食べるために、生きるのだ
灰崎千尋
はじめに
“フードサイコパス”という造語がある。
この言葉が造り出された当初の意味は、「ある食べ物や料理について、その美味しさや一般的な味覚への受けを無視して、現地そのままの本格志向あるいは昔ながらの食べ方を追求するタイプの人間」といったところだったはずである。
私は、これには当たらない。食べることが好きなのは確かだが、「私にとって美味しいもの」こそ至高と考えているので、そのための改良やアレンジは存分にしてほしいのである。だから自ら“フードサイコパス”を名乗ることは長らくしてこなかったのだが、日々暮らす内に、多くの人々は私ほど食への興味が無いことや、私のこだわり方が異常な部類であることを実感し、“フードサイコパス”を他称されることも増えてきた。よって、私の感覚は偏っているのだという自戒も込めて、近頃は自称するようにもなったのである。
さて、そんな私だが、四ヶ月ほど前までの二年間は山陰に住んでいた。
当時のことは『山の陰に暮らす』(https://kakuyomu.jp/works/16817330654745085719)という日記に綴っているのだが、そのほとんどが食べ物のことであり、山陰の食に対する悲喜こもごもを赤裸々(過ぎるほど)に語っている。
中国山地に隔てられた陸の孤島、山陰。見回せば山か田畑か、絵にかいたような田舎の風景が広がり、日本海や宍道湖では魚介類も豊富に獲れる。野菜や肉・魚の、素材は良いのだ。しかし調理がどうも上手くない。外食に行けば八割は期待値を下回るものが出てくる。だからと言って安いわけでもなく、安定した美味しさがあるのは回転寿司くらいだった。私は必死に調査をし、また自分のアンテナを研ぎ澄ますことによって、なんとか美味しいものを探し当てていたのだが、私にとっては他にも様々に水の合わない土地であり、なかなか辛い日々だった。
そんな山陰にもようやく別れを告げ、先日から東京に住んでいる。
高くて美味しいものは勿論だが、安くて美味しいものこそ都会に沢山あるのだと、痛感する毎日である。そして都会にある美味しさの多様性にも改めて目を瞠る。
食事。
それは自分自身を形づくるもの。
栄養として取り込まれ、細胞やエネルギーになっていくのはもちろんだが、心もまた食事によって在り様が変わってくる。ひもじい食事が続けば荒んでいき、美味しいものを食べれば悲しみや疲れも慰められる。今は飽食の時代と言われて久しい。もはや美味しいものというのは、人間にとって最もコストパフォーマンスの良い幸福ではないだろうか。
そう考えるからこそ私はここに宣言したい。「食べるために、生きるのだ」と。
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