いろはにほへとふぇありゐてゐる

葵鳥

 遍くものはときめくもの。遍くものは空めくもの。

 この星のあらゆるものは美しくはあるけれど、どれもこれも確からしくない。

 夜空を絡め取るような怪奇なる電線の束。明滅する街灯に群がる蛾の群れ。傍らで、朧雲が月に帳を下ろす。民家の窓に吊されるは手作りのてるてる坊主。雨上がりのじめじめとした空気に苔が蒸して、夜風がそれを拐かす。それ故か、緑の匂いは何処か徒然としている。

 宵の静寂に、からんころんと下駄を鳴らす。月明かりが幽かに照らす夜の町は、文学的情緒に富む。さながら、現実が嘘を吐いているように凜として。

 だからぼくは文学が嫌いだ。

 言葉如きに、この世界の美しさは語れない。語られて堪るか。言葉は現実が本来持つ趣きを容赦なく殺す。残るのは、現実には似ても似つかぬ外面ばかりの贋作である。

 蛾は何色だ。

 弓張月か満月か。

 てるてる坊主の表情は。

 紛い物ではどうしても伝わらないものがある。絵画や写真のようにはいかない。ぼくが今歩いているこの夜景色と、読者諸兄が前頭連合野に描いたであろう景色の間には、埋めようのない溝がある。

 紫陽花は物憂げに星月夜を見上げる。滴る雨の雫はまるで涙のようであった。

 駄文である。けれど少しでも好ましく思われたのならば作家冥利に尽きる。

 しかし、実物はもっと美しいのだ。こんな陳腐な言葉じゃ語れない程に。紙とインクの匂いがするだけで、それは何処とも知らぬ遙か遠くの出来事だ。この手では決して掴めぬ幻。しかし実に腹立たしいが、蜃気楼は大抵美しいのである。

 ぼくに絵描きの才能があれば、克明にこの世界の魅力を描き出せた。

 ぼくに音楽の才能があれば、ぼくの主張を旋律に乗せて、より人の心に訴えかけられた。

 けれど、そのどちらもぼくには無かった。才能なんて無かった。人より少しだけ言葉を紡ぐのが巧みであることを、ぼくは決して才能とは呼ばぬ。詭弁弄すは何故か。簡単である。ぼくが生まれながらにして敗北しているからだ。認知的不協和。魂にこびりついた負け犬根性が、せめて言葉の上だけでも己を正当化しようとしているに過ぎぬ。こんなことを繰り返していたから、いつの間にか人よりも戯言を操るのが巧みになっていただけのこと。これを如何様にして才能と呼ぼうか。曳かれ者の哀しき防衛手段である。

 言葉は諸刃の剣である。他者の心を傷つけることは可能だが、徐々に徐々に己の心をも蝕んでいく。罵倒とは、他者を傷つける快楽と自分を傷つける快楽、その両方を一挙に味わえる至高の悦楽である。これに依存すれば最後、身も心も滅ぼす。

 しかし、どれだけ他人を呪おうとも奴らは何処までも幸せそうであった。それも当然である。言葉なんて、口に出さない限りは何処にも届かないのだから。心中でどれだけ呪おうと心中とはいかない。ぼくが勝手に言葉の毒に溺れていくばかりであった。

 だからぼくは言葉が嫌いだ。武器として使い物になりゃしない。

 ぼくに持っていないものをたくさん持ち合わせている癖して、それを謙遜し、あたかも大したことないとでも言いたげな態度を取るのはいい加減にしたまえ。ならば、その大したことないものに狂気めいた憧憬を抱き、不必要な執着を見せるぼくは何者か。

 枯れ枝のように撓垂れた猫背。覇気の感じない目付き。からんころんと鳴る下駄。みすぼらしいボロボロの羽織を羽織っている。片手には、最早何の味もしない温い酒。

 要するに、阿呆である。

 哀れだと蔑むか。大変結構。考えすぎだと嘲るか。勝手にしろ。

 話がずっと脱線している。けれど構うものか。ぼくの言葉の大抵は戯言だから、そこに混ざる一抹の誠を拾えるか拾えぬかは聞き手の器量である。

 本なんて紙切れだ。

 世界なんて唯のごみだ。青色のヘンテコ球体の上に生まれた、やたら頭のでかい二足歩行のヘンテコ猿が築き上げたヘンテコ文明の上に成り立つ社会なんて、ヘンテコに決まっている。何が知性か。何が理性か。何が霊長類か。竹藪の狭間を縫うようにして掛かる斜陽を見て「あはれなり」とか何とか零すのが文明人の証左か。何でもかんでも多様性という名の下に認めて、明らかな悪性を誰もが違和感を抱えながらも仕方無く溜飲するのが現代人の分別か。それっぽいだけの作品をそれっぽく批評すれば皆文化人か。

 奇跡の青い星の内情がこれでは、ぼくは一体何を信じれば良いのだ!

