れ、獰猛な何かが檻から飛び出す。猫とも犬ともとれないそれは、慌てて捕まえようとする二人の手をかいくぐり、私に向かって飛び掛かった。牙を剥いた真っ赤な口が眼前に迫る。私は雉じゃないぞ――思わずあげた声は甲高く、龍笛のように朝を貫いた。ヒワの群れが飛び立った。

 

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