 彩り豊かな草木が朝露を零し、空が群青色に澄み渡り、東から西へ吹く風が乙女のスカートを捲り挙げるのは何故であるか。ぼくらはこれについて、今一度腰を据えて真剣に議論すべきではあるまいか。

「決まっておろう。浪漫的秩序の維持のためだ!」「地球の自浄作用の一環だとでも?」「如何にも。我らが母なる星にしてみれば、現実主義者などばい菌同然である」「これだからロマンチストは困る。貴様には桜の木の下がお似合いだ。そこで肉体を腐らせながら詩でも詠んでいろ」「ならば貴君は、星の風流の所為を何とする」「単なる、科学に基づいた一つの事象であろう。それ以上でも以下でもない」「現実主義はこうもつまらぬか。もののあはれを知れ!」「あぁ、浪漫に固執する貴様は最高に哀れだ!」

 それからというもの、脳内会議はしっちゃかっめちゃか、それは最早おおよそ会議の体を成さない、喧々囂々の不毛論争であった。目も当てられぬ。未だ口汚く罵り合う我が愛しき分身たちを脳内の片隅に追いやって、ぼくは今一度深い考察に耽る。

 論理が混線している。議論が混戦している。ならば、ここで改めて、コンセントを差し直そう。

 リセット。

 遍くものは煌めくもの。遍くものは嘘めくもの。

 この星のあらゆるものは煌めいているけれど、どれもこれも嘘臭い。

 そもそも、ぼくが小説執筆という不毛な営みに日夜明け暮れているのは、消去法的選択の逢着である。ぼくが何かしらの芸術的才能にさえ恵まれていれば、今日日斯くも絶望的な営みに可愛い我が身を窶してはいない。

 目線を上げる。

 街灯に群がる蛾の一匹が、まるで蝋燭の灯火が消えるようにして、儚くアスファルトへと落ちた。その光景に目を奪われた所為であろう、ぼくは気が付けば足下に咲いていた紫陽花を容赦なく踏み潰していた。真夜中の公園で人知れず揺れるブランコ。その上にはドラ猫が座っている。彼は静かに目を閉じていた。足下の砂が赤黒く染まっている。見れば、自身の身体を引き摺ったと見える血の導線が砂上にあった。どうやら彼は酷い怪我を負っているらしかった。子供に踏まれたのか、それとも辛気臭い思考実験を真に受けた阿呆に被検体にされたのか。どちらにしろ気の毒である。

「お前も大変そうだな、タマ」

 ぼくは隣のブランコに腰掛けて、かといって漕ぐ訳でも無く、夜風に任せて静かに揺れた。錆び付いているのか、鉄の軋む音ばかりが公園に響く。ふと、乙女と桃色の睦言を交わしたくなった。それで、ぼくは自分が今お酒に酔っていることに気が付いた。お酒を飲むと、異性と話をしたくなるのだ。それも無性に。いざ目の前にしたら何も話せない癖して、お酒が入ると強気になる。情けない。

 アルコールがつーんと鼻の奥を刺す。それを合図に、またポタポタと冷たい雨が降り始めた。あの民家に吊されたてるてる坊主は、どうやらその責務を一切果たさぬ無能坊主であったらしい。隣からしていた血の臭いがどんどん薄れて、お酒の匂いも消えた。天から降り注ぐ無限の雫の形が、手に取るように解った。世界がゆっくりに見える。水の雫に映ったぼくの顔は、何とも言えない表情であった。

 酩酊酩酊。メーデーメーデー。 

世界は美しい。それと同等に醜い。ただし、その二面性ひっくるめて尚美しい。

 言葉如きではこの入り組んだ美しさを完全には表現し切れぬのである。だから文学が嫌いだ。神様や、ぼくに絵描きの才能を授けてはくれませぬか。その暁には、この星の浪漫をキャンパスの上に寸分狂わず描き出し、文学の脆弱性を浮き彫りにして差し上げます。

 おやすみ世界。素敵な悪夢を。

 徹夜続きの執筆疲れを癒やすべく、そのまま悪魔のような眠気に身を預けて、ぼくはブランコの上で泥のように眠った。翌日起きてみると、ドラ猫のタマはもう隣におらず、代わりに魚の骨が残されていた。何のこっちゃであったけれど、暫くして、どうやらぼくは酔いと宵に惑わされて、魚の流した敗北の血潮を、猫の怪我による出血と間違えたらしいことに思い至った。タマは怪我などしていなかった。奴は寧ろぼくが羨んで止まない勝者であった。砂上に出来た鮮血の導線は、タマの栄光の道であったのだ。

 雨が優しくブランコという揺り籠を揺らすはずも無く、自然の鋭利なる牙によってぼくは風邪を引いた。本来出費されなかったはずの医療費が嵩み、不毛に万年床で天井のシミを眺める生活を二日間送った。漸くのことで食欲が沸いたので、何か食べようと台所に立った際、まな板の上で冷やしていたはずの鯛が消失していることに気が付いた。

 ぼくは直ぐにピンときた。

 遮光カーテンが、開いた窓からの風に靡いている。ここから例の公園までは存外と距離が無い。これらから導き出された真に驚くべき真実は、ぼくをスーパーの特売セールへと駆り立て、斯の邪知暴虐なる泥棒猫への復讐の炎を焼べに焼べた。

 遍くものは目眩くもの。ただし、在らずは尚目眩く。

 あらゆる存在は美しい。ただし、存在しなけれは尚美しい。

 空に架かった七色の虹を、ぼくは圧倒的な拳を以て握り潰した。

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